戦争を語り継ぐを考える、その2
昨年のこの日8月18日は、このブログをスタートした日に当たります。ちょうど1年が経ちました。ところで今年も8月15日の終戦記念日(戦没者を追悼し平和を祈念する日 )には、テレビなどで大東亜戦争関連の特集が報道され、その中には「戦争を語り継ぐ」に関連した番組もありました。実はこのブログのスタート時の最初のタイトルが「戦争を語り継ぐを考える」でした。今回も同じ内容を取り上げ「その2」として再掲載してみたいと思います。前回に加筆修正した部分は「青字」としました。(今回のブログで少しお休みします)
「戦争を語り継ぐを考える、その2」
70数年前の大東亜戦争、1945年終戦の年、日本は東京大空襲を始め各地方主要都市の空襲、8月に入ってからは広島、長崎への原爆投下を受け、一般市民の膨大な死傷者を出しました。それと並んで6月までの3ヶ月間続いた沖縄戦で、ここでも多数の一般市民が戦争に巻き込まれ、傷つき亡くなりました。
そして高齢で残り少なくなったその体験をした人々が、各地で「戦争を語り継ぐ」催しを行なっています。その体験は実際その場に居なかった者には、恐ろしくも有り、また貴重なお話です。どの体験者も「怖かった」「逃げるのに精一杯だった」「家族を亡くして呆然とした」と口々に話をされ、戦争の怖さ、非情さを伝えています。そして「二度と戦争はしてはならない」と皆さん仰有います。
戦後GHQによる占領政策の中で行なわれたWGIP、即ち戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画や、東京裁判(正式名は極東国際軍事裁判)での一方的に日本に戦争犯罪の烙印を押した裁判によって、米国は自らの国際法違反を包み隠しました。勝てば官軍のなせる業です。
意図的に経済制裁を仕掛け、日本を縛り上げ、最終的には「ハル・ノート」という最後通牒を突きつけ、日本の和平工作を粉砕し、開戦を余儀なくさせたのは、「アジアの黄色いサル」を叩きたかった当時の容共主義者ルーズベルト大統領の仕業だと、ルーズベルトの前の大統領フーバーが回顧録で述べています。これはおそらく事実でしょう。
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