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2021年8月10日 (火)

通州事件など、昭和史に埋もれていた「事件」に光を当てよう、そして先の戦争の真の要因にも

Images-3_20210809173501  今月6日、9日の広島、長崎への原爆投下日の平和祈念式典も終わり、もうすぐ8月15日がやってきます。日本ではこの日を太平洋戦争(日本名は大東亜戦争)の「終戦記念日」としています。(実際には、9月2日の米国戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印が世界的には終戦と認識されています)。今年もまたいくつかの特集記事やテレビ報道、イベントが彩りを添えることでしょう。

 実はこのブログ開始のスタート記事も、2018年8月18日寄稿した『「戦争を語り継ぐ」を考える』で、終戦記念日の戦争体験談に関する私自身の感想を述べたものでした(1年後にも「その2」を寄稿しています)。その背景は、多くのメディアや知識人の殆どが、あの戦争の負の部分をことさら強調し、自虐史観に洗脳されているがごとく、日本を悪と決めつけて、「なぜ日本があの戦争をしなければならなかったか」という、要因の部分に深く切り込んでいない状況に疑問を持ったからでした。

 今、読み始めたばかりですが、波多野澄雄氏共著の「決定版 大東亜戦争」の序文の中に、福田恆存氏の著書『「世代の断絶」といふ事』の一節が引用されています。

「真の日本の崩壊は、敗ける戦争を起こしたことにあったのではなく、また敗けた事にあったのではなく、その後で間違った過去を自ら否定することによって今や新しい嗜が来ると思った事に始ったといへます。」

 と言うものですが、確かに何が間違っていたのか、を深く検証することなく蓋をしてしまったようです。実際戦争には善悪はないはずですが、あの戦争については、敗者日本やドイツが、勝者連合国側から悪と決めつけられた、最初の戦争だったようです。そうした状況下で、GHQの提供したWGIPと平和憲法を鵜呑みにし、すべて日本、とりわけ日本軍の責任にしてしまったことが、日本の崩壊につながっていると示唆しているのでしょう。

 日本がすでに崩壊しているかどうかと言う議論は別にして、その兆候が現れているのは否定できません。いずれにしろ、戦後政治や教育や社会の問題もまた、イデオロギー論争に陥ることなく、きちんと議論していく必要はありますが、そのベースは事実をしっかり取り上げて行くことでしょう。

 実はあの戦争でもあまり語られていない事実が多くあります。ノンフィクション作家の早坂孝氏がNewsweekJapanに寄稿したコラム、『通州事件、尖閣諸島戦時遭難事件... 昭和史に埋もれていた「事件」に光を当てる』(8/6)にそれを見ることができるので、以下に引用します。

<戦争が終わり、時間の経過と共に忘れられていったのではなく、元より埋没してしまっていた重大事件がある。当事者たちの証言をもとに、それらの事件から昭和の大戦を読み解く>

第二次大戦の終結から76年がたつ。徐々に歴史の彼方へと追いやられようとしている。だがそれ以前に、敗戦国となった日本で長らく埋もれてしまっていた数々の重大事件があると、ノンフィクション作家の早坂隆氏は言う。

このたび『大東亜戦争の事件簿――隠された昭和史の真実』(育鵬社)を上梓した早坂氏が、その「事件簿」の一部を特別に寄稿する。

◇ ◇ ◇

昭和史において、埋もれている数々の事件がある。冷静に語り継がれるべきそれらの事件は、なぜ埋没してしまっているのか。あるいは、意図的に隠蔽されているのか。事件当事者たちの証言をもとにしながら、先の大戦に関する新たな一面に光を当てたい。

通州事件〈日本人居留民への大虐殺事件〉

支那事変(日中戦争)の引き金となったとされる「盧溝橋事件」。しかし、その前後には、中国側による数々の排日・侮日事件があった。

昭和10(1935)年11月9日、上海の共同租界内において、日本海軍の上海陸戦隊員である中山秀雄一等水兵が、中国人により背後から射殺された。「中山水兵射殺事件」の勃発である。

昭和11(1936)年7月10日には、上海在住の日本人商人が、近所の子ども3人を連れて歩いていたところ、頭部を狙撃され死亡。「上海邦人商人射殺事件」である。

その後も日本人に対するテロ事件が相次いだ。大阪毎日新聞の記者が中国人の暴徒に襲われて死亡した「成都事件」、日本人が経営する商店が襲撃されて店主が殺害された「北海事件」、警察官の吉岡庭二郎巡査が狙撃されて死亡した「漢口邦人巡査射殺事件」などである。

盧溝橋事件後には、その後の日中関係に決定的な影響を与えた事件が勃発している。「通州事件」である。

昭和12(1937)年7月29日、北平の東方に位置する通州(現・北京市通州区)という町で、その大虐殺事件は起こった。冀東保安隊(保安隊)と呼ばれる中国人部隊らが、日本人居留民への襲撃を始めたのである。当時、5歳だった新道せつ子は、その日の記憶を以下のように記述している。

〈城内で医院を開いていた私の父母は、暴動を起こした中国の保安隊に襲われ、その地にいた邦人二十七人といっしょに、高梁(引用者注・コーリャン。モロコシのこと)の畑で虐殺されたのでした。二歳だった妹も、母に抱かれていたために同じ運命にあったのでした〉(『ハンゼン氏病よ さようなら』)

通州在住者の佐々木テンは、虐殺の場面を次のように語る。

〈妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

 お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。

 片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです〉(『通州事件 目撃者の証言』)

結局、通州に約300人いた日本人のうち、実に200人以上が犠牲になったとされる。

無論、当時の日中関係において、日本側が全くの無謬であったはずがない。しかし、日本の近代史教育では「日本が加害者」である事件ばかりが強調して教えられ、「日本が被害者」の事件はほとんど触れられない。その結果、全体としてのバランスを欠いた歴史教育となってしまっている。

だが、実際の戦争とは、相互性の中で拡大していくものである。一方が絶対的な加害者で、もう一方が絶対的な被害者であるという歴史認識にとらわれてしまっては、史実を大きく見失うことになる。意図的なトリミング(切り取り)をすることなく、丁寧に歴史を見ていく姿勢が重要である。

オトポール事件〈日本軍人によるユダヤ難民救出劇〉

「日本人によるユダヤ難民救出劇」と言えば、杉原千畝による「命のビザ」が有名である。しかし、実際にはもう一つ、救出劇は存在した。それが陸軍軍人・樋口季一郎が主導した「オトポール事件」である。

昭和13(1938)年3月8日、満洲国とソ連の国境に位置するソ連領・オトポールに、ユダヤ人の難民が姿を現した。ナチスの弾圧から逃れるためにドイツなどから退避してきた彼らは、シベリア鉄道に乗ってオトポールまでたどり着いたが、満洲国外交部が入国を拒否したために立ち往生していたのである。

その話を聞いて動いたのが、ハルビン特務機関長の樋口季一郎だった。ポーランド駐在の経験などがあった樋口は、ユダヤ人問題を深く理解していた。樋口はこの難民問題を「人道問題」として、彼らに特別ビザを発給するよう満洲国側に指導した。当時の日本はドイツと友好関係を深めていたが、樋口は自身の失脚も覚悟したうえで、難民救済を決断した。

結局、難民たちには「5日間の満洲国滞在ビザ」が発給されることになった。

3月12日の夕刻、ハルビン駅にユダヤ難民を乗せた特別列車が到着。難民たちは近隣の商工クラブや学校などへ速やかに収容された。当時、この難民救出劇を現地で目撃していたユダヤ人のテオドル・カウフマンは、樋口についてこう書き記している。

〈樋口は世界で最も公正な人物の一人であり、ユダヤ人にとって真の友人であったと考えている〉(『The Jews of Harbin Live on in My Heart』)

後日、樋口のこの決断は関東軍内で問題視された。関東軍司令部に出頭した樋口を尋問したのは、時の関東軍参謀長・東條英機であった。樋口はこの時、東條にこう言い放ったという。「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」。

東條は「当然の人道上の配慮」として、樋口を不問に付したという。結局、その後もこの「ヒグチ・ルート」は使用され、多くのユダヤ人が命を救われた。

以上が「オトポール事件」の顛末であるが、この救出劇は杉原の「命のビザ」と比べ、ほとんど語り継がれていない。それは外交官だった杉原に対し、樋口が陸軍軍人であったことが理由の一つであろう。戦後、陸軍への批判が強烈に増す中で、「日本軍人の功績」はタブー視された。オトポール事件はこうして「埋もれた事件」となったのである。

しかし、軍人であっても、その行為は是々非々で語られるべきであろう。事実に沿って歴史を伝承することは、決して美化や悪しき修正などではない。

救出劇の目撃者の一人であるイスラエル在住のユダヤ人、クララ・シュバルツベルグさんは、私の取材に対してこう語った。

「ヒグチは偉大な人物です。私たちは心から感謝しています。彼の存在を決して忘れません。日本人はヒグチのことをあまり知らないのですか? それは本当ですか? 日本人は学校で何を習っているのですか?」

尖閣諸島戦時遭難事件〈残されたままの御遺骨〉

昭和20(1945)年7月、沖縄県の石垣島から台湾へ向かう二隻の疎開船が、米軍機の攻撃に晒された。激しい機銃掃射により多くの犠牲者が出たが、そんな遭難船が目指したのが、尖閣諸島の魚釣島だった。乗員の一人だった漁師の男が、「あの島には湧き水がある」と証言したためである。

かつて鰹節の加工で賑わった魚釣島は、この時は無人島になっていた。その漁師は以前、鰹漁の際に魚釣島に滞在した経験があったのである。

こうしてたどり着いた魚釣島には、確かに湧き水はあったが、食糧は乏しかった。遭難者たちは島内に群生するクバ(ビロウ)の茎や若葉を食べて生命を繋いだ。しかし、やがて餓死する者が相次ぐようになった。当時、17歳だった屋部兼久は次のように証言する。

〈上陸してからも毎日毎日、人が死んで行きました。弱った老人がたおれ、負傷した人、子供の順で死んで行くのです。埋葬しようにも硬い岩根の島で、穴が掘れないのです。離れた所に石をつみ上げてとむらいました〉(『沖縄県史 第10巻』)

結局、終戦後に彼らは救助されたが、その時にはすでに多くの人命が失われていた。この遭難事件の犠牲者数には諸説あるが、米軍の銃撃から魚釣島で死亡した方々すべてを含めると、延べ100名前後の方々が命を落としたのではないかと推計されている。

昭和44(1969)年、当時の石垣市長らが魚釣島に上陸。「台湾疎開石垣町民遭難者慰霊碑」が建立され、慰霊祭が執り行われた。しかし以降、魚釣島での慰霊祭は、一度も実行されていない。

遺骨収集も進む気配がない。多くの御遺骨は今も島内に取り残されたままである。日本は速やかに遺骨収集を実行すべきである。

それを躊躇する理由など一つもない。

「偉人伝」より「事件簿」

忘れ去られた事件の数々。それらの事件を丁寧に読み解いていくことは、より複眼的な奥行きのある歴史観を育むことに繋がるだろう。歴史は常に多面的に見ていかなければならない。

歴史とは必ずしも「偉人」がつくるものではない。「偉人伝」よりも「事件簿」のほうが重要なのである。

 上述の早坂氏の指摘する事件もそうですが、何よりも大事なのは、日本が今北朝鮮が受けていると同様の経済制裁を、当時アメリカを中心とした連合国から受けていたその事実、そしてその主たる要因は何だったのかを紐解くことでしょう。

 そして更にその経済制裁の果てに、日本が開戦を決意しなければならなかった、その決定的な文書「ハルノート」が、なぜ誰の手によってもたらされたかでしょう。すでにヴェノナ文書等でその一部が明らかになりつつありますが、日本としてもその実態を明らかにしていく必要があります。

 そうでなければ福田恆存氏の言う「真の日本の崩壊」を食い止めることはできないでしょう。今の日本の実態、つまり基地を提供することにより、日本の安全保障をアメリカに完全に委ねている実態、これは自前で国を守れない、すなわち主権なき国家の状況を呈しているに他なりません。集団安全保障とは相互に対等に保障するのが原則ですが、日米安保はそうではありません。

 確かに日米安全保障条約下で、米国の核の傘の下に居れば、中朝ロの直接の攻撃の手からは逃れられるかも知れませんが、それで真の独立国家と言えるのかどうか。少なくとも尖閣くらいは自前で防衛すべきでしょうが、それさえ日米安保5条の適用を懇願している状況では、真の独立国家とは言えないような気がします。

 もう一度日本が、なぜ日米開戦に突入しなければならなかったのか、その前に日華事変、ノモンハン事件、満州事変と遡って、それらの真の目的は何だったのか、安易に日本陸軍の所為だけにせず、真の要因を紐解いていけば、今の崩壊寸前の日本を救う道が開けるのかも知れません。もちろんだからといって反米、反(当時の)連合国を今更持ち上げるつもりは全くありません。純粋に日本のために、と言う趣旨です。

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