憲法

2020年5月 8日 (金)

日本国憲法、歴史的意識欠如の欠陥と制定時のまやかし

Iwata3  5月3日は憲法記念日でした。新型コロナウィルスの感染拡大に日本全体が巻き込まれ、その話題集中の中で各界要人の出された談話は、マスコミの報道からはすっかりかすんでしまいました。しかし憲法は特措法より上位にあります。その憲法を見直すことは特措法の見直しと並行して重要だと思います。大和大学政治経済学部政治行政学科准教授で政治学者の岩田温氏が産経新聞に歴史的意識欠如の欠陥と制定時のまやかし」と題して寄稿しているので、以下に紹介します。

 憲法を論じる上で最も大切な視点は、国家を全体主義に陥らせないということだ。その意味で、近代立憲主義、つまり法を超えた権力は認めないという思想は重要だ。権力が暴走し、国民が不幸になってはならない。国民が持つ基本的な諸権利を守るため、立憲主義は決してないがしろにしてはいけない。

 立憲主義は大日本国帝国憲法(旧憲法)が制定された明治以後、わが国にしっかりと根付いていた。それは、全体主義国家とさえ評された先の大戦下でも旧憲法が機能し、徴兵や徴用なども法に基づき執行されていたことから明らかだ。また、旧憲法に先立って制定されたオスマン帝国憲法がわずか2年で停止されたことと比べても好対照だ。

 とはいえ、立憲主義だけでは不十分だ。確かに権利の制限はしない方がいい。それでも「危機に陥った時には私権の制限に踏み切る」という、いわゆる緊急事態条項がなければ政治は機能しない。それは、日本国憲法下のわが国が、新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるための社会活動抑制を強制できず、混乱を招いたことで証明された。

 立憲主義と緊急事態条項はいわば車の両輪で、いずれも必要だ。「憲法守って国滅ぶ」とならないよう、早急に緊急事態条項を書き加えなければならない。

1条こそ危うい

 ただ、このような議論は、憲法についてほんの一部分しかとらえていない。それは国家について考えてみるとよく分かる。

 国家とは、過去-現在-未来を垂直に貫く歴史的共同体と、水平的、つまり同時代的共同体という縦、横2つの軸の交わりで理解するべきだ。そして憲法を考える際も、両軸を意識する必要がある。どちらを欠いてもおかしな姿になる。

 例えば、ルールを守っている限り、最大限の自由を享受できるという社会契約論が掲げる国家像には横軸しかない。そこには、自分を育ててくれた存在に対して当然抱くはずの感謝や愛着はない。自分の命を守るために国家を作ったのだから、国家のために命を尽くすわけがない。はっきり言って空理空論だ。

 そして、現在の国民が持つ諸権利を守ろうと志向する立憲主義は、横軸しか持たない社会契約論と同根と言わざるを得ない。

 “立憲主義者”を自称する憲法学者らは批判するが、国家最高の法である憲法に「過去どのような国であり、将来どのような姿を目指すのか」という歴史的な理念を書き込むことは、大いにやるべきだ。

 現在の憲法論議に欠けているのは、この意識だ。それを最も象徴しているのが「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とする1条だ。

 この条文はわが国の歴史を語る上で欠かせない天皇陛下の地位を危険にさらす。9条以上に問題だ。

 なぜなら、陛下の地位が国民の総意に基づくのであれば、崩御された際や御代替わりのたびに国民投票を実施するべきだという論理を否定できないからだ。

 そもそも、1条が掲げる「国民主権」という理念はフランス革命期の政治家、エマニュエル=ジョゼフ・シェイエスが編み出したものだ。彼は国民主権を君主主権の対概念として位置付け、王の主権を、人民が奪い取るべきだと考えた。

 このような経緯を持つ概念は、わが国の歴史にはなじまない。

 有史以来、わが国には君臣共治の伝統がある。さらに、旧憲法下でも、陛下は「統治権の総攬者」でしかなかった。王と人民が対立したヨーロッパのような歴史はない。

 そのようなわが国の憲法で、国民主権を強調する必要はない。にも関わらず、なぜこのような内容となったのか。それは、日本国憲法の制定経緯をつぶさに見れば理解できる。

「マック憲法」

 日本国憲法の草案を審議した旧憲法下最後の帝国議会は異例づくめだった。

 昭和21年4月の総選挙に先立ち、連合国軍総司令部(GHQ)は、多くの立候補予定者を恣意的に公職から追放した。その上、選挙後には、比較第一党の党首だった鳩山一郎をも追放した。このような議会でGHQの意向を忖度しない自由な議論がされたと考えることは不可能だ。わが国の歴史を意識した議論など、交わされるはずがない。

 それだけではない。検閲も厳しかった。「こんな憲法を作りやがって」という批判はもちろん、「素晴らしい憲法を作ってもらった」という肯定的な論調も対象だ。GHQが憲法改正に関与したとわずかでもほのめかせば出版を許可しないという徹底ぶりだった。

 憲法を定める権力は帝国議会議員にはなかった。国民にも、昭和天皇にもなかった。GHQの最高司令官、ダグラス・マッカーサーが握っていた。故・中曽根康弘元首相が名付けた「マック憲法」という表現が一番しっくりくる。

 この点からして日本国憲法の三大原則の1つ、国民主権が、いかにまやかしであるか分かる。

「つまらぬ一歩」でも

 日本国憲法は戦後、一言一句変えることができない「不磨の大典」だった。

 そんな中、安倍晋三首相は9条に自衛隊を明記するという案を掲げ、憲法改正に意欲を示した。

 原理原則からいえば、この改正案が可決されても大学の法学部から自衛隊違憲説が消えるだけで、現実はほとんど変わらない。つまらぬ一歩でしかない。

 しかし政治家は革命家ではない。そんな一歩でも進むことこそが大事だ。政治日程を考えると、非常に厳しい。それでも安倍首相には憲法改正を成し遂げてもらいたい。現実は一歩一歩しか変えられないのだから。


6_20200508114901  現実に自衛隊は存在していますし、かつ様々な形で活動し、特に災害などの国難の時に大きな力を発揮していて、殆どの国民にその存在を肯定されていながら、解釈論はいろいろあっても憲法条文9条の2項には完全に違反しています。そして多くの憲法学者が違憲と判断している。こんな条文を自衛隊発足後そのまま70年も放っておいて、なおかつ自衛隊を認めているどの野党も憲法改正を言い出さないのは、本当に異常だと思います。

 この問題は、9条を改正すれば戦争できる国になる、世界の隅々まで自衛隊が行ってまた戦争に加担する、戦前の軍国主義に戻ってしまう、徴兵制もしかれる等々、リベラル左派の主張に国民の多くが洗脳されているからでしょう。マスコミもそういった主張の方に傾いた報道をします。

 岩田氏が述べているように、こうした国民を納得させるためには、つまらない一歩でも、という考えは同調に値します。しかし本当に有事が発生する。今回の新型コロナウィルスの状況をはるかに超えた有事、例えば多数の死者を出す国際テロや北朝鮮のミサイルの本土着弾のような有事が発生しなければ、本当に多くの国民はその必要性を感じないのかもしれません。残念なことですが。

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2020年5月 3日 (日)

憲法記念日に思う、国の独立と主権を毀損する9条を変えよう!

Plt2005030001p1  本日は憲法記念日です。今日が憲法記念日だと言うことは何人の日本人が意識しているのでしょうか。そしてその憲法がかつて国会で審議したとはいえ、GHQ占領下で公布、施行され、しかもその原案がGHQの強い意志が込められたものであったことは。そうです、日本を二度と戦勝国つまり当時の連合国に歯向かえないよう、9条を条文に加えたのです。(天皇の廃位を主張する国もあり、天皇存続の条件だったという説もあります。)

 いずれにせよ、こういった経緯がありながら、並行してWGIPとプレスコードと言う占領下の手段、すなわち戦争責任は日本だけにあるという自虐史観と、連合国批判は一切してはならないという言論封殺で、9条の意味する国の独立と主権の確保への大きな制約を課されても、何も言えなかったのです。

 そしてその後占領が解除されても時の吉田茂政権は、いわゆる吉田ドクトリン、すなわち「防衛は米国に頼り経済を優先する路線」を取り、憲法改正の機会を逃し、一方自虐史観に洗脳された左翼政党とプレスコードの影響抜けぬマスコミは、「敗戦利得者」たる知識人たちと「在日朝鮮、韓国人」たちの強烈な影響下のもとに、東アジア諸国への謝罪に明け暮れ、9条を錦の御旗に、軍に対する異様な嫌悪感を持ち続けてきたのです。

 ようやく今日の安倍政権のもとで、憲法改正、特に9条の改正へと一歩踏み込もうとしましたが、もともと改正がやりにくい憲法改正条文96条、つまり衆参両院の3分の2の賛成での発議と言うハードルもあり、かつ国内の左派勢力とその後押しをする中韓の猛烈な反対で、未だ道半ばというのが現状です。

 武力を持たせず、交戦権もなき憲法を持つ国は、世界広し、と言えども日本位のものです。それでも戦争に巻き込まれなかったのは、ひとえに日米安全保障条約と自衛隊の抑止力があったのは論を俟たないでしょう。

 日本人はもともと芯は強いはずです。オリンピックでも研究開発分野でも、日本人がメダル獲得やノーベル賞受賞することは国民の夢です。何故防衛面でも強くなってはいけないのでしょうか。しかも軍事研究は何にもまして科学研究を発展させると言います。国立大学での軍事研究ができない日本は、早晩研究大国の座から滑り落ちるでしょう。

 ところで私のこうした考えから180度真反対の考えを持つ人たちがいます。そうです、未だに自虐史観の洗脳から回復していない人たちです。彼らの一部が各新聞紙上で、「憲法の意思を変えるな!」という意見広告を出しています。私も読売新聞紙上でこの広告を見ました。以下にそれを引用掲載しますが、もちろん賛同しているからではありません。如何にバカなことを考えているか、お伝えしたいからです。すでに読み終えた方は読み飛ばしていただければと思います。(なぜか朝日新聞は入っていません。多くのオピニオン欄が憲法改正反対で埋まっているからでしょうか)

201905  5月3日憲法記念日、市民意見広告運動は多くの賛同に支えられ、意見広告「憲法の意思を変えるな!」を以下の5紙に掲載しました。賛同10,958件(賛同締切日集計、匿名希望を含む)

沖縄タイムス朝刊(地方紙)、東京新聞朝刊(ブロック紙)、毎日新聞朝刊(全国紙)、読売新聞朝刊(全国紙)、琉球新報朝刊(地方紙)。

◎武力より憲法9条の平和力!

 2020年、世界が新型コロナウイルスの脅威にさらされました。世界中でこの脅威から命と暮らしを守るためにたたかい続けている人びとに対し、私たちは心からの敬意を払うものです。しかし、政府が適切な対応を行わなければ、それは人災ともなりうることを知りました。たとえば、安倍首相が専門家への相談もなく、唐突に学校の一斉休校を要請したことが、人びとの暮らしを混乱させたり、生活が成り立たなくなったりすることにつながったからです。

 さらに安倍政権は、民主的社会でもっとも尊重されるべき行動の自由という市民的権利の行使をためらわせる「緊急事態宣言」を発出しました。根拠となる改定新型インフルエンザ等対策特措法は宣言発出に国会承認すら不要で、違憲の疑いも指摘されています。また、自民党内からは今回の脅威に「緊急事態のひとつ、改憲の実験台に」という声さえあがりました。安倍政権が、ウイルスへの恐怖から人びとが権力に同調的になってしまいがちな心理をたくみに利用しようとしていることが、そこからすけて見えます。ウイルスの脅威とたたかう中でも、このことが私たちの未来を不安なものにしてしまう危険性を注視する必要があるでしょう。

 安倍首相は、自身の任期が切れる前に「憲法改正」を行う熱意を幾度となくにじませてきました。首相は3月11日の参議院本会議においても、憲法審査会での与野党の枠を超えた「憲法改正」論議を呼びかけています。憲法の擁護義務を課される行政の長である首相が、率先して「憲法改正」を持ち出すことなどあってはならないことですが、その目玉としているのは憲法9条に自衛隊の存在を書き込むことです。

 第二次安倍政権以降の日本はこの7年余りの間に、集団的自衛権の行使を容認する安保法成立(2019年9月)、国会審議を経ない中東オマーン湾周辺への自衛隊派遣(2020年1月)など、戦争ができる国への道を着々と進んできました。憲法9条に新項として自衛隊の存在を書き込むことは、「戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認」を定めた現第1項と第2項を無力化し、自衛隊を米軍と一体となって世界のどこででも戦争できる軍隊にすることです。それは戻ることのできない戦争への片道キップだ、と私たちは考えます。

 憲法9条は、人権侵害の最たる行為である戦争を二度と政府にさせてはならないという強い意思を表しています。自衛隊の存在の書き込みは、憲法9条を根本から否定し、その意思を真っ向からねじ曲げるものです。現在の憲法9条のもつ平和力を真に実現していくことこそ、戦争のない暮らしを守る唯一の答えです。

◎安倍改憲はいらない

 ここ数年、国会で森友・加計学園問題や桜を見る会問題といった安倍首相の権力スキャンダルに非常に多くの審議時間が割かれていることを、私たちは見てきました。その陰で、本当に慎重に審議されるべきだった種子法や水道法の改定など、人びとの生活に直結する重要法案がほとんど注目されないまま通過成立してしまっています。

 自身のスキャンダルに対する野党の追及を文書改ざんや隠蔽でかわし、ウソにウソを塗り重ねた答弁をして国会の大事な時間を浪費させてきた安倍首相に、「憲法改正」議論を私たち主権者にうながす資格などありません。今私たちに必要なのは、イージス・アショア配備やステルス戦闘機購入などで莫大にふくれあがっている防衛予算案(2020年度、過去最大5兆3133億円)をゼロから見直し、人びとが直面する脅威や損失にしっかりと充てることができる政治です。

 私たちには主権者として政治家を選び、政治を変える権利があります。2019年夏の参議院選挙の平均投票率は48・80%でした。選挙権をもつ人の約半数以上が自分の権利を行使しませんでした。なんともったいないことでしょうか。10人に5人ではなく、10人に6人が選挙に行けば、政治も私たちの暮らしも変わるのです。

 来る選挙では、憲法をいかし実現することができる政治家に投票して、安倍政権を確実に退陣に追い込みましょう。戦争させない未来を選びましょう。

 読んでいて疲れました。9条を守れとは言っていますが、単なる安倍批判ではないですか。この広告を読んで、私は最後に二つのことを言いたいと思います。

 まず第一に「9条の平和力」とは何でしょう。今、国連の常任理事国は世界のGDPのほぼ半分を占めていますが、この5ヵ国がそれぞれが膨大な軍事力を持ち、世界各地の戦争に加担しています。その国々に「日本の9条を見習いなさい。軍事力を手放せば世界は平和になりますよ。安全保障理事国としての責任が果たせますから」とぜひ言ってみてください。聞く耳を持ちますか?例えばこの広告の人たちが日本より好きな中国に、是非薦めていただけないでしょうか。

 そして次に「安倍改憲は要らない」とは何でしょう。改憲するのは国民ではないですか、しかもその改憲の発議をするのは国会です。安倍首相は、国の独立と主権を担保するのに不可欠な防衛力を否定する現憲法に、危機感を感じて提案しているのであって、安倍首相個人が改正できるわけがないでしょう。しかも国会での発議さえ阻止しようとしているのは、国民の改憲の権利を奪うことになるでしょう。この人たちが改憲を阻止したければ、国民投票で「ノー」という人たちを増やすべく、合理的に説得すればいいのです。しかしこのような理想を絵にかいたような、それこそ絵空事をいくら述べても、私はとてもできないと思いますよ

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2019年8月11日 (日)

憲法9条改正、2項の破棄から

Images_20190811115701  今年も8月15日の終戦記念日(戦没者を追悼し平和を祈念する日)が近づいてきました。テレビなどのメディアでは様々な特集報道がなされるでしょう。私はここで戦後GHQが起草したといわれる日本国憲法、特にその第9条について考えてみたいと思います。7日付の産経新聞の「正論」に埼玉大学名誉教授・長谷川三千子氏の記事が掲載されていますので、少し長くなりますがそれをまず紹介します。

 今回の参議院選挙の結果、参院全体でのいわゆる「改憲勢力」が3分の2を下回ることになり、安倍晋三首相も「自民党案にとらわれず」議論を進めてゆくことを提案なさった。これは大変よいことだったと思います。実は憲法9条改正についての自民党案は万全とはいえないものだったからです。

 ≪主権の意味改めて考える≫

 どこが万全でなかったのか-一番の問題点は9条2項がそっくりそのまま残されてしまったというところにあります。実際、9条2項をそのままにして自衛隊の保持を明記するのは矛盾ではないか、という批判も最初からありました。しかし、それだけの問題ではない。9条2項は、もしそれを文言通りに遵守したら、わが国の主権を完全に手放してしまうことになるという、怖ろしい条文を含んでいます。国家の主権のないところに近代成文憲法は存立することができません。9条2項は日本国憲法にとっての自殺条項ともなりうるものなのです。

 主権とはもともと「最高の力」を意味するラテン語を翻訳した言葉で、国内的には(たとえば「国民主権」といった言い方で)政治の決定権のありどころを意味し、対外的にはその国の独立と領土保全の権限を意味します。

 これらの二つは、まるで別物のようにして扱われることが多いのですが、言葉の成り立ちとしても、事柄そのものとしても、同じ一つながりのものに他なりません。すなわち、国家の主権が奪われ、独立が失われた状態にあっては、その国の政治決定権は国内の誰の手中にもなく、「国民主権」も「君主主権」も成り立ちません。そして、そんな状態においては自国憲法も全く無意味になってしまう。だからこそ(日本国憲法前文にも言う通り)どの国も「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とう」とするわけなのです。

 そのために必要不可欠なのは、言うまでもなく物理的な「力」-軍事力です。どんなに経済的な力があっても、軍事力がゼロであったら国家主権を保つことはできません。さらにまた、軍事力の大小にかかわらず、国民にその国の主権を保つ気概がなければ主権は維持できません。

 ≪自国の主権を否定した条項≫

 たとえば1989年の米軍侵攻によって国防軍を解体されたパナマ共和国は憲法に軍隊の不保持を定めていますが、同時に「すべてのパナマ人は、国家の独立と領土保全のために武器をとる義務がある」と定めている。主権維持の重要性を知ればこその規定です。

 では日本国憲法はどうなのか。9条2項は次のように定めています。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

 日本が米軍侵攻によって軍の解体を受け、完全な主権喪失状態となったのは74年前のことですが、その後形式上は主権が回復したにもかかわらず、主権放棄の条文はそのままなのです。

 ここでは戦力がゼロと規定されているだけではない。国の交戦権すら否認されています。ここに言う「交戦権」は国際法に定められた個々の細かな権利のことではなく、それらの大前提として認められている、自国の主権維持のために戦う権利です。つまり、もし日本国民がパナマ人と同じように、国家の危機に際して独立と領土保全のために武器をとって戦おうとしても、交戦権が認められていないと、それはただの犯罪行為になってしまうのです。

 これは完全に自国の主権を否定した条文です。そして先に述べた通り、自国の主権のないところに「国民主権」の原理は成り立ち得ない。さらには「生命、自由及び幸福追求に対する」国民の権利を守ることも、このように「力」がゼロの状態では空文とならざるを得ません。

Images-2_20190811115801  ≪国際平和に反する条文≫

 しかもこれによって国際平和が実現できるのかといえば、むしろその正反対なのです。国際平和というものは基本的に主権国家が集まって互いの持つ「最高の力」を均衡させておくことで保たれています。その中に突如として戦力ゼロの軍事的空白地帯が出現したりすれば国際平和にとってこんな危険なことはない。9条2項はもしその条文通りを実行したらばまさしく平和破壊条項となるのです。

 そうした危険を見越して2項の冒頭には「前項の目的を達するため」という但し書きがつけられています。これは2項の規定に、1項の目的に合致する限りで、という制限をつけたものと解釈されてきました。9条1項は基本的には国際法の常識に従った平和条項ですから、この解釈によって9条全体も穏当な平和条項として扱える。まさに苦肉の策でした。

 しかしそれによって9条2項の内容のトンデモなさが人々の目から隠されたままになってしまったのも事実です。一度この条文を直視すれば、その怖ろしさは誰の目にも明らかになるはずなのです。9条2項削除こそ超党派で取り組むべき課題だといえましょう。

 私もこの長谷川氏の意見に賛同します。氏が言うように9条2項の「前項の目的を達するため」という文言(いわゆる芦田修正と言われる)が、1項の目的に合致する限りで、という制限をつけたものと解釈されてきたというのが通説ですが、そうでないという意見もあるのは事実です。条文は次の通りです。

 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この2)項の冒頭「前項の目的を達成するため」を素直に読めば、「前項の目的達成のためにはとにかく戦力保持は認めず、交戦権も認めないのだ」、と採るのが普通です。

 芦田修正を審議した国会はまだGHQによる占領下だったので、「制限をつけたもの」と明確に言ってしまえば認められないと思い、曖昧にしたのかも知れません。芦田氏は後にこれは「制限」を意味しているということを発言しているようですが、修正文を挿入した国会審議の時点での記録には、そのことは明記されていないそうです。

 事実GHQの最高司令官時代、マッカーサーは「マッカーサー・ノート第2原則」に次のように記しています。

 国家の主権的権利としての戦争は、廃止される。日本は、紛争解決の手段としての戦争及び自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。日本は、その防衛及び保護を今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。

 いかなる日本陸海空軍も認められず、また、いかなる交戦権も日本軍に与えられない。

 これではマッカーサーに拒否される可能性は高かったものと思われます。

38072035_3  その後出された政府見解として、つまり1項の「国際紛争を解決する手段としては」という文言が、パリ不戦条約第1条の「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」の中の、「国家の政策の手段としての戦争」と同じ意味で、具体的には侵略戦争を意味するとしています。

 つまり侵略戦争のための戦力保持は認められないが、自衛戦争のための戦力は持ってもよい、ただそれは反対勢力の批判をかわすため「自衛のため必要最小限のもの」という条件を付け、いまだに自衛隊への手かせ足かせになっているのは周知の通りです。

 私は国の安全保障の観点から、もっと言えば国の独立と主権を守り、国民の安全と財産を守るという観点からは、すでに作られた条文がどうのこうのというより、どうしたらそれを完全に遂行できるのかという現実的な視点で捉え、その遂行を危うくするような事態を回避するために、それに見合った形の具体的な条文にする必要があると思います。

 安倍首相「9条2項を残したまま、自衛隊明記」という見解を述べています。とりあえず改憲しやすいようにとの配慮でしょうが、本質的解決にはなりません。つまり文言の解釈によってかなり違った意味にとられるような条文は意味をなさないし、また長谷川氏の言うように明らかに国の主権を毀損するような条文(第9条2項)は削除してしかるべきだと考えます。


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2018年12月27日 (木)

自主憲法で真の独立国家に

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 護憲派の憲法学者や立憲民主党の議員たちの言う「立憲主義」とは、「政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠する」という考え方です。いわゆる「憲法は国家権力を縛るもの」としています。しかしこの考え方は以前ブログでも述べましたが、これはフランス革命後の共和制時代の古い考えだと、評論家の加地伸行氏は明確に否定しています。


 また西部邁氏も同様に「民主主義が発展成熟する歴史段階に至れば、政府が民意を蹂躙することなどあり得ない」、として否定しています。日本は民主主義国家であり、中国や北朝鮮などの共産主義国家ではないのですから、当然でしょう。

 細谷雄一氏は彼の著書の中で、憲法は「国の形」を示すものという言い方をしていますが、西部氏は
「それには意図的なものと自主的なものがあるが、本来ならば「歴史の試行錯誤を経て成るはずのもの」だと述べています。自然に出来るものではないですから、ある程度意図は入ると思いますが、いずれにしても「自主」が無ければならないと思いますね。

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 そう言う意味では、戦後の日本国憲法はGHQがその原案を起草したと言われています。その過程ではいろいろあったようですが、最大の論点は「皇室存続の取り扱い」であって、細谷氏の著書に因れば、「連合国の中で中華民国、ソ連、豪州などの国は、天皇が開戦の中心にいたのだという思いから天皇制廃止を訴えた。それを説得するために、戦争の放棄を謳わざるを得なかった」と言うことのようです。と言うことは「皇室の存続のために戦争の放棄を取り入れた」というのが真相であって、その起草案を敗戦直後の当時の状況から、日本側も認めざるを得なかったと言うことでしょう。


 はっきり言えることは、日本始まって以来の、外国との大きな戦争に初めて敗れ、GHQによる占領下という、主権のない特殊な状況で、かつ原案がGHQによって作られた憲法は、上記「自主」の部分が全くないと言うことになります。

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 もちろん「歴史の試行錯誤の結果」という要素はありますが、2600年以上続いている日本の歴史全体から見て、ほんの一時期の歴史の結果だけであり、これが試行錯誤の結果と言えるかどうか疑問でもあります。また当時の議会を経て天皇による公布で以て成立した憲法ですから、手続き的には問題なかったにしても、「自主憲法」であるかと言えば「ノー」と言わざるを得ないでしょう。

 そして憲法が「国の形」を示し、その永続性を目指すものであるはずでしょうから、当然国の独立や主権の確立を前提にしなければ成りません。もちろん国を構成する国民の、安全や財産を守るという政府の責任を、担保しうるものでなければならないでしょう。

 その意味では、国民の権利や自由を大幅に盛り込んでいる部分は良いにしても、国防に関して、その戦闘を完全に否定する条項を含んでいるのは、甚だ問題です。一般には9条1項は侵略戦争の否定であり、2項はその侵略戦争のための戦力保持と交戦権を認めないのであって、自衛のための戦力までは否定しない、と言う解釈がされていますが、そうであればそう言う文言に代えればいいのではと思います

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 西部氏の著書に依れば、「国民の93%が自衛隊の存在を認めているのに、9条2項の改正には60%が反対している、余りに不合理に満ちた国民」と記述されています。この60%全員が芦田修正による2項冒頭の、「前項の目的を達成するため」という文言、つまり「侵略戦争のため」を正確に理解しているのでしょうか。

 GHQの総司令官であったマッカーサーが、退任後の1951年の上院の軍事外交共同委員会で有名な証言、即ち
「日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)によるものでした」、と、大平洋戦争が、いわゆる日本による「侵略戦争」とする一般的な見方とは、少し違った見方を示しています。

 このように何が侵略戦争で、何が自衛の戦争なのか、区別するのは難しいと思います。「日本は真珠湾を先制攻撃した」ということで、先制攻撃を仕掛けた方が侵略であれば、米国による「ベトナム戦争」も「イラク戦争」もすべて侵略戦争になります。(もちろん米国は逆の見方を示すでしょうが)

 いずれにせよ、日本側が侵略しなくても、侵略されることはあり得るでしょうし、そのとき侵略した側が、日本から侵略されたと強弁することもあり得るでしょう。また最近は領土の侵略だけではなく、海洋侵略や情報侵略など、多岐にわたる攻撃が予想されます。日本が仕掛けなければ相手は何もしないという、「お人好し」「お花畑」「性善説」を今すぐに捨て去り、憲法を改正し、国と国民を守る防衛体制を、しっかり整えるのが是非必要だと思います。


 
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