緊急事態下でも自由とプライバシー保護を求める異常な国日本
昨今の日本では、新型コロナ下での感染拡大防止やワクチン接種、はたまた定額給付金や持続化給付金の支給などで、様々な混乱が出ています。政府や自治体の対応のまずさや突然の変更などが繰り返されています。
メディアの捉え方や報道の仕方も大げさな面もありますが、確かに制度や仕組みの欠陥、その時々の判断の巧拙、タイミングの問題など、混乱の原因にはいろいろありそうです。
しかしメディアも国民も、緊急事態宣言下だという認識が薄いのも事実かも知れません。4度目の緊急事態宣言が発出された東京など、まるで通常の日常と変わりがないようです。確かに酒類提供の飲食業には休業要請や時短要請が出され、業種としては緊急事態に陥っているかもしれません。
しかし周りの市民はいたって平時の様相です。つまり緊急事態で自由を奪われた人たちと、そうでない人たちの2極化ができているのです。しかも緊急事態宣言の長期化が飲食業に限らず、仕事を失った人たちの自由を、完全に奪ってしまっているのです。そしてそれを解決できる唯一の手段、つまり給付金の支給が遅く、かつ少額なのが実態として浮かび上がっています。
どうしてこうなったのか、そして緊急事態での自由とは何なのか、平時の自由とどう違うのかを、解き明かす鍵が先崎彰容氏の著作「国家の尊厳」の第一章コロナ禍で対立した「二つの自由」にありましたので以下に一部抜粋して引用します。
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新型コロナ禍をうけ、安倍政権が戦後初の緊急事態宣言を発令した前後、筆者は、自由と民主主義が再び問われていると考えていました。
自由や民主主義などという、古典的で手垢のついた問いに対して、私たちは普段、思想らしい思想を紡いでこなかった事実を突きつけられたと思ったのです。
具体的には、全国民に一人当たり10万円が支給される特別定額給付金について、自治体ごとの遅速の差が報道されました。遅速の理由は簡単で、オンライン申請をしたとしても、役所の職員はそのデータを紙に印刷し、住民基本台帳とにらめっこして確認し、時間を浪費していたからです。オンライン申請まではデジタル化できていた。でも、その先は驚くべき前時代的な人海戦術にゆだねられていた。
その背景には、平成20年9月、アメリカ大手証券会社の経営破綻にはじまる金融危機、いわゆるリーマン・ショックがあることを思い出さねばなりません。わが国はその対策として、一人あたり1万2000円を支給する決定をしましたが、定額給付金の支給方法をめぐって大混乱を経験した。その反省からマイナンバー制度の導入に踏み切ったのでした。
にもかかわらず、コロナ禍前におけるマイナンバーカードの普及率は10パーセント台に留まっていて、前回の反省を全く生かすことができず、混乱の再現をもたらした。
泥縄式の作業を必死でおこなう公務員の姿は、戦争末期に粗悪な飛行機を死に物狂いで生産し、竹槍戦術の練習に明け暮れた国民とおなじであると思います。アメリカが社会保障番号制度をつかい、二週間たらずで給付金を振り込んでいる時代に、わが日本は紙をめくる作業に忙殺されていたからです。
戦前の国民も、コロナ時代の公務員も、一人ひとりは異常なまでに頑張っている。でも力の使いどころを間違えたまま、行政組織の全体を変えずに公務員の自助努力を叫んでいたのは、あまりにも典型的な精神論でしょう。新たに誕生した菅義偉内閣の目玉政策が、デジタル庁の新設であり、また河野太郎氏を行政改革担当大臣にすえて、ハンコの廃止をぶちあげているのも、その反省に基づく組織改革だと思われます。
給付が遅々として進まない中で、マイナンバーと銀行口座の紐づけが検討された際、導入推進派にたいし判で押したように「国家によるプライバシーの侵害と個人資産の把握を警戒せよ」という議論がありました。この立場には、個人の権利を重んじ、国家権力からの監視や拘束を受けることを拒否したいという、戦後一貫した心理が作用している。つまり戦後日本人の常識、こういってよければ「戦後のアイデンティティー」ということになるでしょう。
しかし、この典型的な導入と批判の二項対立、政府 = 善 = 導入と政府 = 悪 = 警戒の図式に、私たちは正直、飽き飽きしているのではないでしょうか。
リーマン・ショックの際、マスコミを中心とする警戒の大合唱を前に、マイナンバー制度導入は中途半端に終わった。そのこと自体に問題があることは、今回同様の混乱に直面したので十分に分かっている。
にもかかわらず、またおなじ二項対立に言葉と紙面を割いている。何かを議論しているように見えて、それは議論ではなく、おなじ場所を堂々巡りして問題の直視を避けている。
いいかえれば、この図式では今、直面している自由とは何か、民主主義とは何かという問題を解くことができないのではないか。
以下、筆者が述べたいのは、新型コロナ禍とマイナンバー制度という具体的な問題を、思想や哲学を参考に論じてみたいということです。
自由をめぐる二つの間い
コロナ禍で顕著な損害を被ったのは、自営業と非正規雇用の人たちでしょう。外食するという生活スタイルが消滅した結果、居酒屋等の外食産業は瞬く間に窒息しました。酒の卸売業やおしぼりを納品している業者など、付随する産業への影響は甚大なものです。また、夜の街での飲食接待で働く人の多くは、給与は高いものの非正規雇用、つまり時給制で働いていました。最後まで自粛要請となるこうした分野には、さまざまな事情を抱えた男女が働いていることも多く、雇用の消滅は即座に生活危機に直結するはずです。
例えば、子供を三人抱えた単身の親がいると仮定しましょう。コロナ禍の影響の直撃を受けたばあい、親は職を失い収入のめどが立たずに在宅することを強いられる。一方、保育園には預けられず学校が休校では、子供たちは狭い家に閉じ込められる。想像しただけでも、閉塞感を覚えます。
親子双方がストレスを抱えたまま、2ヶ月以上収入がなく、またこれから先どうなるのかもわからない。4人家族は、家庭内暴力がいつ起きてもおかしくない状況に陥っているかもしれません。
もし仮に、この家族に緊急事態宣言や自粛要請から一週間足らずで、特別定額給付金が振り込まれたとしましょう。仕事を失った直後、自分の通帳に40万円の記載を見た時の安堵感は、金銭的な救いだけでなく精神面の安定をもたらすにちがいありません。40万円が、外出できず自宅に籠る子供を虐待から防ぐかもしれず、子供たちは待機時間をつぶすためのおもちゃを買ってもらえるかもしれない。
だとすれば、マイナンバーと銀行口座を紐づけすることは、非常事態が生じた際、もっとも弱い立場にある人たちの、経済面と精神面の「自由」を守ることにつながるのではないか。
つまり、新型コロナ禍が私たちに突きつけた課題とは、「自由」をめぐる二つの困難な問いなのです。
私たちは平穏な生活を淡々と続けられることを前提に、私権の侵害はもってのほかだといってきた。しかしそこで求める自由とは、平穏が瓦解し想定外の事態にさらされた際、都会の片隅で給付金40万円の支給を待つひとり親家族を、二カ月以上にわたり路頭に迷わせることを前提とした自由なのです。
私たちの目の前にあるのは、平時にあらゆる束縛を拒絶し、絶叫される自由と、非常時に即座に40万円を確保できたことで得られる「自由」ではないでしょうか。
この二つの自由が、今回、天秤にかけられた。
自由とは何かという問いが大事だというのは、以上のような論点を強調したかったからです。(モイセス・ナイム『権力の終活』 - 中略-)
多頭化する権力、絶対化する私権
さて、このいささか大上段に構えた世界的な変化を念頭に、もう一度、日本社会に目を向けてみましょう。
そこには、ナイムの指摘にすっぽりと覆われた令和の日本が見えてくるのではないか。
いや令和に入ってからだけではない。終戦以来、一貫した民主主義擁護の掛け声は、私権の制限を認めず、権力は縮小解体されるべきだという雰囲気を生みだしてきました。リーマン・ショックの影響をうけて定額給付金の配布をめぐり混乱した際にも、わが国は制度改正を躊躇い、マイナンバーカードの普及に失敗し今日をむかえたわけです。権力は強大であるどころか、銀行口座を紐づけすることにすら、強制力を発揮できませんでした。
また例えば、経済学者の土居丈朗氏によれば、低所得者にのみ定額給付をすればよい、という誰もが思いつく政策を、日本では行うことができません。なぜならわが国では、高額所得者と低額所得者を全体として把握している機関が、実はどこにもないからです。
税務署は所得税をとってはいるものの、所得の全貌を把握しているわけではありません。500万円以下の所得についての情報を税務署は把握しておらず、またメルカリなどネット上の収入情報まで税務署が把握することはできません。また低所得者の情報は、税務署ではなく、住民税を課している市区町村が把握しているように思えますが、これまた約100万円以下の年金収入しかない人の個人情報を把握することはできないのです。
つまり制度設計ひとつ見ても、戦後のわが国は中央集権的であるどころか、逆に情報集約が分散化し、ナイムのいう無秩序な状態にあるわけです。権力が一元化されず、多頭化している。
そこに自由をふりかざし、私権制限を警戒する論調が輪をかけた結果、今回のコロナ禍で、すみやかな現金給付を行うことができなかった。陣頭指揮をとる機関が政府にも地方自治体にもないまま、一気に非常事態に巻き込まれたのです。そしてデジタル化以前の手作業で、公務員は膨大な努力をかたむけ、疲弊していった……。
かくして、三人の子供を抱えるひとり親家族への40万円給付は、遅配を余儀なくされ、「自由」が奪われることになったわけだ。こうした事態こそ、「権力が抑制されすぎると、何も決められない状態になり、安定性、予見性、安全、物質的な繁栄が損なわれるのだ」というナイムの指摘の、日本版ではないでしょうか。
具体例を駆使したナイムの主張は、一言でいえば、相対化と無秩序への警告です。
相対化とは、複数の価値観や権力が乱立し、自らこそは正義であると主張するカオス状態のことです。「障壁の消滅」とはそういう意味です。
と同時に、前時代の価値観の否定は、蓄積されてきた文化への敬意や歴史感覚を人びとから奪います。情緒的で一時的な情報に飛びつく傾向を現代社会はもってしまう。これが無秩序です。
完全な自由を求めた結果が、社会を逆に混乱に突き落とし、不自由で暴力的な状態を生みだす。国際レベルでは、警察権力の崩壊にともなう海賊やテロの跋扈、アメリカ国内では、コロナ禍での銃の買い占めとなって現出します。
わが日本においては、自粛警察と呼ばれる他者への誹謗中傷が起きてしまう。我こそは正義だという感情にとらわれた日本人が、バラバラな価値基準に基づき、警察官のようにわが物顔で正義を行使し、他者に警告を発するのです。
また政権批判の大合唱はあるが、自ら政権を担うだけの胆力のない野党やマスコミが、引きずりおろし民主主義に明け暮れ、混乱だけを引き起こしている。ナイムのいう熟練と知識の解体による「物事の単純化」は、わが国のばあい、ネット情報に左右されたトイレットペーパーの買い占めを引き起こしてしまう。人同士のつながり方、関係構築の手段がきわめて短時間で、気分的なものになっている。
自由と義務のジレンマ
ナイムの指摘した相対化と無秩序は、権力を拒絶し引きずりおろし、各人が絶対の自由を求めることに原因があります。
だとすれば、私たちが勘違いしているのは、人間には完全な自由が存在する、ということではないですか。豊かさ革命も、移動の自由も、意識革命も、要するに、「もっと欲しい!」という、自分が絶対的な自由を得られるという妄想です。それが収拾のつかない相対化を世界的規模でもたらしている。
しかし自由には必ず義務や拘束、すなわち制限が伴うはずです。実際、欧米諸国の多くは、この自由と義務のジレンマを、完璧なまでに演じて見せたのです。新型コロナウイルスの感染拡大を阻止するための「ロックダウン」、すなわち強制措置のことです。自由と民主主義を掲げ、中国の独裁体制を全体主義と呼んで非難していた欧米各国がロックダウンをした。
この措置は、みずからが掲げてきた理念を自己否定する内容をふくんでいます。なぜなら国家権力による商業活動の禁止と移動の禁止、歓楽街での遊興の禁止は、まさしくチィムのいう「3M革命」の即時停止を意味しているからです。
豊かさを求める活動、世界中を飛行機で移動すること、他人と比較し、より自由を求める意識、これらすべてを国家が統一的な権力に基づいて瞬く間に制限した。憲法にさえ明記されている、移動の自由を欧米諸国は奪った。その様子は、中国の独裁体制に近い道を通らねば、ウイルスによる破滅的な無秩序と混乱に対抗できないという事実を突きつけたのです。
ここには、自由と義務をめぐる高度な緊張関係がありました。欧米諸国のロックダウンには、「自由は無秩序にならない限りで保障されている」、という強いメッセージが込められていた。平時でないからこそ、自由とは何かという問いが頭在化したのです。
ところが、一方の日本はどうだったでしょうか。ここでもわが国は日本流のあいまいさで逃げ切ろうとした。よくも悪くも、自由とは何かが真剣に問われることはなかったのです。
プライバシーを絶叫する自由と、非常時に弱者が飯を食い、虐待を防ぐための「自由」がある。
私たちはいずれかを選択せねばならない。
そして結局のところ、自由と「自由」いずれを選ぶのかは、その国の国民の価値観、つまり文化や死生観に関わるものだと思うのです。
現在の日本国民は、非常時に多少の犠牲などお構いなく、弱者の困窮を見過ごしてもなお死守したいプライバシーを抱えているのでしょうか。あるいは逆に、私権の一部を供したとしても、身を寄せ合う四人家族が飯を食い、おもちゃを買い、泣き声ではなく笑い声が聞こえてくる光景の方を望むのか。
筆者自身は後者のような「自由」に基づく死生観をもった人間でありたいと思います。
すなわち、人間には「絶対的な自由」などありえないということ、自らが生きる時代と場所(国家)という制約を受け入れざるをえない、ということに私たちは気づくべきなのです。
◇
先崎氏の『プライバシーを絶叫する自由と、非常時に弱者が飯を食い、虐待を防ぐための「自由」がある』と言う表現は言い得て妙だと思います。特にカギ括弧付きの「自由」は、平時慣れしている我々に問題を突きつけているようです。
確かに自由には義務を伴います。そしてそれは緊急事態ほど重要になってきます。平時の自由を守るためにも、緊急事態下では国民としては自粛の義務、政府としては支援の義務があり、その支援の円滑運用のためにも、個人の私権の制限も必要だと思います。
あの自由を超え高に叫んできたフランスやイギリス、そしてアメリカでも私権制限の最たるロックダウンを繰り返し実施しました。日本は緊急事態での対応は自粛要請だけで、周回遅れでした。その最大の要因は「プライバシーを絶叫する自由」の立役者、左翼メディアと野党だとつくづく思いました。
そして彼らは、自分たちの言論の自由は絶叫するのに、政府与党の言論の自由は封殺する、ダブスタの典型例です。そして今、その彼らの前で政府側は「前言撤回、陳謝」を繰り返しています。「何を言う、俺の言うことを聞けなければおまえが代わりに言ってみろ」という位の、腰の据わった政治家が政府与党にほしいですね。石原慎太郎氏が懐かしく思えます。
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