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2019年10月22日 (火)

即位礼正殿の儀のこの日、令和に目指すべき日本の姿思う

129844  今回は本日即位礼正殿の儀が行われるのに因んで、日本大学教授先崎彰容氏の「令和に目指すべき日本の姿思う」(正論 10/22)を取り上げます。 

 本日より、即位礼正殿の儀が行われ、国民と諸外国に対し広くご即位が宣明される。これを祝して国民の休日となった今日は、無料開放される動物園などもあると聞く。特別な感情を抱くことなく、動物園で休日のひと時を楽しむ者も多いだろう。またいつもの如く、若干の者たちは即位礼そのものに反対することであろう。だがこうしたさまざまな光景が「いつもの如く」続くこと、これこそが天皇陛下が最も望まれていることのはずである。なぜなら陛下は、人びとが平和であること、天災などの激変を蒙(こうむ)らず坦々と日常生活を営むことの困難をご存じだからである。だから私は、祝日を静かに過ごしたいと思う。改めて平成を振り返り、令和を考える日として過ごしたいのだ。

 ≪改めて時代を振り返る≫

 平成とは何だったのか。政治から見れば、冷戦体制の崩壊と55年体制の終焉(しゅうえん)といえるだろう。平成初期の政治制度改革は、小選挙区制を導入し二大政党制を目指すことで政治腐敗にメスを入れるはずであった。また橋本龍太郎内閣で本格化した行政改革は、中央官庁の再編によって官邸機能を強化し、分散していた統治機能を改善するために行われたものだった。

 いずれの場合も、国際社会が米ソの2色で色分けされていた時代が終わったことを見据え、多様化し、流動化する時代にしなやかに対応するための改革だったはずである。

 一方で経済から見れば新自由主義の流れに乗って市場開放、規制緩和が正しいとされ、新しい発想の登場が待望された。自由な競争は自由な発想を生み、激変する時代状況に対応できるであろう。これが当初の目論見(もくろみ)だったわけだ。

 だがこれら政治・経済における改革が、生みだしたものは何だったのか。政治では多党制で収拾不能に陥った野党の乱立であり、経済では市場原理に翻弄され、米国で起きた不況に直接身をさらすことを強いられた中小零細企業と、そこで働く不安定な雇用の登場であった。つまり平成の30年間を通じこの国は個別化・細分化してしまったのである。多様化する時代に対応したのではない。逆に多様化に翻弄され、バラバラになってしまったのである。

 ≪身近な生活圏を見ると≫

 この状況は、身近な生活圏を見ると、もっとすっきり理解できる。たとえば過日の参院選挙で、2つの小さな政党が議席を獲得し、その動向が注目された。N国党、すなわち「NHKから国民を守る党」と、山本太郎氏率いる「れいわ新選組」のことである。彼らの登場について、歴史学者の與那覇(よなは)潤氏が月刊誌『Voice』10月号上で面白い分析を試みている。すなわち、2つの政党が議席を獲得できたのは、単に「ネット右翼」などの支持があったからだけでは説明できない。N国党は、受信料は無駄だと思いませんかという市民感情を刺激したからであり、新選組は今の生活、辛くないですか? と訴えたからである。つまり2つの政党は、個人の感情に直接訴えかけ、政治問題を議論した点に特徴があったのだ(「野党は『文化左翼』と訣別(けつべつ)せよ」)。

 これが問題なのは、公共放送の是非であれ消費税増税の可否であれ、現在のこの国の状況と将来の人口変動など、長期的な視野と国家を考慮に入れなければならない問題が、すべて個人の生理的不快感、感情の次元で判断されているからだ。言い換えれば公的な問題が完全に私的で、一時的な好悪の感情に支配されてしまっているのである。私たちはしばしば、「最近の若者は政治に無関心でよくない」という言葉を聞くが、もし、政治に関心を持ったとしても感情に左右されたかたちでしかあり得ないわけだ。政治制度や経済体制だけではなく、個人の感情に分け入った場合でも、徹底した個人化が進んでしまっているのである。

 ≪私たちはどう振る舞うか≫

 こうした個人化は、かつてない孤独感を人びとに与えている。ポケットベルは携帯電話となり、スマートフォンにまで進化し、僕らは簡単に「つながれる」ようになった。しかし個人の心を覗(のぞ)き込むと孤独と不安に駆られ、癒やしてくれるものはない。逆に大量の情報は、自分よりも恵まれた人の存在を教え、嫉妬とフラストレーションにかき乱されているのである。

 この感情に答えを与え、敵の存在を明確化し叩(たた)く。不安をその場しのぎの快楽に代える。これこそが反権力デモからハロウィーンの無礼講、そして2つの政党が登場してきた背景にあった。つまり「平成」とは、公的な関心を喪失した時代であり、不安のせり出してくる時代だったのである。

 では、令和に入った今、私たちはどのように振る舞うべきなのか。どのような日本像を目指すべきなのだろうか。公共性への関心をどう取り戻すか。来月行われる祝賀御列(おんれつ)の儀が、拍手喝采のタレント騒ぎに終わることなく、平成30年間を振り返り、来る令和30年に思いを致すような行事となることを、筆者は切に願っている。

 日本国憲法に謳う「自由」が、「公共の福祉」の制約下に置かれるということをよく知らない日本人が、戦後の教育や社会風土の中で「自由と権利」を謳歌し、「責任と義務」を軽んじてきた経緯は、個人主義の蔓延とともにもはや厳然たる事実となりました。

 結果、核家族化の進展とニートや引きこもりの増大、家族同士や目的なき無差別殺人の増大、無婚化の進展、少子化や経済の停滞へとつながってきたように感じます。いまこそ「個」と同時に「公」の重要さを改めて認識させられます。しかしよく考えて見れば、こう言った状況こそGHQが最大の狙いとした「日本弱体化」の結果だった、と言うのは考えすぎでしょうか。

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