高額報酬とその基準について考える
今回は純粋に政治的話題ではありませんが、前々から少し気になっていたことがあるので、取り上げてみます。
先月カルロス・ゴーン前日産自動車会長が金融商品取引法違反容疑で逮捕され、その高額報酬にも拘わらず、更にそれを上回る不当な報酬を得ようとしていたことが、話題に上りました。そして日本でも数億、十数億の年収を得ている人が、企業経営者に何人もいることが、その事件と同時に報道されました。筆者のように40年近く働いて、総額2億円に満たない人間から見ると、まことにうらやましい限りの話です。
もちろんそう言う人はそれなりの才能を持ち、努力をした結果でしょうが、それにしても我々一般人より、百倍も千倍もそう言ったものを持っているのかな、と疑問に思ったりもします。一方ではストックオプションなどの株式の付与による収入とか、会社の業績への貢献によるボーナス的評価もあるのでしょう。いずれにしろ評価基準はよく分りませんが。
タレントやスポーツ選手の世界では、興行収入に多大に貢献したという評価が、報酬の大きな要素になるようです。ゴルフのように試合ごとの順位による報酬という仕組みで、かなり明確な基準があるスポーツもありますが、プロ野球の世界などは少し異なります。以下に巨人の菅野投手の例を挙げてみます。(ただし、特に菅野選手には特別の感情はありません。あくまで一例として挙げただけです。)
菅野選手の年間の成績(勝数)と年俸です。(年俸は推定です)
2019年 6億5000万円
どうでしょう。成績と報酬は比例関係にはありません。所謂年功的な要素が入っているのでしょうね。2016年までは勝ち数が年々減っているのに、年棒は上がっています。もっと言うと、その後も含めて一般人の感覚から言えば、その上がり方が半端ではない、まるで倍々ゲームのようです。
バブル崩壊以降、一般の給与所得者、更には農業や商工の個人事業者に於いても、収入は殆ど横ばいの中で、タレントやスポーツ選手の報酬はずっと右肩上がりのような気がします。もっとも全員がこうとは言えず、そうでなく低収入に喘いでいる人も多いでしょう。そう言う意味では一極にその人気と報酬が集中しているのでしょうか。
ある意味これが資本主義、いや自由経済の特徴とも言えるのかも知れません。ただ金が金を生み、金持ちがますます金持ちになるその現象が行き過ぎると、低所得者の不満はどんどんたまっていきます。フランスでのデモも広く捉えれば、こうした現象での一環でもあります。
我々一般人とは縁遠い世界の人のことを、とやかく言って僻んでも始まりませんが、せめてそう言う人たちは、ビルゲイツ氏のように多額の寄付をするとか、是非社会に貢献して、ゴーン容疑者のように、「なんでそれ以上欲しがるの」と言われないようにして欲しいものです。
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