「日本憲法はGHQが起草した」。これは今では周知の事実ですが、その前文や9条の条文がどういう経緯で書かれたのかは私自身知識はありませんでした。ただアメリカを始めその当時日本と戦った国としては、急速に力をつけたアジアの小国に、もう二度と刃向かうことのできないように、徹底的に弱体化を狙ったため、そう思っていました。
それもその理由の一つとして間違いではないと思いますが、あの「平和を愛する諸国民の、公正と信義に信頼して・・・」や「正義と秩序を基調とする国際平和を・・・」と言う文章は、まさか当時の連合国がそうであったとはとても思えず、その後の米英ソ中の行動を見れば真っ赤な嘘だったことがバレバレです。
では、果たしてどこから来たのか、それをひもとく鍵は、作家の矢部宏治氏の著書『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』にありました。今回と次回の2回にわたってその裏側の事実を、彼の著書の一部から引用させていただき探っていきたいと思います。今回は第二次世界大戦でポツダム宣言を受諾し降伏した日本を、アメリカがどう戦後処理しようとしたか、その中でその処理の一環として、日本憲法をGHQの手で作成した事実を追います。
◇
重要な文書は、最初すべて英語で作成する。
本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にペストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第一章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじやないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、[ポツダム宣言]を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。 「日本は負けた。無条件降伏した」。本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
自分たちに都合のいい主観的な歴史
いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や 「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
天皇自身による降伏の表明
考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇は憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのか当然のなりゆきでした。
事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇白身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていた
のです。
日本国天皇の宣言
「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
天皇をつかえば、多くの命が救われる
もしもこのプランか実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、二人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書 (FRUS)」1950年8月11日)。
なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
と確信をもってのべていたということが報告されています。
意図的に隠された昭和天皇の姿
その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣・重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長・梅津美治郎が二人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身か調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリカ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
こうして占領期を貫く。
「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」 という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
アメリカ国務省の冷静な視点
私も以前から、ミズーリ号での調印式の映像を見て、
「なぜ、重光と梅津のふたりがサインしているのだろう。ひとりじゃダメなのか」
と不思議に思っていたのですが、彼らは昭和天皇の代わりだったわけです。
その事実を知って、
「なるほど。さすがにアメリカはよく調べているなあ。戦前の憲法では天皇の「大権」は、政府と軍部の二本立てになっていた。「統帥権」といって、軍を動かす権限は政府を通さず天皇に直結していたから、サインする人間もふたり必要だったわけだな」
と勝手に感心していたのですが、今回本書を執筆するにあたり、あらためて調べ直してみたところ、さらに意外な事実を知りました。
もし当初の計画どおり、昭和天皇白身が降伏文書にサインすることになった場合でも、アメリカ国務省は天皇のほかに、やはりもうひとりサインする人間が必要だと考えていたのです。
それは、誰だと思いますか。
首相でしょうか。外務大臣でしょうか。
いや、違います。
それは、軍部(大本営)の代表で、実際のミズーリ号での署名者でいうと、梅津美治郎だったのです。
というのも、すでにその前年、1944年11月の時点でアメリカ国務省は、
「日本軍の統帥権は、名目上は天皇にあるが、実際の権限は軍部 (大本営)が握っており、軍事行動の責任もすべて軍部にある」
という認識をはっきり持っており、
「だから降伏文書への署名も、まず天皇によって行われ、続いて大本営の正式な代表者によっても署名されることが望ましい」
と考えていたからだったのです(国務省戦後計画委員会(PWC)文書284a)。
日本の軍事上の権限(統帥権)が、政府にないことだけでなく、じつは天皇にもないことをアメリカ国務省はきちんと把握していた。
つまり、第二次大戦中の日本が、
「形式上は天皇に全権があるように見えるが、実際は軍部に乗っとられたような国なのだ」
という分析を、アメリカは冷静かつ正確に行っていたわけです。
だからこそ、そうした前提の上に立って、戦争に勝ったあと行う日本の占領では、
「天皇を完全に軍部から切り離し、平和のシンボルとして利用する」
という基本方針が早くから立てられていたのです。
「人間官一言」の作成過程
ここまで「降伏文書」について、なぜこれほど詳しくお話ししたかというと、この降伏文書の受け入れから、7年後の1952年4月にいちおうの独立を回復するまで、日本政府や昭和天皇が自分だけの判断にもとづいて、何か重要な文書を作成したり、発表したりすることなどまったくなかったのだということを、よく覚えておいてほしかったからです。
「降伏」というひとつのセレモニーで、誰と誰が降伏文書にサインするべきか。その問題ひとつとっても、おどろくほど多くのレポートが書かれ、政策文書がつくられ、それがまた信じられないほど長い時間をかけて、何度も何度も改定されていく。
それがアメリカという国の「占領」のやり方であり、「戦争」のやり方であり、また「外交」のやり方なのです。日本人をうまく誘導するためにつくられる、イメージ操作用のオモテのストーリー (「絵本のような歴史」)のウラ側には、すべてそうした分厚い研究の裏づけがあるのです。
もっとも「占領」とは、現実の戦闘行為は終わっているものの、平和条約を結んで国と国の関係が法的に決着するまでは、法的にも政治的にもまだ「武器を使わない戦争」が続いている状態なわけですから、日本に決定権がないのは当然のことなのです。
たとえば1946年1月1日に発せられた有名な昭和天皇の「人間宣言」も、やはり最初は英文で書かれたものでした。以下は、その日本文がどのような過程を経て生まれたかを、当時学習院の事務官だった浅野長光氏が、チャート化してメモしていたものです(一部、筆者が補足)。
「前半」 昭和天皇の意向を打診し、文案を相談した段階
「原案(レジナルド・ブライス学習院教師・作成) → 石渡荘太郎宮内相 → 昭和天皇 → 石渡 → 大金益次郎宮内次官、浅野長光学習院事務官 → (吉田茂外相 → 幣原喜重郎首相 → 吉田) → 大金 → 浅野 → ブライス」
「後半」 正式な文章を確定した段階
「ブライス → ヘンダーソンGHQ(連合国軍総司令部)民間情報教育局課長十ダイク同局長 → マッカーサー元帥 → マッカーサーの承認 → ブライス → 浅野 → 石渡、大金 → 昭和天皇 → 幣原 → 閣議 → 公布」
アメリカ側も日本側も、じつに多くの人たちが関わっていたことが、おわかりいただけると思います。
このなかの誰であれ、「人間宣言は、本当は自分が書いたのだ」ということは、主観的には可能です。しかしこのチャートには書かれていないそれ以前の段階には、戦争開始前から長い時間をかけて蓄積された本当に膨大な、アメリカによる日本の天皇と天皇制についてのさまざまな研究が存在するのです。
まず天皇自身に宣言させ、それから日本人に受け入れさせる
ミズーリ号で「降伏文書」を受け入れたあと、天皇を使った日本軍の武装解除は、予想以上に順調に進みました。800万人ともいわれるアジア全域の日本軍が、天皇の命令によってあっけなく戦闘をやめ、武器を手放したのです。
これからはじまる日本占領という巨大プロジェクトにおいて、昭和天皇がどれほど重要な存在であるかを痛感したマッカーサーは、天皇を占領政策に協力させ、そのまま利用し続けたいと強く思うようになります。そのための「絶対条件」が、翌1946年5月に開廷することになる東京裁判において、天皇が裁かれないようにすることでした。
先の「人間宣言」も、その目的のために考え出されたものでした。天皇制をそのままのかたちで残したら、日本はすぐにまた狂信的な軍事国家に戻ってしまうのではないか。そうした国際世論の懸念を払拭し、広く世界にアピールして、昭和天皇を東京裁判にかけないようにするためのものだったのです。
そして、この計画が大成功をおさめました。非常に好意的な反応が国際社会からあったのです。そこで次は「戦争放棄」という宣言を、天皇白身に行わせてはどうかというプランが、急速に浮上することになったのです。
つまり「降伏文書」 → 「人間宣言」 → 「戦争放棄」と、重大な政策はすぺて、まず天皇自身に宣言させ、それから日本人に受け入れさせるという基本方針があったわけです。
1946年1月に、天皇による「戦争放棄の宣言」が検討された理由も、同じく4ヵ月後に迫った東京裁判にありました。そしてそのプランが「人間宣言」のような、単なる声明の発表としてではなく、非常に大きなスケールに形を変えて実現したのが、翌月(1946年2月)に行われたGHQによる日本国憲法の草案の執筆、なかでも9条の執筆と、その国際社会へのアピールだったのです。
「絵本のような歴史」
その詳しい経緯については、また別の機会にお話しするとして、占領期に「最初は英語で書かれた」もっとも重要な文書が、日本国憲法であることはいうまでもありません。ですから、もしも前章(略)からお話ししている、
「現在はその機能が停止している日本国憲法を、どうすれば再生することができるのか」
という問題について本気で取り組もうとするなら、その憲法の成立過程で何か起きたかを、あくまで事実にもとづいて冷静に検証する必要があります。
日本国憲法の機能停止という大問題については、第六章(略)でみたとおり、GHQの書いた憲法9条2項の問題が大きな影を落としているからです。
「日本国憲法の草案は、占領下で占領軍によって書かれたものである」
まずこの明白な事実を、いかなるあいまいな言い訳もなく、真正面から受け入れる必要があります。たしかに厳しい現実です。大きな心の痛みも伴います。
でも、そこから出発するしかありません。事実にもとづかない主観的な議論には、いくらやっても着地点というものがないからです。
「日本国憲法の草案は、本当は日本人が書いた」というのは、「戦争は、8月15日に終わった」
というのと同じ、日本のなかだけで通用する、口当たりの良い「絵本のような歴史」にすぎないのです。
たしかにそこには、一面の真実がある。とくに感情面での真実がある。平和憲法は戦争で大きな苦しみを味わった日本人の思いが、形になったものであることは、確かです。
けれどもその草案を書いたのは百パーセント、占領軍(GHQ)でした。何月何日に、誰がどの条文を、誰とどのように相談しながら書いたかまでわかっている。そこに日本人が書いた条文の話など、いっさい出てこないのです。
しかもGHQは、憲法草案を執筆した9ヵ月後の1946年11月25日、
「GHQが憲法草案を書いたことに対する批判といっさいの言及」
を検閲の対象として、メディアで報じたり、手紙に書くことをすべて禁じました。
だから私たち日本人は、長年、それを自分たちが書いたと信じこんできたのです。
このあまりにも明らかな事実に目をつぶって、憲法についてなにか意味のあることを議論することなど、絶対に不可能なのです。
◇
ここまでで、日本国憲法はGHQの手で書かれた、純粋にお仕着せられた憲法だと言うことが再確認できました。従って日本人がその条文に縛られることなく、日本人による日本人のための日本国憲法を新しく作る必要をより強く感じました。なぜなら主権国家の何処の国でもその最高法規たる憲法は、その国民の手で作らなければならないし、しっかりした政府を持つ国で、自国民の手によって作っていない国は日本以外にはないからです。このことだけとっても日本の現状は極めて異常な状態だと言えるでしょう。
ところでもう一つの疑問、その前文や9条の条文が、なぜあれほど現実離れした理想の文章になったのか、そこには米英の長期にわたる綿密で繊細な戦略と計画があったのです。 その理由は次回に譲ります。
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