憲法

2019年8月11日 (日)

憲法9条改正、2項の破棄から

Images_20190811115701  今年も8月15日の終戦記念日(戦没者を追悼し平和を祈念する日)が近づいてきました。テレビなどのメディアでは様々な特集報道がなされるでしょう。私はここで戦後GHQが起草したといわれる日本国憲法、特にその第9条について考えてみたいと思います。7日付の産経新聞の「正論」に埼玉大学名誉教授・長谷川三千子氏の記事が掲載されていますので、少し長くなりますがそれをまず紹介します。

 今回の参議院選挙の結果、参院全体でのいわゆる「改憲勢力」が3分の2を下回ることになり、安倍晋三首相も「自民党案にとらわれず」議論を進めてゆくことを提案なさった。これは大変よいことだったと思います。実は憲法9条改正についての自民党案は万全とはいえないものだったからです。

 ≪主権の意味改めて考える≫

 どこが万全でなかったのか-一番の問題点は9条2項がそっくりそのまま残されてしまったというところにあります。実際、9条2項をそのままにして自衛隊の保持を明記するのは矛盾ではないか、という批判も最初からありました。しかし、それだけの問題ではない。9条2項は、もしそれを文言通りに遵守したら、わが国の主権を完全に手放してしまうことになるという、怖ろしい条文を含んでいます。国家の主権のないところに近代成文憲法は存立することができません。9条2項は日本国憲法にとっての自殺条項ともなりうるものなのです。

 主権とはもともと「最高の力」を意味するラテン語を翻訳した言葉で、国内的には(たとえば「国民主権」といった言い方で)政治の決定権のありどころを意味し、対外的にはその国の独立と領土保全の権限を意味します。

 これらの二つは、まるで別物のようにして扱われることが多いのですが、言葉の成り立ちとしても、事柄そのものとしても、同じ一つながりのものに他なりません。すなわち、国家の主権が奪われ、独立が失われた状態にあっては、その国の政治決定権は国内の誰の手中にもなく、「国民主権」も「君主主権」も成り立ちません。そして、そんな状態においては自国憲法も全く無意味になってしまう。だからこそ(日本国憲法前文にも言う通り)どの国も「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とう」とするわけなのです。

 そのために必要不可欠なのは、言うまでもなく物理的な「力」-軍事力です。どんなに経済的な力があっても、軍事力がゼロであったら国家主権を保つことはできません。さらにまた、軍事力の大小にかかわらず、国民にその国の主権を保つ気概がなければ主権は維持できません。

 ≪自国の主権を否定した条項≫

 たとえば1989年の米軍侵攻によって国防軍を解体されたパナマ共和国は憲法に軍隊の不保持を定めていますが、同時に「すべてのパナマ人は、国家の独立と領土保全のために武器をとる義務がある」と定めている。主権維持の重要性を知ればこその規定です。

 では日本国憲法はどうなのか。9条2項は次のように定めています。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

 日本が米軍侵攻によって軍の解体を受け、完全な主権喪失状態となったのは74年前のことですが、その後形式上は主権が回復したにもかかわらず、主権放棄の条文はそのままなのです。

 ここでは戦力がゼロと規定されているだけではない。国の交戦権すら否認されています。ここに言う「交戦権」は国際法に定められた個々の細かな権利のことではなく、それらの大前提として認められている、自国の主権維持のために戦う権利です。つまり、もし日本国民がパナマ人と同じように、国家の危機に際して独立と領土保全のために武器をとって戦おうとしても、交戦権が認められていないと、それはただの犯罪行為になってしまうのです。

 これは完全に自国の主権を否定した条文です。そして先に述べた通り、自国の主権のないところに「国民主権」の原理は成り立ち得ない。さらには「生命、自由及び幸福追求に対する」国民の権利を守ることも、このように「力」がゼロの状態では空文とならざるを得ません。

Images-2_20190811115801  ≪国際平和に反する条文≫

 しかもこれによって国際平和が実現できるのかといえば、むしろその正反対なのです。国際平和というものは基本的に主権国家が集まって互いの持つ「最高の力」を均衡させておくことで保たれています。その中に突如として戦力ゼロの軍事的空白地帯が出現したりすれば国際平和にとってこんな危険なことはない。9条2項はもしその条文通りを実行したらばまさしく平和破壊条項となるのです。

 そうした危険を見越して2項の冒頭には「前項の目的を達するため」という但し書きがつけられています。これは2項の規定に、1項の目的に合致する限りで、という制限をつけたものと解釈されてきました。9条1項は基本的には国際法の常識に従った平和条項ですから、この解釈によって9条全体も穏当な平和条項として扱える。まさに苦肉の策でした。

 しかしそれによって9条2項の内容のトンデモなさが人々の目から隠されたままになってしまったのも事実です。一度この条文を直視すれば、その怖ろしさは誰の目にも明らかになるはずなのです。9条2項削除こそ超党派で取り組むべき課題だといえましょう。

 私もこの長谷川氏の意見に賛同します。氏が言うように9条2項の「前項の目的を達するため」という文言(いわゆる芦田修正と言われる)が、1項の目的に合致する限りで、という制限をつけたものと解釈されてきたというのが通説ですが、そうでないという意見もあるのは事実です。条文は次の通りです。

 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この2)項の冒頭「前項の目的を達成するため」を素直に読めば、「前項の目的達成のためにはとにかく戦力保持は認めず、交戦権も認めないのだ」、と採るのが普通です。

 芦田修正を審議した国会はまだGHQによる占領下だったので、「制限をつけたもの」と明確に言ってしまえば認められないと思い、曖昧にしたのかも知れません。芦田氏は後にこれは「制限」を意味しているということを発言しているようですが、修正文を挿入した国会審議の時点での記録には、そのことは明記されていないそうです。

 事実GHQの最高司令官時代、マッカーサーは「マッカーサー・ノート第2原則」に次のように記しています。

 国家の主権的権利としての戦争は、廃止される。日本は、紛争解決の手段としての戦争及び自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。日本は、その防衛及び保護を今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。

 いかなる日本陸海空軍も認められず、また、いかなる交戦権も日本軍に与えられない。

 これではマッカーサーに拒否される可能性は高かったものと思われます。

38072035_3  その後出された政府見解として、つまり1項の「国際紛争を解決する手段としては」という文言が、パリ不戦条約第1条の「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」の中の、「国家の政策の手段としての戦争」と同じ意味で、具体的には侵略戦争を意味するとしています。

 つまり侵略戦争のための戦力保持は認められないが、自衛戦争のための戦力は持ってもよい、ただそれは反対勢力の批判をかわすため「自衛のため必要最小限のもの」という条件を付け、いまだに自衛隊への手かせ足かせになっているのは周知の通りです。

 私は国の安全保障の観点から、もっと言えば国の独立と主権を守り、国民の安全と財産を守るという観点からは、すでに作られた条文がどうのこうのというより、どうしたらそれを完全に遂行できるのかという現実的な視点で捉え、その遂行を危うくするような事態を回避するために、それに見合った形の具体的な条文にする必要があると思います。

 安倍首相「9条2項を残したまま、自衛隊明記」という見解を述べています。とりあえず改憲しやすいようにとの配慮でしょうが、本質的解決にはなりません。つまり文言の解釈によってかなり違った意味にとられるような条文は意味をなさないし、また長谷川氏の言うように明らかに国の主権を毀損するような条文(第9条2項)は削除してしかるべきだと考えます。


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2018年12月27日 (木)

自主憲法で真の独立国家に

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 護憲派の憲法学者や立憲民主党の議員たちの言う「立憲主義」とは、「政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠する」という考え方です。いわゆる「憲法は国家権力を縛るもの」としています。しかしこの考え方は以前ブログでも述べましたが、これはフランス革命後の共和制時代の古い考えだと、評論家の加地伸行氏は明確に否定しています。


 また西部邁氏も同様に「民主主義が発展成熟する歴史段階に至れば、政府が民意を蹂躙することなどあり得ない」、として否定しています。日本は民主主義国家であり、中国や北朝鮮などの共産主義国家ではないのですから、当然でしょう。

 細谷雄一氏は彼の著書の中で、憲法は「国の形」を示すものという言い方をしていますが、西部氏は
「それには意図的なものと自主的なものがあるが、本来ならば「歴史の試行錯誤を経て成るはずのもの」だと述べています。自然に出来るものではないですから、ある程度意図は入ると思いますが、いずれにしても「自主」が無ければならないと思いますね。

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 そう言う意味では、戦後の日本国憲法はGHQがその原案を起草したと言われています。その過程ではいろいろあったようですが、最大の論点は「皇室存続の取り扱い」であって、細谷氏の著書に因れば、「連合国の中で中華民国、ソ連、豪州などの国は、天皇が開戦の中心にいたのだという思いから天皇制廃止を訴えた。それを説得するために、戦争の放棄を謳わざるを得なかった」と言うことのようです。と言うことは「皇室の存続のために戦争の放棄を取り入れた」というのが真相であって、その起草案を敗戦直後の当時の状況から、日本側も認めざるを得なかったと言うことでしょう。


 はっきり言えることは、日本始まって以来の、外国との大きな戦争に初めて敗れ、GHQによる占領下という、主権のない特殊な状況で、かつ原案がGHQによって作られた憲法は、上記「自主」の部分が全くないと言うことになります。

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 もちろん「歴史の試行錯誤の結果」という要素はありますが、2600年以上続いている日本の歴史全体から見て、ほんの一時期の歴史の結果だけであり、これが試行錯誤の結果と言えるかどうか疑問でもあります。また当時の議会を経て天皇による公布で以て成立した憲法ですから、手続き的には問題なかったにしても、「自主憲法」であるかと言えば「ノー」と言わざるを得ないでしょう。

 そして憲法が「国の形」を示し、その永続性を目指すものであるはずでしょうから、当然国の独立や主権の確立を前提にしなければ成りません。もちろん国を構成する国民の、安全や財産を守るという政府の責任を、担保しうるものでなければならないでしょう。

 その意味では、国民の権利や自由を大幅に盛り込んでいる部分は良いにしても、国防に関して、その戦闘を完全に否定する条項を含んでいるのは、甚だ問題です。一般には9条1項は侵略戦争の否定であり、2項はその侵略戦争のための戦力保持と交戦権を認めないのであって、自衛のための戦力までは否定しない、と言う解釈がされていますが、そうであればそう言う文言に代えればいいのではと思います

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 西部氏の著書に依れば、「国民の93%が自衛隊の存在を認めているのに、9条2項の改正には60%が反対している、余りに不合理に満ちた国民」と記述されています。この60%全員が芦田修正による2項冒頭の、「前項の目的を達成するため」という文言、つまり「侵略戦争のため」を正確に理解しているのでしょうか。

 GHQの総司令官であったマッカーサーが、退任後の1951年の上院の軍事外交共同委員会で有名な証言、即ち
「日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)によるものでした」、と、大平洋戦争が、いわゆる日本による「侵略戦争」とする一般的な見方とは、少し違った見方を示しています。

 このように何が侵略戦争で、何が自衛の戦争なのか、区別するのは難しいと思います。「日本は真珠湾を先制攻撃した」ということで、先制攻撃を仕掛けた方が侵略であれば、米国による「ベトナム戦争」も「イラク戦争」もすべて侵略戦争になります。(もちろん米国は逆の見方を示すでしょうが)

 いずれにせよ、日本側が侵略しなくても、侵略されることはあり得るでしょうし、そのとき侵略した側が、日本から侵略されたと強弁することもあり得るでしょう。また最近は領土の侵略だけではなく、海洋侵略や情報侵略など、多岐にわたる攻撃が予想されます。日本が仕掛けなければ相手は何もしないという、「お人好し」「お花畑」「性善説」を今すぐに捨て去り、憲法を改正し、国と国民を守る防衛体制を、しっかり整えるのが是非必要だと思います。


 
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