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2021年11月13日 (土)

真珠湾攻撃から80年 奇跡の大作戦は「職人芸」の結集だった

O1024043714454976796  もうすぐあの日米開戦から80年を迎えます。大東亜戦争の記憶と言えば、広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦・シベリア抑留、沖縄戦での死闘や東京大空襲そして玉音放送と、日本の戦禍と敗戦の記憶が色濃く映し出されます。そして真珠湾攻撃に関しては、奇襲、だまし討ちという負の部分が多く語られます。

 しかし開戦の端緒となったこの真珠湾攻撃を、肯定的に捉えた記述もあります。決して戦争賛美ではありません、客観的にその攻撃を映し出しています。産経新聞の佐渡勝美氏のコラムがそれです。タイトルは『真珠湾攻撃から80年 奇跡の大作戦は〝職人芸〟の結集だった』(11/12)で、以下に引用して掲載します。

 ◇

今年の12月8日は、日本が対米開戦に踏み切った真珠湾攻撃から80年に当たる。この世界を震撼させた大作戦は単なる「奇襲」では断じてなく、当時の軍事技術の粋や日本の〝職人芸〟を結集させた、奇跡の作戦であった。ただ、現場からは不満もあがっていた。日米開戦50年の年(平成3年)に筆者が取材した3人の真珠湾攻撃参戦パイロットの証言を柱に、この作戦の一端をひもとく。

荒波の難ルート

話を聞いたのは、空母「赤城」の急降下爆撃隊中隊長だった阿部善次氏(真珠湾攻撃時25歳)▽空母「蒼龍」の水平爆撃隊員だった大多和達也氏(同22歳)▽空母「翔鶴」の戦闘機隊員だった小町定氏(同21歳)。30年前の取材時は70歳代だったが、すでに3人とも鬼籍に入った。

「あの荒波の難ルートで空母機動部隊が日本からハワイ北方までたどり着けたこと自体が、まず奇跡だった」(阿部氏)

空母6隻(艦載機399)、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻、特殊潜航艇5隻などからなる旧日本海軍の機動部隊は昭和16(1941)年11月下旬、千島列島・択捉(えろろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾に密かに集結。11月26日に出港し、ハワイ・オアフ島の真珠湾を目指して進撃を始めた。

航路は、そのまま東に針路を取り、経度がハワイ諸島とほぼ同じ地点に達してから一気に北太平洋を南に縦断するというものだった。しかし、冬の北太平洋は暴風が常に吹き荒れて波が高く、到底、船舶の航行は不可能というのが当時の常識だった。

阿部氏によると「戦う前に機動部隊は北太平洋で難破してしまうのではないかと懸念する声も多かった」というが、まさにそこが連合艦隊司令長官・山本五十六大将の狙いであった。通常、日本からハワイを目指すのであれば、西太平洋横断ルートが常識だが、それでは他に航行する船舶、艦艇も多く、米軍の索敵活動も盛んなため、機動部隊の動きが把握されてしまうのは必至だった。

ありえない北太平洋縦断ルートをとることで、米軍に察知されることなく、ハワイに迫ろうとしたわけである。

高波は強烈だった。

「搭乗員はハンモックで寝ていたが、夜通し空母の揺れがひどくて隣の隊員とぶつかり、なかなか寝付けなかった」(大多和氏)

「初陣の興奮と揺れの激しさで寝られず、毎晩酒を飲んでいた」(小町氏)

ちなみに酒類は艦内で販売されており、搭乗員の飲酒は許されていたという。無寄港での片道約6000キロという空母の移動距離も、前例のない驚異的なものだった。このため、通常の燃料庫を満載にしただけでは必要量が積載できず、「隙間という隙間に燃料缶が積まれ、火気厳重注意が通達されていた」(小町氏)という。

神業的な技量

機動部隊の隠密行動は徹底された。航行中、無線発信は一切封印され、受信した暗号も12月2日に連合艦隊司令部から発せられた「新高山登レ1208」(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)という暗号電だけだった。

日米交渉の進展によっては、機動部隊は日本に引き返すこともあり得たが、この12月8日の真珠湾攻撃を命じる暗号電によって作戦遂行が最終決定された。

米国は真珠湾攻撃を受けた時点では日本の外交文書の暗号は解読していたが、海軍の暗号はまだ解読できていなかった。

米軍のレーダーの探知圏(約250キロ)外のハワイ諸島の北方約400キロに到達した機動部隊は、日本時間の12月8日午前1時30分(現地7日午前6時30分)、空母6隻から第1波攻撃隊183機(未帰還9機)を発進させた。

約1時間後に167機(未帰還20機)からなる第2波攻撃隊として赤城から出撃する阿部氏はこの時のことを「荒波で空母のヨーイング(左右の揺れ)は20度ぐらいあった。この状態での艦載機出撃は普通ならあり得ないが、真珠湾攻撃に選抜されたパイロットの技量レベルであれば問題なかった。全員、〝特技〟を身に着けていた」と話した。

特技とは、鹿児島湾(錦江湾)周辺の陸地での発着艦訓練で習得したもので、空母の飛行甲板に見立てた滑走路に搭乗機で上空からゆらゆらと水平に近づき、最後は速度がゼロになった段階で地上1メートル未満の地点からストンと落ちるように地上に降りる技だった。自在の職人技が、悪条件下での発着艦を可能にしていた。

第1波攻撃隊で蒼龍から出撃した大多和氏の任務は、97式艦上攻撃機を操縦し、同乗の爆撃手と呼吸を合わせて重さ800キロの徹甲弾を高度3000メートルから投下して一撃で戦艦の装甲を破る打撃(水平爆撃)を与えることだった。

しかし、命中させるには神業的技量が要求された。第1波、第2波攻撃で水平爆撃を担う計103機の97式艦上攻撃機が出撃したが、徹甲弾を米戦艦8隻に命中させたのは約30機とみられている。大多和氏は戦艦「ネバダ」を標的にし、雲で着弾は視認できなかったが、上がった火炎と風圧から命中を確信したという。

木製ひれが生んだ秘密兵器

破壊力は大きいが命中率の低さが難点だった水平爆撃に対して、高い命中率で威力を発揮したのが、雷撃機(計40機)による魚雷攻撃で、90%以上の命中率をあげた。しかし、当初は航空機による雷撃は真珠湾では不可能とみられていた。

それまでの航空機による魚雷攻撃は、約100メートルの上空から投下した魚雷が60~80メートルの海中にいったん沈んでから浮上し、直進して敵艦を目指すというものだった。しかし、真珠湾の水深は12メートルしかなかった。

パイロットの技量を高めて高度10メートルを切る超低空での飛行を可能にしても、鹿児島湾での実験では最低20メートルの水深が雷撃には必要であった。この状況を打開したのが、海軍技術将校の愛甲文雄大佐(開戦時40歳)のアイデアだった。

戦後は神奈川県逗子市でプラスチック製品製造工場を営んだ愛甲氏のまさに職人的発想が生んだ工夫は、魚雷尾部の縦舵と横舵部分に木製のひれ(長さ約60センチ)を取り付けるというもの。鹿児島湾での実験で木製のひれのさまざまな形態、長さ、角度を試し、高度20メートル程度から落としても10メートル以上は沈まず、直進の際の海中雷道も安定する浅海面魚雷が完成した。真珠湾攻撃3カ月前のことだった。

実は筆者は、平成3年11月、真珠湾攻撃50年を前に浅海面魚雷の開発秘話を聞こうと愛甲氏に取材を申し込んだのだが、「体調がすぐれない」(愛甲氏)という事情から、実現しなった。その3日後の同月14日未明、愛甲氏は火災で夫人とともに不慮の死を遂げた。

同日夜、逗子市の全焼した愛甲氏の自宅を尋ねると、次男の次郎氏(元ソニー専務)が「父は海軍時代から高松宮殿下と親交があり、殿下から『アメリカとの戦で勝ったのは、愛甲がかかわった一戦(真珠湾)だけだったね』といわれた、とよく自慢げに話していました」と思い出を語ってくれた。

幻の「空中決戦」

第2波攻撃隊の急降下爆撃隊中隊長として赤城から出撃した阿部氏が真珠湾に到達した頃には、上空は修羅場と化していた。反撃らしい反撃を受けなかった第1波攻撃隊と異なり、対空砲火による米軍の激しい反撃が始まっていたからだ。

「出撃前、主目標だった空母群が停泊していないと聞き、がっかりしたのを覚えている。このため指令は戦艦への重複攻撃だったが、とにかく視界が悪かった」(阿部氏)

火炎や煙で標的が見えづらく、阿部氏は対空砲火の弾道を逆にたどって決死の思いで急降下爆撃を仕掛けたという。しかし、阿部氏は「第2波攻撃は無駄ダマだった。すでに第1波攻撃で90%以上の戦果をあげており、重複攻撃は意味がなかった。第2波は攻撃目標を石油タンクや軍施設に切り替えるべきだった。そうすれば、戦局はさらに大きく変わっていたはずだ」と当時の思いを語った。

第2波攻撃が行われていたころ、小町氏は零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に搭乗し、機動部隊の上空直掩(ちょくえん)の任務に当たっていた。米軍が航空機での機動部隊への反撃を試みてきた場合、これを迎撃し、味方艦艇を守るのが上空直掩だ。

ハワイの基地から飛び立って機動部隊を攻撃しようとした航空機は皆無だったが、当初、真珠湾に停泊しているとみられた2隻の空母「エンタープライズ」と「レキシントン」の所在が不明であったため、急襲される可能性は現実味を帯びていた。

「どこからでもかかってこいと、急襲に備えたが、結局、2時間ほどの飛行中、敵機は現れなかった」(小町氏)

この時、レキシントンはミッドウェー方面で展開中で参戦は不可能だったが、エンタープライズはオアフ島の西約320キロの地点にいた。大混乱に陥っていたハワイの司令部は、日本の空母を発見したら反撃するようにエンタープライズに命じ、実際、一矢を報いようと同艦からは攻撃隊が出撃した。

オアフ島の北約400キロで展開していた機動部隊も索敵機を飛ばして米空母を探したが、見つけられなかった。結局、日米双方が探し合っていた空母は遭遇することなく、史上初の空母艦載機同士による空中決戦は持ち越しとなった。

悔いを残しての帰投

阿部氏が赤城に帰還すると、甲板では第1波攻撃で出撃、帰還した航空機に燃料と兵器が補充され、第3波攻撃の準備がされていた。「現場は当然、第3波をやると思っていた」(阿部氏)が、下った命令は、作戦終了、日本への帰投だった。

阿部氏は「なぜだ、と信じられない思いだった。工廠など攻撃目標はまだ多数残っていたし、そもそも艦載機の半分を失ってでも徹底的に戦い抜くと申し合わせていたはずだ。空母だって探し出せただろう」と振り返った。

攻撃で出撃した350機のうち未帰還は29機にとどまり、艦艇は無傷だった。大多和氏も「ほとんどの搭乗員が地団駄を踏んで悔しがった。帰国の途では、真珠湾に大きな悔いを残してきた思いでいっぱいだった」と話した。

1997年に公開された米軍秘密文書によると、真珠湾攻撃の3日後、スターク海軍作戦部長はマーシャル陸軍参謀総長に送った書簡で「今、日本軍に中部太平洋で海戦を挑まれたら、米艦隊全滅もありうる。日本はハワイ全島占領や本土西海岸攻撃も可能だ」と戦況分析をしていた。

戦後、航空自衛隊で操縦教官を務めた大多和氏は昭和30年代に米海軍士官学校などに1年間、留学した。関係者に「ミスター・オオタワは真珠湾攻撃に参戦したパイロットだった」と紹介されると、称賛の拍手を受け、「なぜあのような作戦が敢行できたのだ」「どんな訓練を受けたのだ」と質問攻めにあったという。

「恨まれるかと思っていたら、軍人としての職務は職務として評価してくれたのはうれしかった」(大多和氏)。恩讐を超えた有意義な留学生活が過ごせたという。

 ◇

 80年前の装備であるからこそ、パイロットの技量に多くを委ねていたのでしょうし、この記事の通り日本の海軍パイロットは見事にその技量を発揮して戦果を得た、と言うことでしょう。今ではミサイルの時代、多くを誘導技術に委ね、パイロットを必要とする戦闘機や爆撃機もハイテク化が進んでいて、人の技能に頼る部分は少なくなっているものと思われます。

 いずれにしても、当時の海軍のパイロットの技量は素晴らしいものがあり、また陸軍においても、マレー作戦やシンガポール侵攻時の破竹の進撃は、歴史に残るものがあります。大東亜戦争開戦を肯定するものではありませんが、戦後あまりにも戦争の負の部分のみが強調され、軍を諸悪の根源のように取り扱うメディアや知識人が多いことに、非常に残念に思います。

 このコラムのように、開戦時の日本の兵の強かったことが、改めて日の目を見ることにより、もう一度強い日本、日本人を目指すきっかけになることを願います。もちろん兵士と言うことではなく、一般の人たちがOECDの中でも幸福度ランキングがかなり低く、将来に余り希望を持てないと言った、負け組のような考え方を払しょくし、強くたくましい姿を取り戻すことを願ってやみません。

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