劣化する官僚機構、古い霞が関は捨て去ろう
東京オリンピックも今日で終わりです。日本選手の活躍によって、過去最高のメダルの獲得数だけではなく、それぞれの競技アスリートの努力の集大成による、様々な感動場面を我々に提供してくれました。コロナ下で無観客という異常な開催になりましたが、まず成功裏に閉幕(まだですが)といえるのではと思います。
ところで、話はオリンピックから外れますが、過去日本経済の高度成長期を牽引してきた一方の旗頭、「官僚機構」。その官僚機構が最近おかしくなってきているようです。JBpressにNFI研究所理事長の森田朗氏が寄稿したコラム『劣化する官僚機構、その根源にある人口動態に鈍感な霞が関 古い霞が関は捨て去ろう。このままではアジアの「反面教師」に』(8/6)に、その詳細を見ることができます。以下に引用して掲載します。
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少子高齢化と人口減少が進むわが国の社会の質を維持し、さらに発展させるためには、データの活用による効率的な社会運営が不可欠だ。一方で、データ活用のリスクにも対応した制度基盤の構築も早急に求められている。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大によって、これまでの経済、社会のあり方は大きく変わろうとしている。
その中で、日本が抱える課題をどのように解決していくべきか。データを活用した政策形成の手法を研究するNFI(Next Generation Fundamental Policy Research Institute、次世代基盤政策研究所)の専門家がこの国のあるべき未来図を論じる。今回は劣化する官僚機構について。なぜ優秀と謳われた霞が関の力が落ちているのか。
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年度始めや7月の人事異動の季節になると、霞が関で働く公務員の知人や教え子から異動の挨拶状が来る。かつては、○○局○○課長に任命されたとか、○○県○○部長に就任することになったというものが圧倒的に多かった。
しかしこのごろは、10年勤めた○○省を退職し、来月からは○○○○(カタカナの外資系コンサルティング会社等)で働くことになった、という類のものが多い。
以前も局長級のポストを退職し、天下りして内外の大企業の役員等に就くという挨拶はあった。最近は、退職の挨拶状が来るのは、30代前半の若手が多い。中には、さらに幹部への昇進が期待されている課長や審議官クラスもいる。
巷間言われているように、優秀な若者は就職先としての幹部国家公務員に魅力を感じなくなっているようだ。志望者が減少し続けているし、それよりもせっかく採用されながら途中で退職する者の数が非常に多い。かつてはエリートとして相当の地位に昇るまで勤めるのが当たり前であったのに、その将来を捨てる者が少なくない。
それでも、各省で働く官僚たちは、みな優秀で、それこそ残業も厭わず、働き方改革が問題になるほど国民や職務のために献身的に働いている──。そう言いたいところだが、先日の経産省の若手の詐欺事件には、官僚もそこまで劣化したのか、と驚きを禁じえない。
また、以前もないわけではなかったが、いくつかの省で、幹部による業者との癒着や収賄等、公務員倫理に反する行為も目につく。一部の者とはいえ、悲しいことに、官僚の世界における規律の劣化も進んでいるようだ。
わが国の官僚と官僚機構の優秀さは、かつてエズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』、チャルマーズ・ジョンソンの『通産省と日本の奇跡』が褒め称えたように、まさにわが国の高度経済成長を生み出した原動力であった。
それが30年余で大きく変化し、過去がすばらしかったがゆえになおさら厳しい批判にさらされている。どうしてこのような事態になったのか。
人口構成の変化が制度にもたらした機能不全
1990年代に始まった政治主導の制度改革、「失われた30年」とも言われる経済の低迷など、多種多様な要因が考えられる。それらについては別の機会に譲ることとし、ここでは社会の構造的要因について述べる。
というのは、このような組織の劣化は、何も霞が関に限らず、わが国の多くの企業組織にも見られるからである。東芝や三菱電機はその氷山の一角と言える。
制度は社会のある状態を前提として形成される。その前提たる社会が変わった時、それまでの制度は、以前のようには機能しなくなる。1990年代以降わが国に起こった社会の変化の結果、それまでうまく機能してきた制度が「機能不全」に陥った。
そうした社会変化としては、国際環境の変化や産業構造の転換、そしてデジタル技術の発展などがあるが、ここで注目したいのは、高齢化、少子化、そして減少に転じたわが国の人口構成の変化である。
人口減少、とりわけ生産年齢人口(15~64歳)の減少は、社会の雇用環境に大きな変化をもたらした。その変化した環境へ適応できなかったことが、組織の劣化を生み出している。
わが国では戦後「年功序列・終身雇用」の雇用モデルが存在してきた。確かに、学校を卒業後、まじめに働いてさえすれば昇進し、給料も同じように上がっていく仕組みは、士気を高め、組織への忠誠心を涵養した。
「年功序列・終身雇用」とは言葉を換えれば、「労働力先払い、報酬後払い」の賃金体系である。若い時にガマンして一生懸命働けば、将来昇進して高い地位に就いた時に、報酬は利子がついて戻ってくるという仕組みである。
だが組織は、通常、上が尖ったピラミッド型の構造を持っている。採用されてから年次が経つにつれて、ある段階からポストの数は減少してくる。全員が高い地位に昇進できるわけではない。そこには当然競争があり、その競争が成長へのエネルギーを生み出したことも間違いない。
組織の拡大を前提とした「雇用の自転車操業」
しかし、競争で勝ち残れなかった者はどうなるのか。「労働力先払い、報酬後払い」の仕組みでは、先払いだけして報酬を受け取れない者の士気は維持できない。全員にある地位までの昇進を保証し、士気を維持するためには、理屈の上では組織が持続して拡大し続けなければならない。
これは、どちらが先かはともかく、組織の拡大が成長を生み、経済成長が組織の拡大を生み続けていくという状態が実現できて初めて可能になる。いわば「雇用の自転車操業」みたいなものだ。
もちろん、組織の拡大にも限界があるから、一定以上の地位に昇るはずの従業員には、ある時点で次なる就職先を用意し、肩叩きによって後進に地位を譲ってもらう仕組みを形成する。
官僚機構の場合、これが「天下り」の仕組みだ。民間企業だと関連会社への片道キップである。この仕組みによって、ある組織の膨張そのものは抑制できるが、退職者の受け皿は必要だ。退職者が増えると、受け皿も増えなければならない。つまりは社会全体が拡大し続けなければ、この仕組みは持続できない。
わが国の戦後社会は、この膨張拡大、右肩上がりの状態を前提にして成り立ってきた。確かに、高度成長は持続し、国民生活は豊かになり、医療も行き届き、国民の健康状態も改善された。
その結果生じたのが、高齢化である。かつては治療法もなく、また医療に使うことのできる資金などの資源も限られていたため、今に比べると平均寿命ははるかに短かった。それが、豊かさの実現、医療の充実により、多くの国民がかつてと比べてはるかに長生きできるようになった。
だが、高齢化は新たな問題を生み出した。それまでは、退職した人々はそれほど長く生きなかったので、天下りにせよ、退職後のケアにせよ、大きな負担にはならなかった。
しかし、平均寿命が伸び、多くの人が退職してから死ぬまでに長い人生を送るようになると、彼らの退職後の生活保障が社会的な課題となってくる。
幹部の国家公務員に関していえば、かつて平均寿命が65歳くらいの時には、局長クラスが50歳、次官クラスが55歳で退職しても、現役時代の労働に対する「後払い報酬」を支払うために組織が面倒を見なければならない期間は10年に満たなかった。
しかし、平均寿命が75歳から80歳を超えるようになると、20年かそれ以上の期間、組織は退職後の手当てをしなければならない。1980年代から生じたこのような状態に対して、当時の各省の秘書課や人事課は必死になって退職者の送り込み先を探し、あるいは行き先を作ったものである。
民間企業も同様の状態にあったから、民間企業への押しつけにも限界がある。結果として、退職者を送り込むために、公費で事業を行う外郭団体を多数創設したのである。
しかし、こうした行為は当然に社会の批判を招く。その結果、もともと所属していた組織の斡旋等による天下りが禁止され、どこにも行けなくなった退職予定者が組織内に滞留することになった。
若手の士気が低下する必然
そのため、上位のポストを増やす、定年を延長する、外部への出向を増員する等の方法で、下からの「昇進圧力」を逃すことを試みたが、それにも限界はある。
他方、公務員の場合、定員に上限が設けられていることから、上位のポストを占める者が多くなってくると、その分だけ若手が相対的に少なくなる。当然、彼らの昇進は遅くなるとともに、政策提案に結びつくような仕事ではなく、かつては多数で分担していた雑務の負担が少数の若手にかかってくることから、士気は下がらざるをえない。
このような、昇進が遅く、将来の不安を拭えない仕事に、多くの優秀な若者を惹きつけることは難しい。
近年、わが国の発展をリードしてきた大企業の凋落も甚だしく、わが国の発展の社会的基盤が崩壊しつつあるようにも思われる。流動化しつつある社会の中で、将来の成功を目指す優秀な若者は、不確実な将来の後払いに賭けるのではなく、現在の働きに対する対価を求め、条件が変わると、仕事を変えることもまったく躊躇しない。
加えて、長く続いてきた若年人口の減少は、最近になって、労働市場をかつての買い手市場から売り手市場に変えた。働きがいのある職業を求める若者が、長い年季奉公を経てやっと高いに地位に就けるような組織ではなく、今の自分を高く買ってくれる組織に自分を売り込むのも不思議ではない。
わが国の官僚制度は、明治期に形成された。それは、マックス・ウェーバーの官僚制モデルに合致する国家のリーダーたる組織であり、わが国の俊秀を集めてきた。また、そのように教育が行われてきた。
戦後改革によって、官僚が公務員となり、その忠誠の対象が、天皇から国民へと変わり、労働者としての権利も保護されるようになった。しかし、基本的な制度構造、その早期選抜によるエリート養成の閉鎖的な特権集団としての性格は変わらなかった。
それでも、優秀な若者が多数応募する環境が持続する限りは、この仕組みは存続できた。現在でも、使命感を持った優秀な公務員によってこの国は支えられている。だが、その環境が、上述したように、大きく変わったのだ。
霞が関の古いビジネスモデルはさっさと捨てよ
前提としての社会が変わった以上、制度の方でそれに適応していかなければなるまい。優秀な官僚と機能的な官僚機構は、国家の安全と安定した社会を維持するためには不可欠の要素である。
今後、それにふさわしい人材をどのようにしてリクルートするか。それには、従来の伝統や成功神話にとらわれることなく、大胆な改革を行うことが必要であろう。開放的な組織として、高い能力と意欲と、そして何よりも国家に対する忠誠心を持った優秀な人材をいつでも調達できるような待遇を備えた公務員制度の形成である。
かつて20世紀にアジアで開催された行政学系の学会では、常に公務員の汚職が主要なテーマとして取り上げられていた。21世紀に入ってからは、このテーマは見られなくなった。
理由は、特に東南アジアの国々で、腐敗の原因であった公務員の劣悪な待遇が改善されたことによる。幹部公務員については、競合する民間企業の役員と遜色のない待遇で優秀な人材を抜擢するようになったのである。
それらの国では、かつて日本の優れた官僚機構は理想であり、清廉で有能な官僚は、彼らが目指すべきモデルであった。しかし、今やモデルではない。今後、抜本的な改革を断行し、有為な若者の惹きつける職業としなければ、アジア諸国の反面教師となりかねない。そうならないために、まずやらねばならないのは、古い「ビジネスモデル」を一刻も早く捨てることだ。
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以前にもこのブログで取り上げましたが、国会の審議に関する答弁書の作成に多くの労力が奪われている実態、しかも紙ベースのやりとりが未だに中心の非効率なやり方、それを含めた多くの雑用が、折角国が抱える多くの課題を解決するために存在する、彼等のやる気をそいでいるのです。
さらには高橋洋一氏も指摘しているように、例えば数理モデルを駆使して課題解決をする必要がある仕事が多いのに、財務省などの官僚は文系が多い、と言う実態もあります。また昨今、家の周りに目立つ耕作放棄地、更には荒れ放題の山林、この実態を農水省の官僚がつぶさに観察し、その課題解決を考えているのか、と疑わしくなります。
つまり専門の知識や経験を持った適正な雇用や人事配置もなされているのか、というのも問題でしょう。私は東京大学法学部から多くの人がキャリアとして入省し(最近は減ってきたようですが)、3年ごとに配置換えをする今の人事システムは、まさに時代遅れだと思います。どんどん民間から、その道の専門知識や経験を持った人材を受け入れ、組織を活性化していく必要があり、そうしなければ森田氏の言うとおり「アジア諸国の反面教師となりかねない」でしょう。
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