安部元総理の国葬粛々と、安らかな旅立ちを
本日は安倍元総理の国葬の日です。戦後日本の自虐史観に真っ向から立ち向かい、強く美しい日本を取り戻すと日夜奮闘された安倍氏を、粛々とお送りしましょう。産経新聞に投稿された、元東京地検特捜部検事で弁護士の、高井康行氏の記事を引用して、安倍氏の国葬に添えます。タイトルは『安倍氏には国葬こそがふさわしい』です。
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令和4年7月8日午前11時30分ころ、安倍晋三元首相は奈良市西大寺東町の近鉄大和西大寺駅北口付近の路上において、参議院選挙の応援演説中、背後から銃撃を受け非業に斃れた。安倍元首相は、憲政史上、最長の通算8年8カ月の長きにわたって、国民多数の支持を集めて政権を担った。首相退陣後も、将来、仮に日本が有事に見舞われるようなことがあれば、その指導力は欠くことができないとする声もあった。また、安倍元首相が主唱した「自由で開かれたインド太平洋」という概念は、今や欧米も採用する戦略的概念として定着しようとしている。このようなことはかつて無かった。
その非業の死は、今後の日本の政治に長く影を落とすことになるだろう。安倍元首相暗殺の第1報は国内はもちろん世界にも大きな衝撃を与え、世界各国の首脳からその死を悼む痛切な声が寄せられた。欧米首脳の素早い弔意の表明の背景には、安倍元首相亡き後の日本の行方に対する深い憂慮があるようにも思う。
国葬反対論に説得力はない
その安倍元首相の葬送の形はどうあるべきか。私は安倍元首相を弔うには国葬をもってする以外にないと思う。もし、安倍元首相が病などによって亡くなったのであれば、国葬でなくともよい。しかし、安倍元首相は、民主主義の根幹である国政選挙に際し街頭で有権者に己の信じるところを訴えている最中、テロリストの銃撃に斃れた。
民主主義社会の選挙においては、演説をする者は誰であっても、どんな政策であっても、身の危険を感じることなく自由に有権者に訴えかけることができなければならない。政治的理由であろうと非政治的理由であろうと、選挙の遊説中に候補者や政治家が命を狙われるようなことが起きれば、民主主義社会の基盤は揺るがざるを得ない。
その意味で、たとえ、その動機が非政治的なものであったとしても、選挙を奇貨として、遊説中の政治家の命を狙う者は民主主義の敵と言うほかない。そのような者から、政治家の命を守るのは国の義務とも言える。にもかかわらず、当日の警備は、すでに警察当局も認めているように極めて杜撰(ずさん)なもので、本来であれば極めて容易に防ぐことのできたはずの銃撃を防ぐことができなかった。まことに、痛恨の極みである。その意味で、安倍元首相の非業の死は、国に大きな責任がある。安倍元首相を国葬をもって弔うことは、二度とこのようなテロを許すことなく、民主主義社会の基盤が揺るぐような事態を発生させないという国の固い決意を内外に宣明する意義を持つ。
また、古来、葬送の儀式は死者の魂を鎮めるという側面を持つ。そのため、どのような葬送儀式を良しとするかについては、それぞれの死生観が反映されることになるが、私は、日本の独立と平和、国民の安全を盤石なものにしようと尽力しながら、志半ばで国の不手際により非業に斃れた安倍元首相の無念を思うと、その荒ぶる魂を鎮めるためには国が国葬をもって弔う以外にないと考える。また、各国の首脳あるいはそれに近い級の要人から弔問を受ける場としても国葬が相応しい。一部には、今回の国葬はその内実においては内閣葬に過ぎないと指摘する意見があるが、格式において国葬であることに意味があると考える。
これに対し、国葬を定めた法令がない、あるいは、弔意の強制に当たるなどとして、国葬に反対する声がある。しかし、国葬とするかどうかの判断は、基本的に行政権に属するものであるところ、行政権には幅広い裁量が認められており、すべての具体的な行政行為に具体的根拠法令があるわけではない。もちろん、国民の権利を制限したり、新たに義務を課したりする場合には法律の根拠が必要だが、国葬は権利を制限したり新たな義務を課したりするものではない。そうである以上、行政を担う内閣の権能に基づき、閣議決定によって国葬を執り行うとすることは、何ら、憲法その他の法令に反するものではない。
また、今回の国葬にあたり、政府から招待を受けた著名人が、その招待状をネットに載せ、欠席を公言していることの一事を見ても、弔意が強制されていないことは明らかだろう。仮に、国民に対し、当日、一定の時刻に、一定の時間一斉に黙禱をすることを要請したとしても、それが任意を前提にする限り、弔意を強制することにはならないが、今のところ、そのような要請も無い。いずれの理由も、説得力に欠ける。
にもかかわらず、最近の世論調査においては国葬に対する反対意見が多い。もともと、世論調査の回答は質問の作り方によって左右される側面があるから、どこまで正確に国民の考えを反映しているかについては慎重に判断しなければならないが、いずれにしても、一部マスコミ等による旧統一教会(現「世界平和統一家庭連合」)に対する強い非難活動が世論調査の結果に影響を与えていることは間違いない。
テロリストに報酬を与えたマスコミ
安倍元首相の銃撃事件をめぐり奈良県警は、山上徹也容疑者の逮捕後、早い段階で、同容疑者が動機は、ある宗教団体に対する恨みであると供述している旨発表した。その後、警察の発表等により、同容疑者は旧統一教会の熱心な信徒である母親の多額な献金により家庭が困窮したため、旧統一教会に恨みを持っていたところ、安倍元首相が旧統一教会の関連組織の大会にビデオメッセージを送ったことを知って銃撃したと供述していることが明らかになった。これを機に一部マスコミや論者は非難の矛先を一斉に旧統一教会、旧統一教会及びその関連団体と僅かでも接点を持っていた政治家に向けるようになった。同容疑者の目的は十分に達成されたことになる。
もちろん、旧統一教会の霊感商法は批判されて当然であり、多額な献金も、それが心理的に追い込まれた結果としてなされているのであれば社会的に許容されるべきものではない。それによって困窮した家族に救いの手を差し伸べることも必要であろう。しかし、旧統一教会は宗教法人法で認められた合法的な宗教団体である。それにもかかわらず、その宗教団体をあたかも反社会的組織であるかのように扱い、これを排除しようとすることは、裁判を経ないで人を処罰しようとするに等しい。このような一部マスコミ等の論調は、適正手続きを重視すべき民主主義社会のありように反するだけではなく、旧統一教会の信徒に対する差別を生むことにもなる。その上、この一部マスコミ等の論調は、安倍元首相を銃撃したテロリストに報酬を与えているも同然であり、このようなことが続けば、第2、第3の同種テロが起きてもおかしくない。
今は、冷静になるときだ。
政治家の評価は歴史が決める
日本では、古来、敵であっても死者となった時には、その魂を崇めその安らかならんことを祈るのが風習あるいは礼儀である。国葬を欠席する方針の立憲民主党の中にあって、出席を明言されている野田佳彦元首相に深く敬意を表したい。
政治家に毀誉褒貶(きよほうへん)はつきものであり、それが有力政治家となれば尚更である。安倍元首相に対しても、その国葬に対しても、一部から強く反対する意見がある。しかし、政治家の評価は最終的には歴史が決めることであり、同時代人である我々の評価で定まるものではない。私は、岸信介元首相が政治生命をかけて成し遂げた日米安保条約の改定が、時を経て、日本の安全保障を支える基盤となっているように、安倍元首相の残した政治的遺産が日本を支えることになるであろうことを確信している。安倍元首相の魂よ、安かれ。
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安倍元総理、安らかに・・・
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