異常!娘を性暴行の父に無罪判決
「娘を性暴行の父に無罪判決」、この異常な犯罪に対する無罪判決に疑問の声が上がっています。今月15日の朝日新聞デジタルの記事には次のように記されています。
この判決は3月26日に名古屋地裁岡崎支部で言い渡された。19歳だった実の娘への2件の準強制性交罪に問われた男に対し、「娘の同意は存在せず、極めて受けいれがたい性的虐待に当たる」としつつも、「抗拒不能だったとはいえない」として、無罪とした。
「抗拒不能」は「意思決定の自由を奪われ、抵抗することが困難な状態」といった意味。耳慣れない言葉だが、準強制性交罪の要件だ。日本の刑法は「同意のない性交」だけでは罰せず、「暴行または脅迫」を加えて性交した場合は強制性交罪(旧・強姦(ごうかん)罪)に、「心神喪失または抗拒不能」に乗じた場合は、準強制性交罪が適用され、刑の重さは変わらない。
さらに、罪が成立するためには、被害者の抵抗が「著しく困難」になるほどの「暴行・脅迫」や「抗拒不能」が必要だと解釈されてきた。
今回の判決は、被害を受けた女性が中学時代から性的虐待を受け、抵抗し難い状態にあったことと、事件の少し前にも父親が暴力をふるったことは認めたが、女性が父親に「服従・盲従せざるを得ないような強い支配従属関係にあったとは認められない」などとして、抵抗が「著しく困難」とまでは言えないとした。
この「抗拒不能」が証明されないと、有罪と判定されないわけですが、裁判所は次のように判断し、無罪判決を言い渡しています。18日付のデイリー新潮の記事から引用します。
裁判では、あくまで当時19歳だった被害者のとった行動が争点となり、父の前で自分から服を脱いだこと。また周囲の人に父親の送迎を断るよう助言されたのに、車に乗ってホテルに連れて行かれたこと。これらの点から“抵抗しようと思えばできたのではないか”として、最終的に準強制性交等罪は成立しないという無罪判決になったのです。
そして評論家の呉智英氏の言葉を次のように伝えています。
法律を杓子定規に解釈すると、おかしなことが起きるという典型です。性犯罪のみならず、人が犯罪者に直面し要求されれば、怖くて抵抗できないということは多々あります。例えば金を出せ、と脅されて被害者が応じたからといって、それを自主的に渡したというのは無理があるでしょう。それと同じで被害者の女の子も、普段からずっと家庭という逃げ出すことのできない場での暴力下に置かれていたわけで、目の前で起こる出来事に対して、拒む、拒まないという選択ができる状況にはなかった、と考えるのが普通でしょう。
この判決結果について一部テレビでも放映されました。その中でこの父親の様々な常軌を逸した行為が明らかにされ、また同様に父親からの性的暴行を受けた被害者が、その過酷な体験からこの被害者に寄り添った見解と判決への疑問を述べていましたが、私もこの判決への疑問は強く感じます。
日本の刑事裁判に於いて、一度立件されれば、99.9%が有罪判決となります。ただし無罪には出来なくても、加害者の弁護人は当然のことながら検察側の求刑より、罪を軽くしようと奮闘します。それが法の範囲での正常な弁護活動であれば、何も問題がないのですが、一部所謂日弁連の政治的意図を持った弁護人たちは、検察を国家権力とみて、通常の国民世論を逸脱し、法に拘泥し悪用してまで減刑や無罪を勝ち取ろうとします。そして今回は裁判官にも世論逸脱者がいるという好例です。
以前のブログでも述べましたが、被害者の人権等は二の次になりがちです。憲法にも加害者の人権についてはかなりの条項で規定されていますが、被害者の人権に直接触れた条項はありません。
もちろん「疑わしきは被告人の利益とする」すなわち「疑わしきは罰せず」が大原則です。所謂冤罪を徹底的に排除するための原則としては必要でしょう。しかしこの事件では冤罪の恐れなどあるでしょうか。ましてやこの裁判では、裁判長がこうした法の解釈に拘泥した判断をした判決です。性的虐待を実父から受け続けてきた被害者である娘の心境は、いかばかりかと思いますね。
この鵜飼祐充裁判長は、過去に何度も無罪判決を出すことで、界隈では知られた存在だったといいます。それが本当に法と一般常識に則った無罪であればいいのですが、今回のように余りにも常識的な感覚を欠く判決を見ても、過去からそう言う法に拘泥しすぎる傾向は、あったのではないでしょうか。常磐大学元学長の諸澤英道氏は次のように指摘しています。
海外ではだいたい5年、10年と任期が区切られ、再任用の際にはどういった考え方を持っているか、過去の判決を含めて厳しくチェックされます。けれど、日本は『裁判官の独立』という名の下に、上の者が下を指導することはほとんどない。それをいいことに一部の裁判官は野放しにされ、やりたい放題で、最近だとSNS上にブリーフ姿を投稿した方もいましたが、戒告処分に止まっている。ネット社会になり、様々な情報が広く公開された今こそ、一般の人々がおかしいと思ったらどんどん声を上げ、裁判官の見識を問う必要があるのではないでしょうか。
この意見に賛同すると共に、再度声を挙げて言いたいと思います。「加害者の人権擁護はいいが、被害者の人権やその心理的、肉体的被害を加害者以上に気にかけて判決を下して欲しい」、と。少なくとも被害者やその関係者の直接の報復が、法的に禁止されている現状では。そしてこの裁判、検察側は控訴しましたが、控訴審では是非「抗拒不能」を認め、相応の判断をして欲しいと思います。
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