東大入学式、「祝辞」を利用した「持論」のスピーチか
今月12日、平成31年度東京大学入学式に於いて、名誉教授の上野千鶴子氏の祝辞がありました。氏はまず東京医科大不正入試問題を取り上げ、選抜試験に不公正な男女の差別があったことから話をスタートしています。しかしこの差別は医学部特有で、他の学部には見られないとも述べています。
続けて東大の入学者の女性比率は2割以下であって、それは女性の方が浪人を避け余裕を持って受験先を決める傾向があり、東大には女性の方が優秀な人が受験していることになる、と男子への逆差別発言が垣間見られます。
ところが4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%で7ポイントも差がある。つまり「息子は大学まで、娘は短大まで」で良いと考える、親の性差別の結果と断じています。本当に親がそう決めているのでしょうか。
パキスタンのノーベル平和賞受賞者マララさんの話を引用し、彼女が「女子教育」の必要性を訴えたと言う話から、「それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。」と述べていますが、女性差別が宗教的に極めて激しいイスラム国家と、日本を同じ土俵で比較するのには、非常に違和感を覚えます。
マララさんのお父さんが「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えたと言います。それに続けて上野氏は「そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです」。これはパキスタンの現状を述べているのでしょうか、それとも日本の現状としてそれを当てつけているのでしょうか。
その後も「合コン」で東大男子学生はもてるのに、女子学生の場合、退かれるからと言う理由で「東大生」と素直に答えられない、と言った事例を出して、女性の場合は成績の良さと価値が一致しないと述べていますが、とても全員がそのような行動を取るとは思えません。
東大で女子が入れないサークルがある、この一例から東大にも性差別があると述べています。そして社会に出ればもっとあからさまな性差別が横行しているとも述べています。私も確かに性差別はあると認めますが、横行しているとまでは思えませんし、多くは男女がもっている身体的能力の違いによる区別でしょう。スポーツの世界など男女は区別されています。
更には「がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。」
続けて「世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。がんばる前から、『しょせんおまえなんか』『どうせわたしなんて』とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。」
男女差別論から社会の不公正に論を転じ、なぜか努力を社会が潰してしまうような印象操作をしているようにも思います。最後に「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。」と述べて、軌道修正していますが、人によっては上から目線の役人根性的発言という意見もあります。
いずれにしても賛否両論有り、賛同意見もネットでは多く見られます。一方入学の祝辞には相応しくないという意見も多くありました。
私は率直に言って、この機会に男女差別を取り上げ、社会の不公正さを訴えたい、スピーカーの意図を強く感じました。上野千鶴子氏は京都大学在学時代、全共闘の活動家でマルクスに強く 影響を受け、またその活動の中で男女差別を経験した結果、マルクス主義フェミニストとなった経緯があります。したがって、祝辞よりむしろ持論の展開が目的でこの機会を利用したように思います。私の立場からは東大の新入生、特に人生経験もあまりなく女性差別を意識も経験もしていない男子学生には、意味不明なスピーチだったように思えます。
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