「平等と公正を考える」・・(再掲載)
このブログを投稿し始めて、2年あまりが経ちました。初期の頃は私の日頃思っていたことを、独断と偏見で綴っていました。今回は、その中で今でも時々閲覧してくださる方がいる、投稿文を取り上げてみます。「平等と公正を考える」で、以下に再掲載します。
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前回も取り上げましたが「平等」という概念。今回はこれに加えて「公正」も取り上げてみたいと思います。
憲法第14条に「すべて国民は法の下に平等であって・・・」と謳われています。この平等という言葉の意味は元々仏教用語で、ネットからの引用ですが「個人の資質、能力、努力、成果に関係なく一定の規則通りに遇するシステムとなっていること」ということのようです。選挙における投票の権利はこの「平等」にあたりますね。
よく「機会の平等」と「結果の平等」が取り上げられ、例えば「どんな学生でも就職先を平等に選択出来る」というのが「機会の平等」、「同期入社の社員であれば仕事が別々でどこで働こうが給料は同じ」と言うのが結果平等でしょう。
しかし結果平等はその結果に至るプロセスを無視しています。ですから、例えば労働者でどれだけ真剣に働こうがサボろうが、同じ給料では真剣に働く人のモチベーションが下がりますから、機会の平等を優先するのが一般的です。共産主義が破綻したのも結果平等を謳ったからだと思います。
さて機会の平等、権利の部分では機会を生かそうが生かすまいが、個人の自由です。選挙権がいい例です。行かない人が多くなるのも、平等と謳っていてもその有り難みが実感としてわかないからでしょう。しかしこのグループに属していれば均等に五つ星レストランの食事券が貰える、と言う権利であれば、まあ貰っておこうかという人は居ても、要らないという人は少ないかも知れません。少し違った面では、生活保護を受ける権利は、ある一定の基準を満たせば平等に受けられるでしょう。
だが義務の面で見るとどうでしょう。納税の義務では収入の多寡に拘わらず平等に支払えなんて、とんでもないと言うことになります。教育の面では小中学校が義務教育で、親は子供を通わせなければなりませんが、居住地の関係で必ずしも平等な教育レベルの学校を選べるとは限りません。
更に突っ込んでいくと、権利の面でも例えば兄弟同士で親からものを貰う場合、年齢、性別関係なく同じものというわけに行かない場合が多い。小遣いでもそうでしょう。今では少なくなったかも知れませんが、飲食店で先輩が後輩より多く飲食代を出すとか、運動会で勝ったもから多くの賞品を貰うとか、いくらでも平等でない面はあります。
このように平等と言ってもあくまで「法の下」であって、実社会の中では、必ずしも平等にはそぐわない点も出て来ているようです。
「公正」というのはこれもネットからの引用ですが「公平で偏っていないこと。また、そのさま」、とありこの「公平」とは「公に平らなこと、すなわち一定の集団において、偏らないということである」、さらに「義務履行の結果として、平らに報じるとの概念である」、とあります。
「公正」(equity)と「平等」(equality)の違いをネットから引用してみましょう。
「公に平等」という意味の公平であるが、実際には「平等」とは異なるものと言える。例えば、3個のリンゴを3人で分けるとき、1人1個ずつなら平等かというと、リンゴの大小や味などの要素があり、厳密には異なる。大きさについては、歳の順で、年少からあるいは年長から大きいものをとっていく、などという決め方も考えられるが、味のほうは外見ではわからないので、結果が平等とは限らない。
また、カステラを3等分する場合、もし金尺とノギスを使って厳密に測って3等分しようとしても、真ん中と端では異なる。そもそも、物差しがあってもふつうは目測で3等分することになる。厳密に3等分されることは期待できないので、おおよそ3等分だろうというところを切り、切らなかった人から好きなところを取っていくなどのやり方をしたり、あるいはじゃんけんで決めたりする。「俺はカステラ嫌いだから2人で半分ずつにしてくれ」と1人が言う場合もあるだろう。いずれも、少なくともその場にいる3人が納得していれば、「平等よりは公平がふさわしい」場合と言える。
違いがよく見えてきます。つまり「平等」とは、あらゆる他の条件は無視しての平等であって、「公正」になると、その対象者の属性なり対象物の物性などの配慮も含むことになりますね。
スポーツの世界で格闘技、即ちボクシングや柔道、レスリングなど、「体重」によりレベル分けしています。これは属性を加味した、選手にとって「公平」な競技にしようという意味からでしょう。そう言う意味では「身長」の配慮は無いようで す。バレーボール、バスケットボールなど明らかに身長の高い方が有利なのに、です。
話を戻して、選挙権の件では、対象者の属性は全く考慮に入れてはいません。かつては資産に応じて、とか男性のみ、とか所謂不平等であったのが、今では「法の下」に平等です。したがって政治のことなど全く分っていない若い人や、関心がなく選挙に行かない人、判断力も失いかけた高齢者でも、属性は問いませんから「平等」に一票の投票権があるのです。
ですからこの選挙権は対象者は平等であっても、「履行の結果として、平らに報じるとの概念」に反し、即ち「公正」ではないことになりそうです。そして前回も取り上げた地域ごとの一票の格差。地域では不平等と言うことは、それ即ち不公正、と言うことになります。
地域による一票の格差は、これからも違憲訴訟で議論されていくでしょうが、選挙権については、憲法で保障された国民固有の権利であって、「法の下」に平等ですから、いくら「公正」さを欠くのが実態であっても、覆せません。
加えて小選挙区比例代表並立制という選挙制度そのものも「公正」な民意を正確に反映するとは言えませんが、これも政党間の利害に直結する課題で、よりよい方向に、と言っても簡単には変えられないでしょう。
人間にはそれぞれ意志があり、想いがあり、欲がありますから、万人に共通の「公正」な制度は望むらくもないのかも知れません。ただ日本人一人ひとりが、この「公正」な社会を維持発展するよう、努力していかなければならないと思います。「自由」の元でもっとも大事なのはこの「公正」さだと考えます。
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