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2021年11月14日 (日)

国家主権の概念なき「専守防衛」では国民は守れない

2e3f6434ec303d62d72d26a22690f1b3  日本の国防は「専守防衛」を基軸としていると聞きます。「専守防衛」は、オックスフォードランゲッジの定義によると「先制攻撃を行わず、相手国の攻撃を受けてから自国領土またはその周辺で、必要な軍事力を行使して守備と防衛に徹すること」とあります。

 私はこの「専守防衛」は、もし相手の攻撃を受けたとき、致命的な打撃を負ったらどうするのか、勝てないどころか対等な戦いもできない、と思います。しかも今やミサイルやサイバー攻撃の時代、「専守防衛」など意味がなくなっていると思います。

 産経新聞のコラムに、この件について、前統合幕僚長の河野克俊氏の見解が記述されていますので以下に引用します。タイトルは『「国家の品格」落とす専守防衛』(11/10)です。 

 ◇

9月の自民党総裁選では安全保障の問題が比較的活発に論じられ、なかでも「敵基地攻撃」をキーワードとする論争が展開された。だが、賛否両論が交錯し、結局、どのような形で実現するのか確たる方向性は見えてこなかった。

その後の衆院選でも状況は変わらないなかで「その前に考えておくべき重要な問題がある」と、前統合幕僚長の河野克俊氏が唱えていることを知り、さっそく話を聞いてみた。

河野氏は「専守防衛の見直し」が重要であるとずばり指摘する。専守防衛は戦後の防衛政策の背骨のようなもので、日本の抑止力の強化を妨げる弊害をもたらしてきた。防衛省のホームページや防衛白書などあらゆるところに「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則(のっと)った受動的な防衛戦略の姿勢」と今も書かれている。

「専守防衛は憲法9条にはひと言も書かれていない。憲法の精神を受けて専守防衛にするということでやってきたが、政府は日本の国民を守らなければならない。日本がやられるまで攻撃しないというのは、本当に正しいのか。行き過ぎではないか」と河野氏は指摘する。また、専守防衛を厳格に解釈し、これを日米同盟のあり方にまで落とし込んできたことにも河野氏は危惧を示す。自衛隊は防御専門で米軍は他国への攻撃を担う「盾と矛」の役割分担のままでよいのかという問題意識である。

今こそ本音の議論

「攻撃はアメリカにお願いします、日本は汚れ仕事はやりませんというのは、国家の品格にかかわる。そのことを誰も不思議に思わないのはおかしい」

政府・与党内では、北朝鮮のミサイル発射などを受けては「敵基地攻撃」が議論に上る。専守防衛で日本の防衛政策が狭く解釈されてきた中でも、さすがに「日本人は野垂れ死にしてもよい」とは言えず、政府はこれが憲法上も認められると解釈してきた。ただ、あくまで例外的なケースと位置づけ、「やれるけれど政策的にはやらない」ということでその具体化は先送りされてきた。

また、敵基地攻撃の議論が起きると「攻撃はいつ正当化されるのか」「敵が燃料を注入しはじめたときか、半分くらい入ったらよいか」などと、自衛隊の戦術のレベルにもかかわる話が国会内外で盛り上がり、時間の経過とともに沈静化する。その繰り返しだった。

河野氏は「憲法の精神は本当にそういうものなのか。日本を守るために米国に攻撃を頼むということは、日本は攻撃の必要性を認めているということ。つまり、攻撃力が必要なことは知っている」と語る。常識的で本音の議論を求めている。

Large_210317_f4_01 専守防衛は自衛隊が「必要最小限の防衛力」という制約の下で活動するため、もっぱら国会対策、野党対策として用いられる概念だった点も大きい。昭和40年代に導入されたF4戦闘機(左図)は「長い航続距離は周辺国に脅威を与える」との異論があるため、空中給油装置が取り外された。いったい誰のための専守防衛か、という疑問は古くからある。

国家戦略改定時に

昨年末、敵の射程圏外から攻撃する「スタンド・オフ防衛能力の強化」が閣議決定された際、安倍晋三元首相が検討を求めた敵基地攻撃能力の保有にはあたらないと説明され、自衛隊員の安全確保と効果的な攻撃阻止が目的に挙げられた。戦闘機乗員の危険を低減するのは当然としても、攻撃能力の向上はあまり強調されず、しかもそれが中国の脅威に対処するためだと明確に説明されているわけではない。ここでも、空中給油と同様に「周辺国」への過剰な配慮がうかがえる。

専守防衛が抑止力を妨げることで、より多くの国民の生命が失われかねない。そのことに責任を負う意識を政治家は持っているか。そこが問われている。

「日本としてここまで攻撃力を持ちますということを議論すべきではないか」との観点から、河野氏は国家安全保障戦略の改定とともに専守防衛の考え方を整理すべきだと述べる。

岸田文雄首相は平成27年の「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)の策定に外相としてあたった。安全保障環境の悪化や日米が共同対処する重要性はよく理解しているだろう。憲法改正に臨む原点として、国民を守る政治のありようを示してほしい。

 ◇

 剣道でもボクシングでも、相手が攻撃してくるまで攻撃しなければ、一撃でメンやドウを決められたり、強烈なフックを決められたり、始めから負けることを前提での試合になるでしょう。しかもこちらが先に攻撃しませんよ、と相手に分かっていればなおさらです。

 こんなことは子供でも分かるはずの理論でしょう。「専守防衛」は占領政策の中からできあがった、「もう二度と連合国には楯突きません」と誓わせた、日本弱体化の負の遺産だと思います。憲法9条と共にこの「専守防衛」を捨て去らなければ、河野氏の言うとおり「国家の品格」つまり「国家の主権」の放棄につながるものだと強く思います。

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