今回も少し前のコラムですが、作家で文藝評論家の小川榮太郞氏の「吉永小百合さんへの手紙」(『月刊正論』 2016年3月号)を取り上げます。吉永さんは有名な女優ですが小川氏によれば共産党の広告塔だという評価です。大変長い手紙なので長文が苦手な方は中盤以降の「原爆詩朗読という「祈り」の純粋さ故に」から読んでいただいても結構かと思います。
◇
吉永小百合さん、この一文を手紙形式でしたためたのは、貴女に実際に読んで頂きたいからです。
私はこの小文後半で、貴女の政治的な言動を批判する事になりますが、単に紋切型の、また、批判の為の批判をするつもりはありません。
私は心から平和を愛してをり、その為の道を真剣に模索してきましたし、一方、女優としての貴女を大変高く評価してゐます。だからこそ、私は貴女にお伝へしたい事がある、これはさういふ一文だと御承知ください。
日本女優史に残る女優たらしめているもの
私は吉永小百合さんの「声」が好きです。
吉永さんは「目」の女優だといふのがいはば定評なのだらうと思ひます。勿論、私も、貴女の眼差しの、豊かな表現力と魅力はよく知つてゐます。
が、貴女の女優としての本質を最も深いところで支へてゐるのは、やはりその声なのではないか。
決して透明ではなく、くぐもつた、しかし非常に暖かい声。淑やかさと天真爛漫さが瞬時に入れ替はる声の運動性の軽やかさ。溢れ出る気品。
いや、何よりも誠意といふもの、実意といふものを、心底聞き手に信じさせる「声」を、貴女は持つてゐます。
勿論、貴女はラヂオでのデビュー当初を除けば、基本的に声優ではなく、その姿の魅力、演戯の魅力抜きに「吉永小百合」を語ることはできないでせう。
とりわけ若き日の貴女の、生命力がそのまま演戯を凌駕してしまふやうな生きたままの姿の魅力!
私がここに断るまでもなく、貴女が大女優になる決定的な一歩は、昭和三十七年発表『キューポラのある街』での中学三年生の石黒ジュン役でした。
この映画には、既に、吉永小百合の女優としての本質的な魅力がはつきりと現れてゐます。即ち、女性の持つ両義性、あるいは多義性の表現者としての女優像がそれです。
透明な綺麗さ一辺倒の女優はゐます。気品の高さで魅了する女優もゐるし、逆にコケティッシュな女優もゐる。天真爛漫だが、陰影のない女優もゐる。表現意欲に溢れた演技派もゐれば、お人形さん的な女優もゐる。
吉永さんは一般に清純派とされますが、それは社会的なイメージとしての呼称に過ぎません。藝術家としての女優といふ観点から言へば、吉永さんの本質は、静かな落ち着いた佇まひを保持しながらも、多義性を軽やかに移動する「速度」にあると、私は思ふ。佇まひの一貫性の中に多くの人が思つてゐる以上に繊細で多様で迅速な「動き」がある。
実際、十七歳で中学三年生の主人公を演じた『キューポラ』で、貴女は既に、「成熟した中学生」といふ矛盾を見事に演じてゐます。そしてまた、埼玉県川口といふ鋳物の工場町、キューポラといふ独特の煙突のある泥水と板塀の職工の世界に、一輪の若百合のやうに咲く花を自然な姿で演じて、不思議な程違和感を感じさせません。東野英治郎演じる親父は飲んだくれの気違ひじみた頑固者で、弟は逞し過ぎてヤクザにもなりかねない悪童、家では親子や夫婦の喧嘩が絶えない。
勿論、戦後の映画界の常で、若干の左翼プロパガンダが巧みに織り込まれた一面もないではありません。労働組合を嫌ふ親父にむかつて浜田光夫演じる若い職工が、「労働組合を赤だなんて物笑ひだぜ」と一笑に付す場面や、事ある毎に散りばめられた「民主主義」のルールを観客に説教するやうな科白は、さすがに今日素直に受け取る訳にはゆきません。
その中で吉永さんはまさに掃き溜めの鶴、ガサツな飲んだくれの娘なのに、何とも筋の通つた美しく強い女の子像、旺盛な生活力のある女の子像を謳ひあげてゐる。それと同時に、家計を支へながら高校進学も諦めない健気な努力が再三父親の我が儘によつて水の泡になることに耐へかねて心荒れ狂ふ姿、さうした時に見せる、子供から大人になり切れぬ処女性もよく演じられてゐる。それらが、天性の自然さで、しかし充分に練られた演技になつてゐることに、大器を感じないわけにはゆきません。
これは翌年の『伊豆の踊子』においても同じです。歴代の映画版『伊豆の踊子』の中でも、おそらく最も川端康成の心に適つた踊子像だつたと言つていいでせう。
川端が、湯ケ野の撮影現場をわざわざ訪うて、吉永小百合の側から離れなかつたのは有名なエピソードですが、これは俗に言ふ川端の少女趣味といつて侮る訳にはゆかない逸話です。川端といふ人は、女性の美と醜悪とに対して、普通では考へられない異常に鋭敏な眼と、異様な妄執を持つてゐました。
その川端は、例へば岸恵子、岩下志麻らに対してならば、たとひ若い時であつても、既に大人の女を見てゐたと考へられますが、では、十八歳の吉永小百合に、川端は、何を見て、離れ難かつたのか。十八歳ですから無論少女とは言へない。一方、大人にもなりきつてゐない。
子供である事の手放しの無邪気さが急速に失はれ、しかし女である事への怖れと、女になり染めの輝きによつて、手の届かないやうな神聖さが女性に宿る一瞬─その瞬間の吉永小百合を、川端の残酷なまでに女を見通す目が見落とす筈はありません。
男といふ生き物には、彼が子供である時と、大人になつた彼しか存在しない。
が、少女の中には、大人の女になつたら失はれてしまふやうな強さと、そして叡智がある。普通ならば、十八歳といふ年齢は、女から、さういふ処女性を奪ふ年です。ところが十八歳の吉永さんの中には、寧ろ、時は今ぞとばかり、大人と永遠の処女性の同居といふ奇跡が輝いてゐた。川端はそれに喜びを覚えつつ、おそらく彼の破れた初恋を思ひ出し、衝撃を受けたのではなかつたでせうか。
この初恋の女性─千代といふ娘は浅草の喫茶店の女給でしたが、その印象は「踊子」の中にも色濃く投影してゐます。『伊豆の踊子』は、まだ全くの子供である踊子に、主人公の学生が女を強く感じる事で発生する抒情劇ですが、川端は、吉永さんの扮する踊子に、逆に大人へと強く揺れ動く女を感じ、それにも関はらず、女になつてしまはぬ少女性の深さにあはれを感じた、その意味で、川端は吉永さんの演戯から、『伊豆の踊子』の新たな可能性を教へられたのではなかつたかと思はれます。
実際、『伊豆の踊子』での吉永さんは、「大人」と「子供」との往復のテンポ感が非常に早い。高橋英樹さんの演じる「学生」が、逆に、原作にある「孤児だといふ負ひ目から自分を解放する」学生の葛藤の全く感じられない、健康な大人の男になりきつてしまつてゐる分だけ、その男性としての安定した高橋に自然に寄り添ひながら、吉永の踊子は、急速に恋に目覚めてゆきます。
特に、三十歳前後までの貴女の演技は、僅かなセリフだけしか与へられてゐない時でも、表情の変化だけで、心の急速な変化を表現する瞬発力に溢れてゐました。
日本の女優史の中では、さういふ心理的な運動神経のよさを自然に演戯できる人は、吉永さん以前には余りゐなかつたのではないでせうか。
『ふしぎな岬の物語』はなぜリアリズムを欠いたのか
吉永さんは、幸ひにも、名子役で終りませんでした。貴女に貼られた清純派のレッテルを越えようとする努力が実つたかどうかは疑問です。何故なら、貴女は始めからそのやうなレッテルを越えて迅速な演戯者だつたのだから。寧ろ、年輪を重ねながら、貴女は逆に、自分の内側に向けて成熟していつたやうに見えます。最近の作品を見ると、どこか童女のまま老女になつたやうな、何か能の夢幻性に貴女の存在そのものが近づいてゐるやうな印象を受ける事が増えました。
平成二十六年にモントリオール映画祭の審査員特別大賞を受賞した、貴女自身のプロデュース作品『ふしぎな岬の物語』はその典型でせう。
感動と疑問の両方を込めていふのですが、見てゐる最中、私の脳裏をしきりによぎつたのは「美しい衰弱」といふ言葉でした。
この中で吉永さんは、岬の突端の喫茶店の女主人、絵描きである夫は何十年も前に亡くなつてゐるが、この喫茶店は、そこだけが半ばこの世で半ばあの世のやうな不思議な明るみの中にあつて、村人たちの魂の安らぎの場となつてゐる。吉永さん扮する柏木悦子は、正に永遠の少女性によつて仄明るく場を照らし、店に掲げられた夫の遺作は、この岬から垂直に近いアーチ状で天上に向かつて掛けられた虹の絵で、この店とあの世の往還の道になつてゐるかのやうです。悦子の入れるコーヒーは特別に美味しい、彼女が「おいしくなあれ」と声を掛けながら淹れると「魔法」で美味しくなるからです。
この、ある意味で、宮崎駿さんの無重力的ユートピア世界と最近のある種のヨーロッパ映画─成熟を通り越して、ヨーロッパ文明の終焉を思はせるやうな静か過ぎる佇まひ─の混淆のやうな映画空間は、夢幻劇としては充分に美しく、愉しかつた。
しかし、一方、この作品は、何かが妙に居心地が悪い。あるいは、居心地が良すぎて居心地が悪いと言ひたくなるやうな違和感が、見ながら絶えず頭をもたげます。
登場する人々は、余りにもヒューマニスティックであり、童話の中の人物たちのやうです。
悦子自身、ある日、店に包丁を持つた泥棒に入られたが、この泥棒にご飯を食べさせて、話を聞いてあげ、泥棒は泣いて悔い改める。まことにヒューマニスティックな泥棒といふ他はない。実際、世界中の犯罪者たちが、皆、この位ヒューマンだつたら、世界はたちどころに平和になるでせう。まさに、童話です。
そしてその童話の中に、鯨の豊漁祭─村祭りの場面が出てくる。或いは、昔からある中学校の夜の校舎で、阿部寛扮する悦子の甥役浩司と竹内結子扮するみどりが、中学時代の先生に再会をする。
日本、あるいは戦後日本の、懐メロです。
では、この映画の全体は、一体、日本なのか、非日本なのか。
さういふこだはりは要らないと言ふわけにはゆきません。これは何も偏狭なナショナリストとして映画に詰問してゐるのでもなければ、映画の中の非日本性を難じてゐるのでもない。
寧ろ逆です。
この映画は余りにも「日本」に依存してゐるのに、その事を観客に徹底的に忘れさせてしまふ、そこが問題だと私は言ひたいのです。
まづ第一に、この映画の美しさは、日本或いは日本人の美しさと切り離す事はできません。ヨーロッパ映画が描く老いは殆どの場合、孤独、信仰、共同体の回復といふ明確な筋道があります。が、この映画には、最初から孤独はなく、共同体の安らぎが保証されてゐます。最初から死の恐怖はなく、死者との共存があり、最初から懐疑はなく、受容と情愛がある。これはあへて言へば、柳田國男が拾ひあげた日本民俗の極端な純化と美化であつて、「日本」といふ堅牢な観念なしには成立しない美の世界なのです。
では、その美しい「日本」固有の映画世界を、現実に守つてゐるのは何でせう。無論、それは日本の国家であり、国力であり、社会です。勿論、それらはこの、現実から隔離され、霊界と交差してさへゐる映画空間から見れば、純粋な夢幻劇を脅かす夾雑物です。
だから、この映画は、その脅かす外界を徹底的に観客に忘れさせる事で、夢を編んでゐる。
それを端的に証立てるのは、この映画に「男性」が登場しないといふ事実でせう。
勿論性別としての男性は登場しますが、この映画には、実は、成熟した男性は一人も登場しない。本来、それを表現すべきなのは阿部寛扮する浩司ですが、彼は、四十五歳になつても定職に就けない風来坊であり、口よりも先に手が出てしまふガキ大将のまま中年になつた男として描かれます。
ところがこの浩司以外の男性は、彼の子分でなければ、後は皆老人なのです。
そして悦子の夫はずつと昔に死んでゐる。
要するに、ここには餓鬼大将と老人と死者しか、男が出てこない。映画の世界から、成熟した男性が注意深く排除されてゐる。だから、当然男と男との葛藤もありません。男と女の葛藤もない。
もう一つ、正式な婚姻も印象の上で無効化されてゐる。
この映画では、特に筋立て上必要がないのに、盛大な結婚式の場面がある。ところが、そこで永遠の愛を誓つた二人の結婚は、たちどころに破綻してしまひます。一方、この映画は、浩司とみどりとが未婚のまま子種を宿した報告を悦子が祝福する場面で、虹が海に掛かつて終ります。
盛大に祝はれた結婚は破綻し、未婚の男女が宿した赤ちやんに祝福があつて、映画が閉ぢられる。
要するに、この美しい映画は、日本独自の死生観や優しく育まれた共同体に根差しながら、一方で、構造の内に、成熟した男性を排除し、結婚といふ制度を無効とするやうな志向性を強く持つ事で、この映画が描いてゐる美しい日本を破壊するイデオロギーを内包してしまつてゐる。
夢幻劇に過ぎないのだから、難しい事を言はずに楽しめばいい、一応さうは言へる。
が、夢幻劇の外界をなかつた事にしてしまふのと、夢幻劇を荒々しいリアリズムの世界から守り美しく育てることは違ひます。ここで詳しく論じることはできませんが、多くの偉大な文學、戯曲における夢幻劇は、それを脅かす現実との葛藤を内に含んで自らの純潔を守つてゐるのです。『源氏物語』や能にせよ、シェイクスピアの『嵐』、ヴァグナーの『トリスタン』……全て夢幻性を脅かす外界との緊張関係こそが、これらを美しく掛け替へないものにしてゐる。
ところが、戦後の日本は、夢幻劇を成立させる為に不可欠な、荒々しいリアリズムの世界を直視する事を忘れて、夢を編んできた。
そして、いはばさういふ力との葛藤なしに成立する夢幻劇に狎れ過ぎてきた、それが余りにも続いた結果、我々は、現実と理想との混同に疚しさや痛みを感じなくなつてしまつてゐる。
この映画はその谷間に咲いた百合なのです。
が、さうした問題に於いて、吉永さんを更に危ふひ所に追ひ込んでしまつたのが、貴女の場合、原爆詩の朗読だつたのだらうと思はれます。節を改めて論じてみませう。
原爆詩朗読という「祈り」の純粋さ故に
吉永さんは昭和四十一年に、『愛と死の記録』といふ被爆者を主人公にした映画に出演して以来、原爆或いは被爆者、戦争に対する関心を深めてゆかれた。そしてその思ひが今日に至るまでの原爆詩の朗読といふ活動に繋がります。これは、吉永さんの中で非常に大切な、重い意味を持つた活動に違ひありません。
実際、原爆といふ主題に、貴女のやうな真面目でイノセントな女性が心の強い痛みを抱いたといふことを、私は素直に理解できます。そして、女優として、一人の人間として、それを形にし、伝へたいといふ思ひも理解できる。
私も又、核兵器の発明と使用が、人類史上最大の罪悪であつて、原爆で焼かれた民族である我々日本人こそが、その災厄の真実を世界中に知らしめ続けねばならないと考へます。
人類は戦争を繰り返しながら、文明を高めてきました。あらゆる神話や宗教が描いてゐるやうに、破壊と創造は一つのパッケージになつてをり、文明の発展のみで戦争のない世界はあり得ません。人間の中の破壊衝動、憎悪や殺意と、建設への熱意、愛や創造性とを簡単に切り分け、前者のみをこの世から消し去つてしまふ事は不可能です。
が、核兵器の発明と使用は、さうした破壊と創造といふ構造に根本から見直しを迫るものだつたと言ふ他はありません。少なくとも大東亜戦争末期、既に戦争終結に向けた国際工作を何カ月も続けてゐた戦意なき日本相手に原爆を落とすといふアメリカの禁じ手、そして報復を恐れたアメリカによる日本の軍事力の封印と洗脳が成功した為に、核兵器使用による報復が生じなかつたものの、今後は、万一地上のどこかで核兵器使用があれば、報復の応酬、また、非国家集団による核兵器の濫用への道が開かれ、破壊の後に破壊しか続かぬ可能性が充分にある。
だからこそ、二つの事が必要です。
もう発明されてしまつたものはどうしようもないと肚を据ゑるのが第一です。発明された悪魔を乗り越えるのはより優れた技術しかない。原爆反対、原発反対と唱へた所で、世界の技術競争は止まらない。より良心的な陣営が開発競争の先頭に立ち、やがてこれを無害化する所まで技術を追求する以外に、この悪魔を鎮める道はない。安易な反対運動は、かへつて技術による無害化の可能性を閉ざします。
もう一つは、核兵器を使はせない国際環境を強化する事です。その意味で、核兵器使用がどれ程悲惨かの実態を世界人類に共有させるのは、日本の重要な平和活動に違ひありません。
そしてその為に、端的に被爆の悲惨さの「記憶」と「記録」を伝へる事と同時に、貴女がなさつてゐるやうに、「表現」された原爆を伝へるといふ手段もあり得る事になる。
勿論、原爆の実態を伝へる事と、原爆を詩にすること、またそれを朗読することは意味が全く違ふ。
「記録」を直視する事は世界人類の責務です。
が、原爆や被爆を詩といふ表現にすることは可能なのでせうか。
被爆といふ経験は、悲惨極まる、想像を絶する経験であり、私はその人達に同情する資格さへありません。自分や自分の家族が被爆する、即死してしまへば後の事は分らないが、ひどい被爆をしてケロイドや全身にガラスの突き刺さつた状態で苦しみ、しかも後遺症に苦しみながら生きてゆく─それは想像を絶する経験です。
しかし、それが「表現」として人を感動させるかどうかは別問題でせう。
原爆を扱つた詩だから価値があり、だからそれを語り、だからそれを後世や世界に伝へなければならないといふのは本末転倒です。何を扱つてゐようが、本当に胸に突き刺さる「言葉」になつてゐるかどうか、もしそれが「記録」ではなく「詩」であるならば、それが問はれるべき全てだ。被爆した人の詩だから、詩として価値を持つ、そんな事はない。被爆した人が作曲したからといふだけの理由で、被爆音楽といふジャンルが成立する筈がないやうに、「記録」でなく「表現」である以上、「表現」としての基準以外に価値を計りやうがない。
そして、そこにこそ、貴女が、あへて原爆詩に賭けた思ひがあると私には思はれるのです。
貴女の本当の祈りでこれらの詩の真実性を歌ひ出さねば、それは表現には達しない、だから貴女は詩の朗読といふ地味な仕事を続けてきたのではなかつたか。
その意味で貴女の朗読は、原爆詩に込められた思ひを甦らせやうとする「祈り」であり、「祈り」を通じて「表現」を希求する行為だつたのではないでせうか。
ところが、逆に、貴女のさうした動機の純粋さこそが、政治にとつては、実に都合のよい好餌なのです。
原爆の「記録」ではなく、貴女が原爆の「表現」の伝道者になつた時、政治の魔手がそこに付け入ります。貴女は、無力な者の声、一方的に傷つけられた者の声の伝達者である事を通じて、寧ろ、さうした無力さを政治的に利用する者によつて、政治的な「強者」の立場を演じさせられ始めます。
何よりも問題になるのは、原爆詩が、弱き者の声といふ形を借りた特権的な場になつてしまつてゐる事です。
吉永さん自身は一昨年広島原爆忌に掲載された朝日新聞のインタビューで「私の力は小さくて、大きくはならいのですが……」と仰つてゐる。本当に無力だつたらどれ程よかつたでせう。無力な声が無力なまま己の信ずる道を行く事程、真実の意味で強い事はない、それこそが祈りの道だからです。
しかし原爆詩の朗読は、世界の核環境に対しては無力でも、日本の政治状況に於いては全く無力ではありません。例へば、昨年十月に、貴女は、菊池寛賞を受賞しましたが、受賞理由に原爆詩の朗読を殊更に挙げてある。妙な仮定ですが、もし貴女が原爆詩でなく、中原中也の詩や齋藤茂吉の和歌の朗読をライフワークにしてゐたら、少なくともこのタイミングでの菊池寛賞の受賞はなかつたでせう。そして、この受賞をきつかけに、原爆詩を朗読する貴女は、間違ひなく、ある種の政治勢力にとつて、今まで以上に、政治的な利用価値を増す事になるでせう。
その時、貴女はあの類稀な女優としてでもなく、又、祈りの道を一人で歩む朗読者としてでもなく、核戦争の脅威への防波堤でもなく、単に国内政局の喧噪の中での、シンボルとなつてしまふ。
最近であれば、安保法制反対の大合唱の中に、いや、その先頭に貴女の名前が絶えず持ちだされたのは記憶に新しい。
『キューポラ』で父親にぶつけた科白の皮肉
例へば渡辺謙さんが安保法制騒ぎの最中の八月一日にかうツイートしてゐる。「ひとりも兵士が戦死しないで七十年を過ごしてきたこの国(憲法)は、世界に誇れると思う。戦争はしないんだ」と。
或いは笑福亭鶴瓶さんも、八月八日の東海テレビで「あの法律も含め、今の政府がああいう方向に行つてしまふつていふのは止めないと絶対だめ」と発言し、対談相手の樹木希林さんが「七十年も戦争しないで済んだのは憲法九条があるから」と応じてゐます。
竹下景子さんも、安保法案反対アピールに名前を連ね、「日本が戦争する国になれば、被害者であると同時に加害者にもならざるを得ません」
七十年間日本人の戦死者がなかつたのは、世界に戦争がなかつたからでも、日本への過酷な脅威がなかつたからでもありません。拉致被害者は厳然と存在しますし、そもそも、憲法九条といふ紙切れ一つで地球の中で日本だけが特殊な楽園であり続けられるかどうか、この人達は一度でも考へた事があるのでせうか。
この七十年の内の前半、東西冷戦時代には、朝鮮戦争、ベトナム戦争、核の軍拡競争、共産主義国家による恐怖政治がありました。隣にはソ連、共産中国がゐて、内政による弾圧や失政の為の犠牲者は数千万人と言はれてゐる。その軍事的脅威を憲法といふ紙切れ一枚で防げたとこの人達は本当に思つてゐるのでせうか。冷戦が終つた後、欧米知識人達の一部は自由主義陣営が勝利した結果、世界は平和になるといふ幻想を持ちました。が、アメリカが世界の警察官を務める中で、中東の動揺は全く去らず、オバマ時代に入り、今度はアメリカが警察官の仕事から手を引き始めた途端、中国、ロシアなどの軍事国家が世界秩序の変更に向けてチャレンジを始めた。
冷戦時代の我が国を守つてゐたのはアメリカです。アメリカにとつて日本こそが共産主義勢力からの防波堤だつたからなのは言ふまでもありません。
が、かつてのソ連と違ひ、アメリカにとつて、今の中国共産党政権は駆引きの相手であり、日本はアメリカの死活的な防衛ラインではなくなりつつあります。中国と手を組んだ方がよければアメリカはさうするでせう。その時、憲法といふ紙切れ一枚で日本の「平和」を守り切れる根拠はどこにあるのでせう。
「平和」が大切だといふ声を挙げる事と、特定の法案に反対する事は全く意味が違ひます。
法案に反対するのであれば、その法案が本当に平和を脅かす根拠と、新たな立法措置を取らずとも我が国の平和が守られ続けるといふ根拠を持たねばならない。これは、俳優とか知名人とかいふ事以前に、人としてのイロハではないでせうか。
実際、根拠なき安倍政治への反対がどれ程滑稽で国論を過つものかは既に証明されてゐます。
たつた二年前、平成二十五年十一月の特定秘密保護法制定の時、安保法制時と同様、芸能人や映画人、ジャーナリストたちが、日本の民主主義の死といふやうな過激な反対キャンペーンを張りました。
政治ジャーナリストの田勢康弘氏は「この政権の体質を見てゐても、間違ひなく拡大解釈してくると思ふ」と発言してゐる。映画監督の崔洋一氏は「この法案ができると日本映画界はお上の都合に合はせるやうなさういふ物ばつかりになる」と言ひ、同じく映画監督の大林宣彦氏に至つては「この法律ができると、国家犯罪に繋がつてしまふかもしれないといふ事を常に考へてゐなくちやならない」とテレビで発言してゐます。
それにしては、安保法制反対時の、殆ど同じ顔触れの皆さんの威勢の良かつた事!
「国家犯罪」に怯えるどころか、「戦争法案」だ「赤紙」だ「徴兵制」だと、法案の中身などそつちのけの途方もないプロパガンダで大騒ぎしてくれたが、安倍政権は弾圧の「だ」の字もしなかつたやうです。「拡大解釈」も「お上の都合」も、「国家犯罪」も全て幻想だつたのですが、法案の中身も知らずに反対の大合唱に加はつたこの人達の誰か一人でも、発言の責任を取つた人はゐるのでせうか。
あへて吉永さんに問ひたい、法案の意味や中身を知らずに、後から責任を取れないやうな出鱈目な批判をする事、またさういふ人達の先頭に立つて広告塔になる事は、貴女の女優としてのあり方や人としての信条に照らして、恥づかしい事ではないのですか。
『キューポラ』の中で高校生だつた貴女は、理不尽な父親に向かつて、かつてかう言つてゐる。「お父ちやんみたいに何もわかつてゐない癖に、頭から思ひこんで変へようとしないの、『無知蒙昧』つていふのよ。さういふの一番いけないよ」
「平和」を大切にする事と、知りもしない法案に大声で反対する事を混同しながら政治利用されてゆく、貴女を始めとする映画人や芸能人達は、正に「無知蒙昧」そのものではないでせうか。
貴女自身は、広告塔のつもりはないと仰るかもしれません。
が、残念ながら、貴女がどう思はうと、貴女の名前は、今や広告塔の筆頭格の一人になつてしまつてゐます。
誰の広告塔か?
驚くべき事に、日本共産党の広告塔です。
別表のやうに、昨年一年間だけで、吉永さんは「しんぶん赤旗」(日曜版のぞく)に見出し、記事として、十回も登場してゐる(アット・ニフティのデータベースによる)。これは、もうすつかり日本共産党お馴染みの「顔」になつてゐると言ふべき数字でせう。
歴史上、藝術家や文化人の政治利用に一番熱心だつたのは、共産党に代表される全体主義国家であり、中でも最も藝術家を政治利用したのは、ナチスとソ連共産党でした。そして日本共産党は言うまでもなく、現在でもマルクス・レーニン主義を奉じ、共産主義社会を目指す政党です。
共産主義が世界史上最大の政治犯罪だつた事は疑ひの余地がありません。共産主義国家は全て、プロレタリア独裁のまま軍事政権化し、自国民を恣に弾圧、虐殺し続けました。自由な共産主義国家は、一つも存在できなかつた。その共産主義を奉じてゐる日本共産党の広告塔に吉永さん、貴女がなるといふのは一体どういふ事でせうか。
ナイーブな声の上げ方は、あくまでか細く、そしてあくまでも一人の人の声の限界を慎ましく守るべきなのではないでせうか。
私は貴女の「声」の持つ「実意」、「誠意」について語ることからこの手紙を書き起こしました。その「実意」「誠意」を、国内政局に悪用させてはなりません。
貴女には、女優として、最近とみに表現領域を開拓してゐる「祈り」の世界がある。映画の中での、近年の貴女の姿は、それだけで人を浄めるオーラを静かに温かく発してゐるやうに私には思はれます。
「祈り」─吉永さんの世界は、今や女優としても朗読者としても、その世界にはつきり足を踏み入れてゐる。だからこそ、政治に関与せず、政治から利用されない、その峻拒こそが、今、貴女には求められてゐるのではないでせうか。
その世界に徹し、政治利用からはつきりと距離を取る時、貴女の中の女優と、貴女の中の人間としての正義とが、必ず一致点を見出す筈です、私はそれを信じたい。いや、それを信じてゐるからこそ、あへてこの一文を草した次第です。
◇
吉永小百合さんに限らず、多くの俳優たちや監督などの映画関係者、音楽関係者、テレビタレント、さらには大学関教授や弁護士たちに、なぜこうも多くの共産党の代弁者が生まれてくるのでしょう。共産党の直接介入もありますが、様々な周辺の政治的グループからの影響、また朝日新聞やTBSなどのマスコミがその媒介となって、彼らを狙い甘い言葉で洗脳するのでしょうか。
こうして小川氏の言う、法案の中身も政権の実相もほとんど知らずに、洗脳された世界の中での単純思考で政権批判、果ては日本批判をし、逆に朝鮮中国の肩をもつ人間に育て上げられてきたのでしょう。
確かに権力批判は痛快ではあるでしょう。人は批判することの快感を覚えるものです。ただすでに述べたように、批判の矛先を理解しない上でただ反射的に批判している多くの人達を見ると、一方のマスコミや市民活動家グループと言うこれまた壮大な権力の餌食となってしまっているのでしょう。室井佑月氏などはその代表的な一人と思いますね。
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