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2020年6月22日 (月)

コロナを機に共産主義が復活?未だに死滅していない非現実論者たち

0001p1-1  日本では今月19日、県を超えての移動が解除され、経済活動の再開が徐々に進んできました。しかし世界レベルでは未だに新型コロナウイルスの感染拡大が続いているようです。一昨日にはWHOが「パンデミックが加速 厳重な対策を」と警告を出しています。ところでこのコロナが終焉した世界はどう変わっているのでしょうか。

 いち早く感染拡大を封じ込めたとされる中国を意識してではないでしょうが、大和大学准教授岩田温氏が産経ニュースにコラム『パンデミックでよみがえる亡霊 なぜ、また共産主義が語られるのか』(6/10)を寄稿していますので以下に引用します。

 ポスト・コロナについて語る有識者なる人々が多い。確かに新型コロナウイルス感染のパンデミック(世界的大流行)という現象が従来の世界を変容させる可能性はあり得る。医療崩壊の危機、世界的経済の危機といった問題について考えれば、かつての世界のあり方が一変する可能性を秘めていると思いたくなる気持ちもわからないではない。この点を全面的に否定するつもりはない。しかし、ポスト・コロナを嬉々(きき)として語る人々の話し方にどこか違和感を覚えざるを得ない自分がいるのも事実である。

 この違和感は一体何なのだろうと立ちどまって考えてみる。この違和感の源には、既に現実によって否定された「理念」を再び持ち出してくることへの強い懐疑の念がある。

 ポスト・コロナの世界像に関して、少なからざる人々が共産主義、社会主義といった終焉(しゅうえん)したはずの世界像の復活を唱えている。かつて知識人やマスコミ人の頭の中で、人々の理想郷とされた共産主義社会は、現実には絶望郷(ディストピア)でしかなかった。それは、ソ連崩壊や北朝鮮の惨状によって証明されたはずだが、彼らは今、その全く現実性が欠如した将来像を、過去の亡霊に取り憑かれたかのように語っているのだ。

世界とVoiceで復活論が!

 世界的に著名なマルクス主義者で、レーニンの再評価を説く哲学者のスラヴォイ・ジジェク氏は「人間の顔をした野蛮がわたしたちの宿命なのか」と題された論考(『世界』6月号)の中で、次のように指摘する。

 「既存の世界秩序の枠組みの内部では不可能に見えることを実現しなければならない」

 「わたしたちが最悪の事態を避けるためには、不可能なことをなさなければならない」

 既存の世界の枠組みで不可能に見えることとはいったい何なのか? 注意深くこの論考を読んでみると、要するに「コミュニズム」(共産主義)を実現したいということなのだ。すでに世界では物笑いの種にしかならなくなったコミュニズムの擁護論をこの令和の世で展開しているのだ。

 パンデミック以来、各国は医療や経済において国家の関与を強める政策をとっている。危機の際に国家が管理体制を強化するのは当然だが、ジジェク氏はこれを「必要性によって強いられたコミュニズム」だと解釈する。そして、このコミュニズムが「新しい(これまでよりも質素になった、けれどより均衡の取れた)世界秩序が、そこから生まれてくるのだろうか?」と問いかける。あからさまに自らの希望を語るわけではないが、このパンデミックを機に世界にコミュニズムが復活することを願っていることは明らかだろう。

 ジジェク氏のような筋金入りの共産主義者がコミュニズムを憧憬する一文を、岩波書店の発行する『世界』が掲載するのは、それほど意外なことではないかもしれない。だが、ほかにも思わぬ人物が共産主義、社会主義への再評価を促しているのには注目すべきだろう。

 東京大学名誉教授の本村凌二氏もまた社会主義への願望を語る一人である。「『ローマ型独裁制』から学ぶべきもの」(『Voice』6月号)において、次のように語っている。

 「私が思うのは、新しい自由主義があるのであれば、新しい社会主義があってもいいのではないか、ということだ」

 「ソ連・東欧は須らく挫折したが、『人間をできるだけ平等に幸せにする』という社会主義の本来の理念そのものは完全に否定できるものだろうか」

 繰り返しになるが、危機の際に国家が管理を強化するのは当然のことだ。自由民主主義社会において国民の自由は最も尊ぶべきものだが、非常事態においては制限が課される。我(わ)が国では憲法上緊急事態条項も存在せず、危機の際の対応が曖昧なままだが、自由民主主義の諸国でも危機の際に国民の自由が制限されるのは致し方のないことだと考えられる。だが、これはあくまで危機の際の例外状況に過ぎず、危機が過ぎ去れば自由は復活されねばならない。それは本村氏が『Voice』で説く緊急時にのみ登場したローマ型独裁制とて同じことだ。

 しかるに、本村氏は国民の自由を根本的に制限する社会主義を見直すべきと説き、社会主義の「人間をできるだけ平等に幸せにする」という「本来の理念」は否定しがたいというのだ。だが、現実問題として、地上に存在した社会主義国家では政治家や官僚の腐敗、そして国民は耐え難い不平等を押し付けられたのではなかったか。

朝日新聞インタビューでは…

 私はかねてより、共産主義、社会主義といった全体主義思想に関する思想的反省と、その復活に対しての警戒が足りないと説いてきた。だからこそ、パンデミックを機に再び自由を否定する議論が雨後の筍(たけのこ)の如く出現している現状に危うさを覚えずにはいられない。

 なお、ポスト・コロナで説かれているのは社会主義ばかりではない。社会学者の大澤真幸氏は「国家超えた連帯の好機」(『朝日新聞』4月8日付朝刊)と題されたインタビューの中で、一時的な世界政府樹立について聞かれ、次のように語っている。

 「持続可能な生存には『国を越えた連帯』という道以外あり得ません」

 「破局へのリアリティーが高まり、絶望的と思える時にこそ、思い切ったことができる。この苦境を好機に変えなくては、と強く思います」

 ここであからさまに語られているのは国家否定論とでもいうべき主張ではないだろうか。従来の国家ではパンデミックに対応が出来ず、世界的な連帯こそが人類を救うという物語である。

 大澤氏に限らず、自らの夢と願望を交えながら国家否定と世界の連帯を説く人々は多い。だが、現実はどうだろうか。

 今回のパンデミックの問題で浮き彫りになったのは、依然として国家が大きな影響力を有しており、頼るべき共同体として機能していたという事実である。国家同士の連携が重要であることは否定できないが、国家の存在そのものを軽視したような、これまでの知識人やマスコミ人の議論が余りに現実離れしていたことも明らかになったのではないだろうか。

 結局のところ、我々は将来を見通すことが出来ない。危機の時代にあって、いたずらな願望を語ったところで現実は一歩も動きはしない。私たちにとって大切なのは、コロナと闘う医療関係者への感謝の念を忘れずに、かつての生活を取り戻すべく努力を傾注することなのだ。必要とされているのは根拠なき大言壮語ではない。一人一人の生命を守り、一人一人の穏やかな日常を取り戻していく堅実な行動こそが求められている。

 要はコロナの後であろうが何であろうが、それを機会に大きな変革が起こるはずはない、と私は思います。また多くの人々は元の生活に戻ることを願っているのだと思います。

 現状を否定し続ける人たちが、ではどんな世界を描いているのか、ほとんど見えません。マルクスの言う共産主義は、資本主義の終焉から始まるとしていますが、今までのどの共産主義国家も資本主義が終焉を迎えて、成立したわけではありません。

 ソ連にしろ中国にしろ、その時代の現実を否定し、所謂革命によって成立を見ましたが、レーニンやスターリン、毛沢東と言った独裁者を生んだだけで、平等とは逆の階級支配を作り上げ、貧困にあえぐ大衆の社会を作ったのです。

 日本にも事あるごとに現状を否定し、異なる世界を模索する人たちはいますが、具体的な青写真もなく理想を語るのみで、現状に満足している人たちから見れば全く魅力がありません。そこまで考えない人は、ただただ現政権批判をして、不満のはけ口としているだけです。

 いずれにしても、コロナは経済も人々の生活も大きく毀損しています。従ってその傷ついた状態から如何に早く、効果的に元に戻せるか、それが最も重要なことだと思います。世界の体制や仕組みを変えることよりも。

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