立憲民主や共産党が選挙に勝てないたった一つの理由
2012年末の衆議院総選挙から、前回7月に行われた参議院選挙まで自民党は負け知らずです。この間野党は多党化が進み、保守寄りの日本維新の会の躍進もありましたが、一度も過半数は取れません。それどころか最近立憲民主党や共産党はじり貧の状態が続いています。何故なのでしょうか。
この状況をインターネットを中心に言論活動を行っている、御田寺圭氏が一つの見解を現代ビジネスに寄稿していますので、以下に引用して紹介します。タイトルは『与党支持・保守派は「わかってない」「時代遅れ」?…リベラル野党が「それでも負ける」たった一つの理由』です。
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SNSと現実の大きなギャップ
2022年7月10日に行われた第32回参議院選挙は、前回の衆院選と同様に自民党は盤石、左派系野党が軒並み苦戦を強いられる一方、維新が昨年の衆院選からさらに勢力を拡大させた。安倍晋三元首相が銃撃され死亡するという想定外の事件はあったが、メディアによる事前の予測から大きな変化はなく、おおむね想定通りの結果で今回の選挙は幕を閉じた。
2012年の第二次安倍政権成立以後、自民党は「最新の時代感覚から取り残され、旧態依然とした“オジサン政治”を続け、日本をダメにする悪の政党」であるとして、インターネットやソーシャルメディア上では蛇蝎のごとく嫌われている。文化人や知識人など、各界の著名人による「自民党政治」に対する批判を目にしない日はない。しかし、過去10年間で7回行われた国政選挙では、すべて自民党が圧勝と言ってよい結果に終わっている。
ソーシャルメディア世論を観測していると、まるで自民党の支持者など偏狭な「ネトウヨ」だけしかいないかのように見えてしまうが、もちろんそうではない。私たちがいまや「拡大的な現実」として解釈してしまいがちな広大なネットの世界が、現実と甚だしく遊離した空間であることを、選挙のたびに思い知らされる。
「野党支持で当然」という思い込み
インターネットやSNS上では、左派系の野党を支持する「リベラル派」ほど熱心に政治的メッセージの拡散を行い、啓蒙活動に勤しんでいる。それは私が憶測で言っているわけではなく、ビッグデータで明らかになっている事実でもある。
にもかかわらず、選挙結果を見るかぎり、かれらの啓蒙活動はほとんど奏功していないようだ。いや、奏功していないどころか、むしろSNSを舞台に活発な啓蒙活動が展開されるようになって、なおさら自民党をはじめとする保守政党の優勢が確固たるものになっているようにすら見える。いったいなぜ、「啓蒙」は失敗してしまうのだろうか?
理由はたったひとつ、きわめて明快である。
「啓蒙」するからである。
野党・左派政党の支持層の言動からは、どうしても「なにもわかっていないお前たちを『啓蒙』してやろう」という姿勢がにじみ出てしまう。だからこそ、野党(リベラル派)はいつまで経っても支持を集められないのである。
まともな知的能力、まともな教養、まともな学識経験があるただしい人間であれば、リベラル政党を支持するのが当然である――というインテリ層が自明とする考え方は、皮肉にもかれらが支持する左派系野党から大衆の心を離れさせ、自民党や維新といった保守勢力を勢いづかせる「援護射撃」に意図せずなってしまっている。
「啓蒙される側」の気持ち
「知性や良識のある人間はリベラルになり、愚か者は保守派になる」――そうしたインテリ・エリートの主観的認知におさまりのよい「善悪二元論」的な物語こそが、かれらが嫌われ、啓蒙がうまくいかず、そして毎度敗北する理由である。
大衆のほとんどは、SNSで熱心に政治について語るような余裕のある高学歴者ではないし、その日その日を一所懸命に生きる生活者でしかない。SNSを主に趣味のグループの交流や、友人同士の連絡ツールとして使っており、政治的発信をしない人びともたくさんいる。
そんな人びとに対して「あなたは思慮が浅いようですね。もっとちゃんと政治や社会のことを勉強すれば、私たちの言っていることが『ただしい』と理解できるようになりますよ」などという姿勢で「啓蒙」すれば、どんな気持ちになるだろうか。たとえ、その「啓蒙」が心からの善意で行われているとしても、どのような印象を受けるのかは火を見るよりも明らかだ。
リベラル野党、つまり共産党や立憲民主党などの一部の政治家や候補者は、すでにそうした基本的な道理を見失い、「SNS上の世論」と「実社会の情況」の区別がつかなくなっている。ツイッターやはてなブックマークで受けのよいことをそのまま現実に持ち出してきてしまうようになっているのだ。ジェンダー平等やSDGsといった啓蒙的な公約が“刺さる”のは、あくまで「自陣営にもとから親和的なSNS・ネットのフォロワー」であり、それは世間一般を少しも代表していない。かつては陰謀論者や「ネトウヨ」が陥っているとされたエコーチェンバーに、かれら自身も絡め取られているのである。
それは「議論」ではない
かれらは、自分と意見が異なる者とも「対話」や「議論」を行っていると自信ありげだ。しかし、どんな時でも「私たちが蒙をひらく側(歴史のただしい側)」という前提は変わらない。
「リベラル政党を支持する正しい私たち vs.保守政党に投票してしまう『アップデート』の足りないあなた方」という揺るがしがたい構図がまずあって、それをもとにコミュニケーションをしようとする。スタート地点からすでにフェアではない。社会的にも知的にも政治的にも道徳的にも、あらゆる側面で自分たちが「正義」の側であるという優位なポジションを前提としながら、大衆に「議論」や「対話」を試みるのである。
コミュニケーションの相手となる側は、対話の席についた瞬間に「社会的・政治的・道徳的に劣った者」というステータスを負わされる。リベラル派が支持を広げられない理由は、かれらとやりとりをはじめようとした途端に「お前は間違っている」「お前は賢くない」「お前は時代遅れだ」といった諸々の前提を引き受けさせられることに、人びとが気づいているからだ。
そして大衆がコミュニケーションの場から去り、かれらにとって望ましくない投票行動――自民党や保守系野党などへの投票――をしようとすると、少しも我慢することができず「愚か者に選挙権を持たせると国がよくならない」と、《本音》をぶちまけてしまう。
「タレント議員批判」は「ただしい」か
たしかに大衆は、リベラルなエリートからすれば学歴もなければ教養もなく、最新の西洋道徳にキャッチアップするような知識も感度もないかもしれない。だからといってかれらを軽蔑したところで世の中は変わらない。いや、むしろ「分断」が深まる結果になるだろう。エリートの生活基盤も含めて、世の中は彼らが言う「愚か者」たちが、毎日汗水たらして働いたリソースに依存して、どうにか成り立っているのだから。
世の中の人びとは、自民党政治や岸田政権に不満がないわけではない。現状追認がしたいわけでもない。むしろ不満だらけだ。それでもかれらが自民党に票を投じるのは、インテリ層やエリート層に「馬鹿にされている」と感づいているからである。「野党候補を選ばず自民党のタレント議員を選ぶ東京の有権者はどうしようもない」と言われて、「そうだったのか。私が愚かだった。生稲晃子や朝日健太郎に入れず、次からはちゃんと野党候補に入れよう」と反省する有権者は皆無である。ますます生稲氏に入れたくなったことだろう。
リベラル政党とその支持者たちが「私たちがいかに西欧発の最新の社会正義(ジェンダー平等やSDGsやマイノリティ擁護)をキャッチアップできているか、皆さんにお伝えします!」と心からの善意で言っているのはわかる。一方で自民党は「もやウィン」を考案したり、パソコンもろくに使えない人をIT担当大臣に据えたりしている。傍から見ればどちらが優秀でただしいのかは一目瞭然にも見える。
しかし「馬鹿にされている」という軸で考えた時はどうだろうか。大衆が距離を感じてしまうのは前者であり、後者は「同じ目線で語り掛けてきてくれている」と評価される。
「対等な立場」で語ることの強さ
なぜ作家のカズオ・イシグロは、インテリ層やエリート層に属する人ほど、社会階層の異なる大衆の近くへと自分の身体ごと視点を運んでみる「縦の旅行」をするべきだと述べたのか。
大衆からインテリ層やエリート層が「どのようなまなざしを向けられているのか」を、その身をもって理解することができるからだ。残念ながら、インテリ・リベラル・エリート層は、大衆社会からうっすら嫌われている。こいつらの言っていることは(小難しくて自分たちにはその厳密な評価はしかねるが)一理あるとしても、どうにも鼻持ちならない――と思われている。ところが、当の本人たちはどういうわけか、自分たちが好かれている、尊敬されている、信頼されていると考えている。
「学がない人間が自分の頭で考えようとすると、右翼や歴史修正主義者に絡めとられるのだから、私たちの言うことを信じていればよいのだ」というのは、部分的には事実を語っているのかもしれない。しかしそれは大衆ひとりひとりの「主体的に考える自由」をまったく尊重していないパターナリズム的な言動でもある。いくら高尚でただしい理念を唱えていようが、自分を「対等な人間」として認めていない者とその勢力を好む人はそういない。
自民党の政治家や候補者にも、野党に負けず劣らず高学歴者が多く、社会階層的にはまさに「貴族」というべき出自の者も少なくない。ところがかれらは有権者を見下さない。馬鹿にしない。それが自民党の党風なのだろうし、新人議員はそうした姿勢を先輩たちから叩き込まれるのだろう。SNSでは死後も非難されつづける安倍晋三ですら、後輩議員の応援のためなら、人口の少ない村落にわざわざ出向いて、有権者と同じ目線でひとりひとりに話しかけていたという。はっきり言って時間あたりで会える有権者の数からすればきわめて非効率だろうが、それでもわざわざ行くのである。
自民党の政治家のほとんどはインターネットやSNSが苦手である。SNSで大きな共感の渦を巻き起こしている立憲民主党や共産党に比べれば、インターネットのセンスは皆無と言ってもよい。だがかれらは、それらを苦手としていることで幸運にも「縦の旅行」を意図せず実現している。SNSの使い方がよくわからないから外に出るほかない。結果として、学も教養も大して持っていない大半の有権者と同じ目線で対話することに成功し、盤石の支持を集めている。
どちらが「最新のテクノロジーを駆使した、洗練されアップデートされた政治」をやっているかと問われれば、間違いなく立憲民主党や日本共産党である。だが、どちらがより多くの人とリアルな心を通わせられているかと問われれば自民党になる。
「啓蒙が足りない」のではない
「ポリコレ」にせよ「SDGs」にせよ、近年欧米によって見出された新しい道徳律は、経済的にも社会的にも学識的にも豊かな人間の方が優位にキャッチアップしやすい概念である。最新の政治的ただしさを更新するには高い教養と知識が、SDGsを実践するには豊富な経済的余裕が必要となる。そのいずれも持てない大衆は、なにもしていないのに「道徳的に遅れた人」「善性を持たない人」に降格させられてしまう。
そのような構造そのものが大衆から大きな反感を買っていることに、エリートを自任する人たちこそ気づかなければならない。日々の生活を成り立たせるので精いっぱいの生活者から、物心両面で余裕のあるエリートたちが「善性」や「ただしさ」すらも奪ってしまう構図になっているのだ。「反エリート」の立場を明確にしている維新が全国的な支持を集めるのも当然の帰結だ。
いま野党が苦境に立たされているのは「啓蒙が足りていないから」ではない。「啓蒙をするから」勝てないのだ。啓蒙とは、文字どおり相手側を蒙昧な者と規定する、ともすれば侮蔑的な行為である。自分たちが馬鹿にされ、「善性」をこっそり奪われていることに気づかないほど大衆は愚かではない。
必要なのは「啓蒙」ではなく「和解」である。
「啓蒙」するから敗れる。
◇
立憲民主党や共産党の議員がSNSに長けていて、自民党議員がそうではないのが本当かどうか知りませんが、リベラルを自認し故安部元首相などを口汚く批判していた人たちに、学者や知識文化人たちの所謂エリートが多いのは確かです。
こうしたエリート層は自己主張が強く、自分の意見は正しい、従うのが当たりまえと言う感覚を一般的には多く持っているようです。逆にその意見は現場感覚から離れ、理想論に走りがちです。そして決定的に欠けているのが、サイレントマジョリティーがいるのを軽視していることでしょう。
いずれにしても反権力志向が強く、正義の味方然として弱者に寄り添う姿勢はいいが、自分たちが社会的な勝者の側にいることを忘れ、その発する言葉が弱者にはそらぞらしく聞こえてしまう。それが実態でしょう。
国民はバカではありません。立憲民主党や共産党が、いくらバラマキ満載の政策を掲げても、財源を示さないので聞く側は信用しません。また政府与党のスキャンダルをあげつらい批判しても、それしかできないだろうと見透かされています。いい加減気がついて、真に国民に必要な政策を立案する姿勢に転換しなければ、じり貧は続いていくでしょう。
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