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2019年11月 6日 (水)

手段と目的をはき違えず、政治や外交を考えよう

Images_20191106153701  今回は作家・演出家の鴻上尚史氏の連載コラムの中から『「日本の校則はなぜ厳しいのか」19歳の問いに鴻上尚史が明かした高校時代の闘争』(AERA dot. 11/5)を取り上げます。長い記事なのでお忙しい方は後半の「さてビックさんの疑問です。・・・」(赤色文字にしています)から読み始めたらいいかと思います。
 鴻上氏の言いたいことは「手段を目的にしないこと」だと思いますが、私もその意見に同感で、最近手段と目的をはき違えている向きが多く、政治の世界や国家レベルでも散見されることから、あえて政治とはかけ離れているように見えるテーマのこのコラムを取り上げました。

 鴻上尚史の人生相談。高校時代に校則改革をすべく生徒会長になった経験をもつ19歳の大学生。「学校の先生はなぜ校則に頑なか」と問う相談者に、鴻上尚史が語った自身の高校時代の校則との戦い。

Cade1f69915e69e7a8a814958715423b 【相談47】日本の校則が厳しいのはどうしてですか?(20歳 男性 ピック)

 鴻上さんの校則についてのtwitterをみて、高校時代の古傷を思い出し、投稿しています。元・私立共学の生徒会長、現在は大学生です。

 生徒会長の選挙時の公約は「マフラー禁止」「靴下と鞄の指定」「男子の長髪禁止」「女子の髪のリボンの黒、紺、茶指定」の撤廃で、そのときはけっこう盛り上がり、支持されて生徒会長になりました。

 ・あたりまえですが防寒にマフラーは必要

 ・「靴下と鞄」については、学校指定のメーカーは高額。それぞれ生徒が選んだほうが合理的(これは言いませんでしたが、学校がこれで利益を得るという私立のあるある話のようです)

 ・男子の長髪の禁止、女子の髪のリボンを黒、紺、茶に指定している意味がわからない。好きな髪形、リボンの色を楽しみたいと訴えて、けっこう支持されて生徒会長になりました。

 生徒会長に決まったとき、学年主任には、廊下で通りすがりに「やりすぎるなよ」と釘をさされました。でも、公約なので、行動しないわけにはいきません。

 そこで、まずは、先生たちと生徒で校則についてのディスカッションの場を作りました。

 先生側の言い分はだいたいが、

 ・マフラーは、以前に引っ張り合って遊んでいた生徒が気分を悪くしたという問題があった

 ・靴下も鞄も学校の制服と同じこと

 ・女子のリボンの色は制限を設けないと風紀が乱れる。男子の長髪は清潔感がなく、高校生に似合わない

 話し合いは並行線で、副会長が「それならばリボンは白だと風紀が乱れるのですか」と言ったら「線引きの問題だ。どっちにしても白なんてちらつくし、教える側の集中力もそぐ」などと理由にならない理由を返され、あと昔、すごく学校が荒れた時代があり(昭和のことらしいですけど)、近所にもこの学校の評判が悪い時期があり、校則を変えて生徒を指導して、いまのいい雰囲気が保たれ、いい学校(たぶん偏差値があがったという意味)になったのだそうです。

 そして学年主任は「そういう校則だと理解して入学したのではないか」とも。

 結局そのディスカッションは、僕が「学校は生徒が作り上げるものではないですか。必要なら校則も変更したいです」と返したところで時間切れになりました。

 とりあえず、そのディスカッションははじめの一歩でしたが、発言したのは生徒会の人間ばかりで、参加した他の生徒は拍手はするけど自分から手を挙げて発言してくれる人は少なかったです。

 そういった生徒側の中途半端な雰囲気があり、その後、いろいろ学校側の妨害工作とか紆余曲折あり、もめにもめ、結局僕らは戦いに敗れました。本当に情けなく苦い思い出で、高校時代のことは全部忘れたいとすら思いました。

 でも、思うのです。そもそもなんで日本はこんなに校則が厳しいのでしょうか。当時アメリカにいた高校生のいとこに、僕の学校の話をしたらびっくりされ「リボンの色? 時々そういうの聞くけど本当なんだね、日本の高校、Crazy!」と言われました。いとこの高校の服装は、制服がないどころか服装も髪も自由。まあ、アメリカの高校と比較してもしょうもないですが。

 鴻上さんが校則についてtwitterで書いているのをみて、びっくりしました。鴻上さんと同じくらいの昭和のうちの高校の先生と、なんでこんなに考えが違うんだろう。

 そもそもが知りたいのですが、日本の高校の校則が厳しいのは、やっぱり昭和に学校が不良ばかりですごい荒れた時代があったからなんですか?

 学校の先生たちの、あのかたくなな校則への執着が、今でも謎です。

Blakou_teaser_web 【鴻上さんの答え】

 ピックさん。少し、僕の高校時代の話を聞いて下さい。僕は、昭和の時代、公立高校の生徒会長をしていました。

 立候補した時の公約は「校則の自由化」でした。

 僕の時代も、ピックさんの高校とあまり変わってなくて、女子の「リボンの色」や男子の「髪は耳にかぶさらない」などの他に「女子のストッキングの色は黒」なんていう「どう考えても無意味としか思えない」校則がたくさんありました。

 ピックさんと同じように廃止を訴えて、それなりの支持を得て、当選しました。すぐに、なくすために先生達に働きかけましたが、生徒指導の先生に「お前はこの高校を荒れた高校にしたいのか」ときつく抑えられました。

 僕は、「無意味な校則を無くすことこそ、学校を健全にすること。無意味な校則を押しつけられることが、学校と教師に対する不信感を生み、生徒の心を無気力・無関心にしている」と感じていました。

 僕は、先生達と話すだけではムダだと考えました。僕は愛媛県出身なのですが、「愛媛県全体の高校生徒会がまとまらないと力を発揮できない」と決意しました。

 生徒会が集まり、情報を交換し、知恵を出し、共に戦うことでしか、この状況を打開する方法はないと考えたのです。

 ただし、学校側はそんな集まりは絶対に許さないだろうと思いました。すべては、先生に知られないように秘密に進めなければいけないと考えたのです。

 その当時、愛媛県には公立高校が52校、私立が11校ありました。僕は、友達を頼ったり、友達の友達を頼ったりしながら、各地の生徒会長と連絡を取り、土日を使って会いに行き、『愛媛県高校生徒会連合』を作らないかと提案しました。

 愛媛県は、東西に細長く広がり、東予、中予、南予と三つの地域に分かれています。僕の住む新居浜市は、東予にありました。松山市がある中予と八幡浜市がある南予は、それぞれに電車で数時間かかる距離で、頻繁に会議をするのは、高校生の立場では不可能でした。

 僕は、中予と南予の生徒会長を一人選び、それぞれの地域で『愛媛県高校生徒会連合』を進めてくれないかと熱く頼みました。

 そして、自分達の東予地区18校の生徒会長と何度も会いました。

 14校の生徒会長が賛同してくれて、『愛媛県高校生徒会連合 東予支部』を発足させました。

 全員で学校に無届けで合宿し、14校が「各学校で校則がどれぐらい違うか?」を話し合いました。

 僕の学校では黒色のストッキングが指定で、ベージュのストッキングは「華美である」という理由で禁止されていました。

 隣町の高校では、ベージュが指定で、黒色は禁止でした。その理由を尋ねた生徒会長に、生徒指導の先生は「黒色は娼婦っぽいだろ」と答えたと教えてくれました。ということは、僕の高校の女子生徒は、みんな娼婦っぽいのかと、僕は怒りを通り越して笑いました。

 東予地区14校の校則を比べるだけでも、いかに「校則に根拠がないか」がよく分かりました。

 僕は、生徒会名義の学校新聞を配布して、他の高校との比較を載せました。データに基づいた反論ですから、校内ではかなりの反響が起こりました。その行動に先生達は怒り、締めつけはさらに厳しくなりました。

 そのまま、どうにもならずに、任期は終わりました。公約だった校則がなんにも変わらなかったじゃないかと、僕は何人かに責められました。「お前は嘘つきだ」と。

 僕は、『愛媛県高校生徒会連合』を作ったんだ、着々と力を付けているんだ、もう少ししたらなんとかなると思うと言いたかったのですが、発表してしまうと、学校側は間違いなくつぶしにかかると考えて、黙っていました。

 そして、高三の冬、何人かで協力して、東予地区14校の校則をまとめ、比較した本を『愛媛県高校生徒会連合東予支部』名義で300部ほど作りました。

 記録として『愛媛県高校生徒会連合』の二期目のメンバー達に残そうとしたのです。

 僕の高校では、僕が頼んだ後輩が立候補して、生徒会長に当選していました。彼は、『愛媛県高校生徒会連合』を引き継ぎ、発展させると約束してくれていました。

 卒業式の日、突然、生徒指導の先生に呼ばれました。そして、「鴻上は、生徒会連合って知ってるのか?」と聞かれました。僕は全然、知りませんと答えました。すると、「××高校の生徒会長が、『生徒会連合』の会合に出ていいかと生徒会顧問の教師に聞いてきたんだ。どうやら、『生徒会連合』なるものがあるみたいじゃないか」とさらに聞かれました。僕は「全然、知りませんねえ」と答えました。生徒指導の先生は、「大人が平気で嘘をつくから、若者も嘘をつくようになったのかねえ」と僕をじっと見ました。

 ロッキード事件という世界的な汚職事件が社会問題になり、「いっさい、記憶にございません」という言葉が流行語になった時期でした。

 それからはあっと言う間で、各高校で「絶対に『生徒会連合』に関わってはならない」という厳しい指導がされて、一年弱で、『愛媛県高校生徒会連合』は無くなりました。

 その時、作った本は結局、どこにも配れないまま、今でも、ある高校の生徒会の書記だった女性の家にあります。

 さて、ピックさん。長い話をしてしまいました。

 僕はこの時から今まで、ずっと無意味としか思えない厳しい校則に対して怒っています。

 日本の校則に根拠はないのです。リボンが「白なんてちらつくし、教える側の集中力もそぐ」なんて言葉は、正気の大人が言う言葉ではありません。

 もし、民間の会社で「女子社員のリボンの白は、ちらつくし、集中力をそぐ」と発言した上司がいたら、「疲れているんだね。休んだ方がいいよ」と心配されるでしょう。

 アメリカにも、もちろん校則というかルールはあります。でも、それは「銃、ナイフは学校に持ち込んではいけない」とか「下着姿で学校に来てはいけない」というものです。銃やナイフを持ち込むとケガ人や死人が出る可能性があるし、下着姿で教室にいると、あきらかに男子生徒は困ります。ちゃんと根拠があるのです。

 でも、リボンの色が白になっても誰も困りません。なのに、先生達は「かたくなな校則への執着」を見せるのです。ピックさんが疑問に思うのももっともです。

「やっぱり昭和に学校が不良ばかりですごい荒れた時代があったからなんですか?」とピックさんは聞きますが、違います。

「生徒指導困難校」とか「教育困難校」と呼ばれたりしますが、こういった高校は昭和の時代も令和の時代もあり、全体から見ると少数派、一部です。

 けれど、無意味に厳密な(場合によっては、「ブラック校則」と呼ばれる)校則は、日本の高校、ほとんどすべての高校にあります。厳しい校則が荒れた結果なら、日本のほとんどすべての高校に荒れた過去があることになります。そんなバカな、です。

 一般的に偏差値の高い高校ほど、校則が自由になる傾向があります(もちろん、例外もありますが)。

 そして、荒れている高校は厳しく指導されます。僕が問題にするのは、特別荒れてもいない、平均レベルの高校でも、無意味な校則が多いということなのです。

 そして、無意味な校則は、「高校生らしい」「中学生らしい」という、じつに何の根拠もない言葉で「思考停止」を強制します。

 少し前、ツーブロックという髪形が「高校生らしくない」という理由で禁止だと報道されていました。すぐに、「ホテル業界では、ツーブロックは清潔感ある髪形とされています」とか「『サザエさん』に出てくる中島君はツーブロックだぞ」とか(笑)、いろんな反応が出ていました。

 僕が危惧するのは、比較的真面目で優秀な生徒こそが「高校生らしくない」という根拠のない言葉で、「思考することをやめる」習慣に染まることなのです。

 真面目な生徒は、根拠のないことを几帳面に受け入れるのです。そして、思考しても答えがないと予感するから、思考することをやめるのです。

 もし、中年の先生が「ツーブロックは私の高校時代にはなかった。私の高校時代になかったものは、すべて、許せない」と言うのなら、その正しさは別として議論ができます。

「先生の高校時代になかったものは、なぜダメなのか?」と、思考を続けることができるのです。

「なぜ?」という疑問を追及することが「思考すること」の原点です。たくさんの「なぜ?」を考え、それをひとつひとつ、自分で解決していくことが教育だとも言えます。

 でも、「ツーブロックは高校生らしくない」という断定は、議論をするきっかけがありません。なんの論理もないので、思考を停止するしかないのです。

 今の子供達は、中学生の時から、「なぜ?」という疑問を追及することではなく、「そういうものだ」という思考停止を受け入れることが日常になっていると僕は思っています。

 そして、(説明が長くなってしまうのでいきなり論理が飛んだと感じるでしょうが)ソニーとか任天堂とか、かつて、グローバル企業を生んだ日本ビジネス界が、現在、まったく創造的な世界的カンパニーを生み出せていないのは、優秀な生徒ほど、子供の頃から「思考停止」を受け入れてきたからだと僕は思っているのです。

 さて、ピックさんの疑問です。なぜ、学校の先生達は、「かたくなな校則への執着」を続けるのでしょうか?

 僕の考えは、学校というのは、日本に数少なく残っている強力な「世間」だから、ということです。

 この連載で、何度か日本特有の「世間」について説明しました。

 自分と関係のある人達で作っている集団が「世間」です。無関係な人達を「社会」と呼びます(詳しくは、ニュースサイト「AERA dot.(アエラドット)」に掲載されている【相談2】「帰国子女の娘がクラスで浮いた存在に… 鴻上尚史が答えた戦略とは?」、【相談4】「鬱の妹を隠そうとする田舎の家族… 鴻上尚史が訴える30年後の悲劇」を読んで下さい)。

「世間」の特徴は、「所与性」と言われるものです。これは、「今のままでいい。大した問題が起きてないのだから、わざわざ変える必要はない。昔からある、与えられたシステムを続けよう」という考え方です。

 長い時間、日本の「世間」は変わらないまま、あり続けることができました。変えることより、今までのやり方を続けた方がうまくいく、と思われてきました。事実、昭和の真ん中ぐらいまでは、それでなんとかやってきました。

 わざわざ、別なやり方をやることは、失敗の可能性の方が大きいと思われたのです。

 けれど、今までのやり方では、はっきりと通用しない時代がやってきました。価値観が多様化し、グローバル化が変化を加速しました。

 気付いた企業は、試行錯誤を続けながら、生まれ変わろうとしました。けれど、「今までのやり方でいいじゃないか」と思ってしまった企業は、どんどんと傾き始めました。まさかと思われるような大企業が倒産したり、合併したりしています。

 学校は完全に取り残されました。世の中がどう変わろうと、「今までのやり方でいいじゃないか」と思っています。そんなことはない、日々、努力していると反論する人もいるでしょうが、今までの枠組みの中での努力です。枠組みの根本的な問い返しをしている人は本当に少数派です。

 と書くと、「お前は学校の何を知っているんだ?」と突っ込まれます。

 ですから、学校の当事者が書いた一冊の本を紹介します。

『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』(千代田区立麹町中学校長 工藤勇一著 時事通信社)です。

 工藤さんは、さまざまな学校の当り前をやめました。

「服装頭髪指導を行わない」はもちろんのこと「宿題を出さない」「中間・期末テストの全廃」「固定担任制の廃止」などです。

 驚くと思いますが、全部にちゃんと理由があります。そして、麹町中学校の生徒達の成績は下がるどころか、上がっています。

A98b1120712ae2558c294773114e59b3833  工藤さんは学校では「手段が目的化」してしまっていることが一番の問題だと指摘します。

 なんのために「服装指導しているのか?」という「目的」がよく考えられないまま、服装指導という「手段」が目的化している。学習指導要領や教科書という「手段」でしかないものが、絶対的基準の「目的」となって、消化してこなす対象になってしまっている。

 そもそも学校の「目的」とはなんなのか?と、工藤さんは問いかけます。

 それは「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ことではないのか。そのために考えられたいろいろな「手段」なのに、それを厳密に実行することが「目的」になっていないか。

 1ページ1ページ、本当に発見と感動がある文章で、僕は思わず涙ぐんでしまいました。僕が中学の時、この文章に出会っていたら、どれほどムダな怒りと痛みを避けられたことか。

 多くの人にぜひ、読んで欲しいのですが、工藤さんの書く「手段が目的化」している状態というのは、じつは、「所与性」の大きな特徴です。

「今までのやり方でいいじゃないか」と思って倒産した大企業は、利益を追求するという「目的」ではなく、今までのやり方という「手段」を一番の「目的」としたのです。「目的」ではなく「手段」を一番に考えるのは、「とにかく今までのやり方を続けよう」と思う「所与性」です。

「クラスのまとまりを大切にしよう」とか「絆」「団結」なんて「目標」が、学校では盛んに語られます。

 けれど、これらは、「何かをするため」の「手段」です。「何かをする」ためにまとまり、団結するのです。ですが、何をするかという「目的」は語られず、ただ、まとまろうという「手段」が声高に語られ、「目的」にされるのです。

 工藤さんは書きます。

「『みんな仲良くしなさい』という言葉があります。この言葉によって、コミュニケーションが苦手な特性を持った子どもたちは苦しい思いをしているのではないでしょうか。よかれと思って、多くの教師が使っている言葉で、結果として、子どもが排除されることになってはいけません。『人は仲良くすることが難しい』ということを伝えていくことの方が大切だと私は考えています」

 これが、教育評論家ではなく、民間人校長でもなく、教育界プロパーで育った、現場の中学の校長先生の言葉であることに僕は心底、感動します。

 工藤さんは「手段の目的化」以外に、もうひとつ、「より上位の目的」を忘れてしまうことが問題だと書きます。

 買い食いをした生徒を厳しく叱っている先生に対して、「どうでもよいことと、どうでもよくないことを、分けて叱りませんか」と提案します。

 より上位の目的、最上位目標は何か?と常に問いかけることは、「所与性」の対極に位置します。

 ワークショップをしていると、参加者がいつのまにか床に「体育座り」をしている風景をよく見ます。足を折り曲げて、手を足の前側で抱えるように組んで座る「体育座り」は、小学校低学年から指導されます。大人になっても無意識にやっている姿を見ると、本当に日本人の身体に染み込んでいるんだなと感じます。

 でも、この座り方は、曲げた太股が下腹部を圧迫し横隔膜を下がりにくくするので、呼吸が浅くなり、身体に良い影響は与えないのです。特に、運動する前、深く呼吸して気持ちを落ち着け、身体に酸素を行き渡らせるという大切な目的に対して正反対の座り方で、運動する時には最も不適切な座り方なのです。

 けれど、ずっと「体育座り」の指導は続いています。

 どうしてでしょうか? それは、「体育座り」の目的が「子供達を秩序よく座らせる」ということだからです。足を閉じて手を前で組むことで、手遊びを防止し、ヨロヨロウロウロする余計な動きを防ぐことが目的です。

 体育という教科の一番大切なことは、「秩序を作ること」でしょうか? 僕は、体育の最上位の目的は「子供達を健康にすること」だと思います。

「所与性」は「何が一番大切か?」と問いかけません。今あるシステムを続けることが目的ですから、「何がより上位の目的か?」と問いかける必要がないのです。

 もちろん、常に「より上位の目的は何か?」と問い続けることは、タフな精神とエネルギーを必要とします。でも、それが結局、よりよい結果を生むのです。

 工藤さんは書きます。

「校長が覚悟を持って、自らの学校が置かれた立場で何が必要かを真剣に考え抜くことができれば」学校は変われると。「覚悟」という言葉が素敵です。

 ピックさん。

 長い文章になりました。「校則」の問題は、言いたいことがたくさんあるのでヒートアップしてしまうのです。でも、同時に、こんなに長く長く書いたのは、あなたの戦いは無駄ではなかったと言いたいからです。

 僕は、ずっと高校時代の自分の戦いが自分を支えていると感じています。『愛媛県高校生徒会連合』は、政治党派や宗教団体、あらゆる組織と一切関係なく、純粋に「無意味な校則に怒った生徒達」が集まりました。一年弱で潰されましたが、その時の怒りは本物で貴重だと思っています。

 大きな目で見れば、世界は、じつは「個人の自由・権利」がより守られ、拡大する方向に動いています。そんなバカな?と思うかもしれませんが、LGBTQ+への理解や、反ヘイトの潮流、同性婚の拡大など、世界的規模で見れば、「個人を尊重する」方向に時代は動いています。私達は、希望の時代を生きているのです。

 もちろん、世界的視点ですから、地域によっては、逆行している人達もいます。生まれつき茶色の髪を染めろと女子生徒に命令した大阪の高校は、生徒の代理人弁護士に「たとえ金髪の外国人留学生でも規則で黒く染めさせる」と豪語しました。本当に実行して、世界的な問題になればいいなと僕は本気で思いました。

 ピックさん。「本当に情けなく苦い思い出で、高校時代のことは全部忘れたいとすら思いました」なんて思わないで下さい。あなたの体験は、きっと将来、役に立ちます。「所与性」に安住した大人達と戦ったこと。「手段」を「目的」にしないこと。「より上位の目的」は何か?と常に考えること。そんなヒントをくれたのです。

 とても素敵なことだと思います。高校時代の戦いを胸に、どうか素敵な人生を歩まれることを祈ります。

51729t5bxfl_sr600315_piwhitestripbottoml  野党の中には「韓国との友好関係を維持発展させることは重要だ」と言うようなことをよく言います。与党の中にもそういう発言が散見されます。ではなぜ友好関係を維持することが重要なのでしょうか。それは何かの目的のための手段ですよね。つまり上位目的は「日本の国益を守り、より発展させる」ことにあるはずです。すべての外交の原点はそこにあると思います。

 そのために本当に韓国との友好を維持発展させた方がいいのでしょうか。少なくとも韓国が同じ考えを持っていればその通りだと思いますが、今の文政権を見ていると、真逆だと言えるでしょう。反日侮日の数々、歴代政権の中でも突出して敵対した行動を続けています。つまり日本の国益に反する行動の連鎖です。

 もちろん一連の反日行為の一つ、日本製品の不買運動によって、日本企業の一部、アサヒビールやデサントなどが被害を受けています。しかし国際情勢の変化により一部企業の業績悪化が発生するのは普通の事であり、それより、日本というブランド、アイデンティティのあらぬ誹謗中傷による毀損の方がより重大だと思います。つまり国益に反する国とは友好関係を保つより、無視したほうがいいはずです。

 それともう一つ、国益を守るということはやはり手段であって、その上位目的は「日本国民の自由の確保と生活の安定、そして生命財産を守る」ことにあると思います。そのための手段が「憲法」であり、「憲法」が上位目的に来ることは本末転倒だと断言できます。そうであれば「国民の生命財産を守る」手段として、どうして9条が存在するのか、9条教信者に説明して欲しいと思います。

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