「多様性」という美名の元に、むやみにそれを助長すれば、日本の伝統や文化が破壊される怖さがある
近年「多様性」という言葉をよく耳にします。特に性の多様性、ジェンダーギャップやLGBTqがよく話題になっています。LGBTqについては国会でも論議にされています。
先般、荒井勝喜元首相秘書官が同性愛を巡る一連の発言で更迭されました。同性愛者を対象とする「差別」発言で、オフレコの会見が毎日新聞記者の所謂「暴露」で公開され、大変な批判を浴びました。
またかつて同性婚に異を唱えた杉田水脈議員の「生産性がない」発言が物議を醸しました。しかし冷静に見れば間違った見解ではありません。ただLGの人たちへの「差別」だと言う指摘はそうかも知れません。なぜなら「差別」は絶対悪と捉えられているからです。
しかし「差別」というのは主観が入ります。ある人にとっては差別でも、違う人にとってはそうでないかも知れません。そこには考え方の差があり、もっと言えば思想信条の違い、あるいは文化や伝統の違いがあるからです。
この「多様性」の問題について、特に宗教の観点からイスラム研究者で麗澤大客員教授の飯山陽氏が産経新聞にコラムを寄稿しています。タイトルは『愛という名の下に…「多様性」の矛盾』(3/08公開)で、以下に引用して掲載します。
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自由主義諸国では「多様性を認め合う社会を目指す」のが正しいことだとされている。日本でもあらゆる政党やメディアがそうあるべきだと主張している。岸田文雄総理も2月17日、「政府としては、多様性が尊重され、すべての人々がお互いの人権あるいは尊厳を大切にする、そして生き生きとそれぞれの人生を享受できる社会を目指すべく努力をしていかなければならない」と述べた。
ではその認め合うべき多様性とは何か。昨今、本邦で議論の俎上に載せられているのは「性の多様性」だ。前提にあるのは、性というのは男性と女性だけではなく多様なのだ、という考えである。いわゆるLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)だけではない。性というのは、自分の性をどのように(男性か女性か、そのいずれでもない何かなど)認識するかという性自認も、どの性を好きになるかという性的指向も多様であり、無数に存在するとされる。
では性の多様性を認めるとは具体的にはどうすることなのか。2月に岸田総理と面会したLGBTなどの支援団体が訴えたのは、同性婚実現や差別禁止法の制定だ。毎日新聞は2月5日の社説で「多様性を掲げるなら、日本も法制化に乗り出すべきだ」と説き、同15日には「岸田首相の人権感覚 『多様性』掲げるだけでなく、法制化で示せ」という古賀伸明・元連合会長の寄稿をデジタル版に掲載した。
しかし多様性を認めるとはすなわち特定の法律の制定だとするならば、話は些か厄介なことになる。というのも多様性には性の多様性だけでなく、人種や民族、国籍、宗教、年齢、障害の有無など「多様な多様性」があるからだ。
筆者の専門であるイスラム教を例に挙げよう。日本では2011年以降人口減少が続いているが、その中にあって増加の一途を辿っているのがイスラム教徒だ。
早稲田大学名誉教授の店田廣文氏は、2020年の日本在住イスラム教徒の人口を23万人と推定している。2010年には11万人、1990年には3万人弱とされているので、急増と言っていい。
イスラム教徒は全知全能の一神のみを信仰し、生活のあらゆる場面において神の定めた法(イスラム法)に従う宗教的義務を負うが、彼らがそれを日本で実践しようとするとさまざまな困難に直面する。
朝日新聞(デジタル版)は2022年2月、コンビニエンスストア「ローソン品川埠頭店」がイスラム教の戒律に従ったハラール食品の販売を始めたことを取り上げ、「誰にとっても安心して食事ができる環境は必要」とその取り組みを称賛し、「価値観が多様化する時代には『食の多様性』への意識も高めたい」と啓蒙した。
共同通信は2022年11月、大分県日出町でイスラム教徒用の土葬墓地建設に地元住民が反対していると報じ、取材した記者は「取材後記」で「墓地への反対意見には、ムスリムに対する偏見がにじむ」と地元住民を批判しただけでなく、「国際化が進む中で、多様な宗教をいかに尊重し、受け入れるか」「日本社会への問いかけでもある」と批判の矛先を日本社会へも向けた。
一夫多妻も法制化するのか
イスラム法は食や埋葬だけでなく、結婚や離婚についても詳細に定める。イスラム教徒男性は4人まで妻を娶ることができると規定される。原則として求婚は男性から女性の後見人(通常は父親)に対して行われ、女性がその婚姻に同意するかどうかという意思は法的効力を有しない。婚姻最低年齢は定められていないので、生まれた直後に父親が娘を他の男と結婚させることも可能である。夫は妻に対し「離婚する」と3度言いさえすれば離婚が成立し、妻の同意は必要とされない。
では「多様性を認め合う社会」を目指す日本は、在日イスラム教徒が「一夫多妻はイスラム教徒の権利だ」とか、「イスラム教徒の父親には娘に婚姻を強制する権利がある」とか、「10歳の娘を結婚させることはイスラム教徒の父親の権利だ」とか、「イスラム教では夫が妻に一方的に離婚を言い渡す権利がある」等々と訴えたら、それを尊重し、日本の法律に抵触してでもそれを例外的に認めるべきなのか。
彼らが「法で認められないのは差別だ」「信教の自由に違反している」と声をあげたら、それを法制化すべきなのか。
前出の毎日社説は「あらゆる人の権利が尊重される社会にしなければならない」と主張する。しかし主張するのは簡単だが、その具体像を想像するのは限りなく難しい。ある人の権利の尊重は、別の人の権利の侵害や別の不平等を生み出す可能性がある。何を権利と考えるかの認識自体が多様なのだから問題は限りなく複雑になる。そもそもどれほど多くの法律を制定したところで、「尊重される」という「感覚」や「気持ち」を万人にもたらすことなどおよそ不可能であろう。
一夫多妻はイスラム法では認められるが日本の法では禁じられる。イスラム教徒だけにそれを認めるのも、男性だけに認めるのも、日本国憲法第14条の定める法の下の平等に反する。では全ての日本国民に、一夫多妻も一妻多夫も認めるのが「多様性を認め合う社会」なのか。
父親が娘に婚姻を強制することも、婚姻は両性の合意のみに基づいて成立するという憲法第24条に抵触する。それでもこれを尊重するのが「多様性を認め合う社会」なのか。
気づかぬふりして突き進む
問題は婚姻のみにとどまらない。
イスラム法は性を男女の二者択一で規定し、「性の多様性」なるものは一切認めない上に、異性間の性交、婚姻のみを合法とし、同性愛行為を死罪と定める。イスラム法は神の法であり、そこに妥協の余地はない。
店田名誉教授は、日本のイスラム教徒人口は欧米先進諸国に比べると小規模だが国内にムスリム・コミュニティーが根付きつつあるのは確かであるという現状分析を示した上で、政府や地方自治体が「多文化共生」施策を実施していく上でも、日本のイスラム教徒人口の動向を視野に入れていくことが必要だと提言している。
日本は今、性の多様性や同性愛行為を一切認めない一方で一夫多妻や夫の妻に対する一方的離婚を是とするイスラム教徒の人口が年々増加する中、性の多様性を認めよという声が高まり、社会変革に向けて邁進するという矛盾を生きている。
しかし残念なことに、「多様性を認め合う社会を目指す」人々の多くは、その命題自体が矛盾を孕んでいるという事実に気づいていないか、あるいはそれに気づいてなお、その道に突き進もうとしているようである。
◇
私もサウジアラビア滞在の経験がありますから、飯山氏の指摘はよく分ります。イスラム教国家では ジェンダーギャップはあって当たり前の世界ですから、男女平等などはあり得ません。つまり性の「多様性」は一切認めない国の生活経験をしてきました。つまりイスラム教と多様性はつながらないのです。
話は変わりますが、リベラル政党の多くは、外国人参政権を主張しています。これも「多様性」の一つでしょう。そこまで行かなくても学校や自治体、放送局など日本以外の国籍の人が就業していますが、中には反日を旨とする人たちもいます。こうした人も「多様性」の名の下に受け入れてきているのです。
民族や慣習、文化などの「多様性」を取り入れていく先には、日本の慣習や文化の破壊が待ち受けています。そしてそれが日本人同士の軋轢にもつながるのです。「多様性」を受け入れるのもいいのですが、あくまで日本という国のありように、影響を与えない範囲でなければ、日本が日本でなくなる怖さを秘めていることを、しっかり頭に入れておくべきでしょう。
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