似て非なるアメリカと国際連合
今回は国連がテーマです。元駐米大使・加藤良三氏の「似て非なるアメリカと国際連合」(正論2019.8.28)を取り上げます。
日本では国連の通りがよい。五輪とノーベル賞も同様だ。しかしアメリカではだいぶ違う。多くのアメリカ国民は国連の存在を知らないのではなかろうか?
国連創立の経緯から言えば、第二次大戦中、枢軸国との戦争を終わらせるという意味での「平和目的」で、当時の米英中心の連合国側によって構想された組織である。従って53条、107条の枢軸国に対する「敵国条項」が残っている。しかし、時代の変遷によって、これは死文化し、1995年、露中を含む賛成国多数で次回憲章改正の際、削除されることが決まっている。
≪安保理決定が加盟国拘束≫
構想段階では戦争終了後、米、英、ソ連、中華民国の4者が警察官となって平和を守るという発想だった。その後フランスが加わった5常任理事国の安保理が出来上がった。
そこには国際社会の一体化、組織化を追求する理想や理念も確かにあった。国際連盟がうまく機能しなかったことへの反省から「正戦」という概念は無くなり、およそ「武力行使は違法」となった。
それまで絶対であった国家の主権も制限を受けることになり、安保理の決定が加盟国を法的に拘束するという条項(25条)が設けられた。国際法、国際組織法の観点からは画期的なことといえる。
しかし、およそ組織は規模が大きくなるほど機関決定の「正当性」は増すが、適時的確に決定に至る「実効性」は低下する。193の国連加盟国数に照らせば、憲章下の実質的最高決定機関である安保理のメンバー数を15(常任5+非常任10)に絞る規模感は組織論的には妥当だったと思われる。
国連創設に当たり国連(United Nations)の構造モデルとしてアメリカ(United States)が当時のルーズベルト米大統領やチャーチル英首相の念頭にあったことを明示する資料は見当たらないようだ。
それでもアメリカと国連が構造的に似ているところはあるような気もする。例えば、アメリカでの基本単位は州(国連では加盟国に当たる)であり、州には高度の自立性がある。連邦憲法で列挙された国防、条約締結、一部の税、貨幣鋳造など一定の事項以外の権限は全て州にある。教育に関する権限を連邦は持たない。教育は国(連邦)に任せるなという民意がアメリカにはあるようだ。死刑の有無も各州の判断に委ねられている。
軍になるとアメリカの州は独自の軍隊を有する。さらに「ミリシア」(義勇軍)がある。これらは国家の有事の際、動員されて連邦軍に組み込まれる。一方、国連軍は、独自の常備軍が存在するのではなく、いざというときに加盟国が提供する軍の寄せ集めである。
≪民主性に欠ける安保理≫
ただ組織論から見て国連とアメリカが決定的に違う点がある。制度次元の「民主性」である。
前述したとおり、国連の最高決定機関である安保理の規模感(常任、非常任理事国合わせて15)は組織の実効性担保の上で妥当と思われるが、米英仏ソ中の5カ国を常任(つまり終身。非常任理事国は2年ごとの選挙にさらされる)とし、「拒否権」を付与した。
これは民主主義的制度と相いれない。実際、そのつけは巨大であった。5カ国の間に共通の価値観があればともかく、発足直後から米英仏とソは水と油であり、71年に中華民国が中華人民共和国に入れ替わってからは米英仏対ソ中の3対2に色分けされた。
これでは大事の時に国連が機能するはずがなかった。自由民主主義側が犯した取り返しのつかない戦略的誤りであり、国際安全保障の根幹にかかる国連の実効性は当てにならないままである。
今日の国際情勢に照らして、米英仏露中だけが世界を代表して規格外の特権を享受する資格のある5カ国と誰が信じるだろうか?
アメリカはそれ自体が国際社会の縮図といえる国柄である。何だかんだといわれるが民主主義が健全に機能している代表国である。近年ではイラク戦争の折などにアメリカの「ユニラテラリズム」(単独行動主義)が批判を呼んだ。しかし、時に行き過ぎがあるかもしれないが、危急の時に「能動的単独行動主義」を取る国と構造的要因のために「受動的」多数国間主義(マルチラテラリズム)、すなわち、「拱手傍観(きょうしゅぼうかん)」に陥らざるを得ない組織のいずれを恃(たの)むのか。答えはおのずと明らかだろう。
≪緊迫下で姿見えぬ国連≫
今、日米同盟の信頼性、実効性を維持し強化するのは、基本的価値観の観点からも投資効率の観点からも最も妥当で合理的な選択だろう。日本国民は言わず語らず、そこをのみ込んでいると思うが、昨今の緊迫を増す国際情勢の下で国連の姿が見えないのはどうしたことだろう?
近年国際社会のより高度な組織化、一体化を目指すはずの国連の理念とは逆に世界は宗教的信条、非理性的感性と行動が幅を利かせる中世的世界に先祖返りしようというのだろうか。
加藤氏は国連とアメリカを対比させ、類似点と相違点を述べていますが、アメリカにおける州と、国連における加盟国の関係は似て非なるものでしかありません。国連の機構の説明にはこの比較は有効でも、そもそも比較対象とするのは無理でしょう。
それより日本にとって国連と言う存在は国益にかなうものかという視点で考える必要があります。まず安全保障面に関して言えば、安保理常任理事国の存在とその拒否権保有という仕組みがあり、それはまったく民主的な仕組みではなく、そのため世界の安全保障にほとんど寄与していないという現実があり、加藤氏の指摘の通り、日米同盟のほうがより日本にとっては有効であること。
さらにこのコラムでは触れていませんが人権理事会などの下部組織が、一部の国にその委員長や委員のポストを握られ、またはその委員会等で一部の国の意見のごり押し等が行われている等、民主的な運営とは程遠い実態があり、時に日本がその非難の対象にされることが多い点も指摘されています。
私は多くの日本人が「国連中心主義」的考えを持ち、国連に期待していて、多くの分担金を受けもっている現実があるように思いますが、加藤氏の指摘のように国連の真の実態をつぶさに見れば、日本の国益にプラスになることは少ないと思わざるを得ません。もう一度国益に照らしてみて国連にどう対応していくのがベストか、考えてみる必要がありそうです。
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