政治、文化

2021年7月15日 (木)

緊急事態下でも自由とプライバシー保護を求める異常な国日本

3_20210715110701  昨今の日本では、新型コロナ下での感染拡大防止やワクチン接種、はたまた定額給付金や持続化給付金の支給などで、様々な混乱が出ています。政府や自治体の対応のまずさや突然の変更などが繰り返されています。

 メディアの捉え方や報道の仕方も大げさな面もありますが、確かに制度や仕組みの欠陥、その時々の判断の巧拙、タイミングの問題など、混乱の原因にはいろいろありそうです。

 しかしメディアも国民も、緊急事態宣言下だという認識が薄いのも事実かも知れません。4度目の緊急事態宣言が発出された東京など、まるで通常の日常と変わりがないようです。確かに酒類提供の飲食業には休業要請や時短要請が出され、業種としては緊急事態に陥っているかもしれません。

 しかし周りの市民はいたって平時の様相です。つまり緊急事態で自由を奪われた人たちと、そうでない人たちの2極化ができているのです。しかも緊急事態宣言の長期化が飲食業に限らず、仕事を失った人たちの自由を、完全に奪ってしまっているのです。そしてそれを解決できる唯一の手段、つまり給付金の支給が遅く、かつ少額なのが実態として浮かび上がっています。

 どうしてこうなったのか、そして緊急事態での自由とは何なのか、平時の自由とどう違うのかを、解き明かす鍵が先崎彰容氏の著作「国家の尊厳」の第一章コロナ禍で対立した「二つの自由」にありましたので以下に一部抜粋して引用します。

516trf76js_sx309_bo1204203200_ マイナンバー制度と人海戦術

新型コロナ禍をうけ、安倍政権が戦後初の緊急事態宣言を発令した前後、筆者は、自由と民主主義が再び問われていると考えていました。

自由や民主主義などという、古典的で手垢のついた問いに対して、私たちは普段、思想らしい思想を紡いでこなかった事実を突きつけられたと思ったのです。

具体的には、全国民に一人当たり10万円が支給される特別定額給付金について、自治体ごとの遅速の差が報道されました。遅速の理由は簡単で、オンライン申請をしたとしても、役所の職員はそのデータを紙に印刷し、住民基本台帳とにらめっこして確認し、時間を浪費していたからです。オンライン申請まではデジタル化できていた。でも、その先は驚くべき前時代的な人海戦術にゆだねられていた。

その背景には、平成20年9月、アメリカ大手証券会社の経営破綻にはじまる金融危機、いわゆるリーマン・ショックがあることを思い出さねばなりません。わが国はその対策として、一人あたり1万2000円を支給する決定をしましたが、定額給付金の支給方法をめぐって大混乱を経験した。その反省からマイナンバー制度の導入に踏み切ったのでした。

にもかかわらず、コロナ禍前におけるマイナンバーカードの普及率は10パーセント台に留まっていて、前回の反省を全く生かすことができず、混乱の再現をもたらした。

泥縄式の作業を必死でおこなう公務員の姿は、戦争末期に粗悪な飛行機を死に物狂いで生産し、竹槍戦術の練習に明け暮れた国民とおなじであると思います。アメリカが社会保障番号制度をつかい、二週間たらずで給付金を振り込んでいる時代に、わが日本は紙をめくる作業に忙殺されていたからです。

戦前の国民も、コロナ時代の公務員も、一人ひとりは異常なまでに頑張っている。でも力の使いどころを間違えたまま、行政組織の全体を変えずに公務員の自助努力を叫んでいたのは、あまりにも典型的な精神論でしょう。新たに誕生した菅義偉内閣の目玉政策が、デジタル庁の新設であり、また河野太郎氏を行政改革担当大臣にすえて、ハンコの廃止をぶちあげているのも、その反省に基づく組織改革だと思われます。

給付が遅々として進まない中で、マイナンバーと銀行口座の紐づけが検討された際、導入推進派にたいし判で押したように「国家によるプライバシーの侵害と個人資産の把握を警戒せよ」という議論がありました。この立場には、個人の権利を重んじ、国家権力からの監視や拘束を受けることを拒否したいという、戦後一貫した心理が作用している。つまり戦後日本人の常識、こういってよければ「戦後のアイデンティティー」ということになるでしょう。

しかし、この典型的な導入と批判の二項対立、政府 = 善 = 導入と政府 = 悪 = 警戒の図式に、私たちは正直、飽き飽きしているのではないでしょうか。

リーマン・ショックの際、マスコミを中心とする警戒の大合唱を前に、マイナンバー制度導入は中途半端に終わった。そのこと自体に問題があることは、今回同様の混乱に直面したので十分に分かっている。

にもかかわらず、またおなじ二項対立に言葉と紙面を割いている。何かを議論しているように見えて、それは議論ではなく、おなじ場所を堂々巡りして問題の直視を避けている。

いいかえれば、この図式では今、直面している自由とは何か、民主主義とは何かという問題を解くことができないのではないか。

以下、筆者が述べたいのは、新型コロナ禍とマイナンバー制度という具体的な問題を、思想や哲学を参考に論じてみたいということです。

自由をめぐる二つの間い

コロナ禍で顕著な損害を被ったのは、自営業と非正規雇用の人たちでしょう。外食するという生活スタイルが消滅した結果、居酒屋等の外食産業は瞬く間に窒息しました。酒の卸売業やおしぼりを納品している業者など、付随する産業への影響は甚大なものです。また、夜の街での飲食接待で働く人の多くは、給与は高いものの非正規雇用、つまり時給制で働いていました。最後まで自粛要請となるこうした分野には、さまざまな事情を抱えた男女が働いていることも多く、雇用の消滅は即座に生活危機に直結するはずです。

例えば、子供を三人抱えた単身の親がいると仮定しましょう。コロナ禍の影響の直撃を受けたばあい、親は職を失い収入のめどが立たずに在宅することを強いられる。一方、保育園には預けられず学校が休校では、子供たちは狭い家に閉じ込められる。想像しただけでも、閉塞感を覚えます。

親子双方がストレスを抱えたまま、2ヶ月以上収入がなく、またこれから先どうなるのかもわからない。4人家族は、家庭内暴力がいつ起きてもおかしくない状況に陥っているかもしれません。

もし仮に、この家族に緊急事態宣言や自粛要請から一週間足らずで、特別定額給付金が振り込まれたとしましょう。仕事を失った直後、自分の通帳に40万円の記載を見た時の安堵感は、金銭的な救いだけでなく精神面の安定をもたらすにちがいありません。40万円が、外出できず自宅に籠る子供を虐待から防ぐかもしれず、子供たちは待機時間をつぶすためのおもちゃを買ってもらえるかもしれない。

だとすれば、マイナンバーと銀行口座を紐づけすることは、非常事態が生じた際、もっとも弱い立場にある人たちの、経済面と精神面の「自由」を守ることにつながるのではないか。

つまり、新型コロナ禍が私たちに突きつけた課題とは、「自由」をめぐる二つの困難な問いなのです。

私たちは平穏な生活を淡々と続けられることを前提に、私権の侵害はもってのほかだといってきた。しかしそこで求める自由とは、平穏が瓦解し想定外の事態にさらされた際、都会の片隅で給付金40万円の支給を待つひとり親家族を、二カ月以上にわたり路頭に迷わせることを前提とした自由なのです。

私たちの目の前にあるのは、平時にあらゆる束縛を拒絶し、絶叫される自由と、非常時に即座に40万円を確保できたことで得られる「自由」ではないでしょうか。

この二つの自由が、今回、天秤にかけられた。

自由とは何かという問いが大事だというのは、以上のような論点を強調したかったからです。(モイセス・ナイム『権力の終活』 - 中略-)

多頭化する権力、絶対化する私権

さて、このいささか大上段に構えた世界的な変化を念頭に、もう一度、日本社会に目を向けてみましょう。

そこには、ナイムの指摘にすっぽりと覆われた令和の日本が見えてくるのではないか。

いや令和に入ってからだけではない。終戦以来、一貫した民主主義擁護の掛け声は、私権の制限を認めず、権力は縮小解体されるべきだという雰囲気を生みだしてきました。リーマン・ショックの影響をうけて定額給付金の配布をめぐり混乱した際にも、わが国は制度改正を躊躇い、マイナンバーカードの普及に失敗し今日をむかえたわけです。権力は強大であるどころか、銀行口座を紐づけすることにすら、強制力を発揮できませんでした。

また例えば、経済学者の土居丈朗氏によれば、低所得者にのみ定額給付をすればよい、という誰もが思いつく政策を、日本では行うことができません。なぜならわが国では、高額所得者と低額所得者を全体として把握している機関が、実はどこにもないからです。
税務署は所得税をとってはいるものの、所得の全貌を把握しているわけではありません。500万円以下の所得についての情報を税務署は把握しておらず、またメルカリなどネット上の収入情報まで税務署が把握することはできません。また低所得者の情報は、税務署ではなく、住民税を課している市区町村が把握しているように思えますが、これまた約100万円以下の年金収入しかない人の個人情報を把握することはできないのです。
つまり制度設計ひとつ見ても、戦後のわが国は中央集権的であるどころか、逆に情報集約が分散化し、ナイムのいう無秩序な状態にあるわけです。権力が一元化されず、多頭化している。

そこに自由をふりかざし、私権制限を警戒する論調が輪をかけた結果、今回のコロナ禍で、すみやかな現金給付を行うことができなかった。陣頭指揮をとる機関が政府にも地方自治体にもないまま、一気に非常事態に巻き込まれたのです。そしてデジタル化以前の手作業で、公務員は膨大な努力をかたむけ、疲弊していった……。
かくして、三人の子供を抱えるひとり親家族への40万円給付は、遅配を余儀なくされ、「自由」が奪われることになったわけだ。こうした事態こそ、「権力が抑制されすぎると、何も決められない状態になり、安定性、予見性、安全、物質的な繁栄が損なわれるのだ」というナイムの指摘の、日本版ではないでしょうか。
具体例を駆使したナイムの主張は、一言でいえば、相対化と無秩序への警告です。
相対化とは、複数の価値観や権力が乱立し、自らこそは正義であると主張するカオス状態のことです。「障壁の消滅」とはそういう意味です。
と同時に、前時代の価値観の否定は、蓄積されてきた文化への敬意や歴史感覚を人びとから奪います。情緒的で一時的な情報に飛びつく傾向を現代社会はもってしまう。これが無秩序です。
完全な自由を求めた結果が、社会を逆に混乱に突き落とし、不自由で暴力的な状態を生みだす。国際レベルでは、警察権力の崩壊にともなう海賊やテロの跋扈、アメリカ国内では、コロナ禍での銃の買い占めとなって現出します。
わが日本においては、自粛警察と呼ばれる他者への誹謗中傷が起きてしまう。我こそは正義だという感情にとらわれた日本人が、バラバラな価値基準に基づき、警察官のようにわが物顔で正義を行使し、他者に警告を発するのです。

また政権批判の大合唱はあるが、自ら政権を担うだけの胆力のない野党やマスコミが、引きずりおろし民主主義に明け暮れ、混乱だけを引き起こしている。ナイムのいう熟練と知識の解体による「物事の単純化」は、わが国のばあい、ネット情報に左右されたトイレットペーパーの買い占めを引き起こしてしまう。人同士のつながり方、関係構築の手段がきわめて短時間で、気分的なものになっている。

自由と義務のジレンマ

ナイムの指摘した相対化と無秩序は、権力を拒絶し引きずりおろし、各人が絶対の自由を求めることに原因があります。

だとすれば、私たちが勘違いしているのは、人間には完全な自由が存在する、ということではないですか。豊かさ革命も、移動の自由も、意識革命も、要するに、「もっと欲しい!」という、自分が絶対的な自由を得られるという妄想です。それが収拾のつかない相対化を世界的規模でもたらしている。

しかし自由には必ず義務や拘束、すなわち制限が伴うはずです。実際、欧米諸国の多くは、この自由と義務のジレンマを、完璧なまでに演じて見せたのです。新型コロナウイルスの感染拡大を阻止するための「ロックダウン」、すなわち強制措置のことです。自由と民主主義を掲げ、中国の独裁体制を全体主義と呼んで非難していた欧米各国がロックダウンをした。

この措置は、みずからが掲げてきた理念を自己否定する内容をふくんでいます。なぜなら国家権力による商業活動の禁止と移動の禁止、歓楽街での遊興の禁止は、まさしくチィムのいう「3M革命」の即時停止を意味しているからです。

豊かさを求める活動、世界中を飛行機で移動すること、他人と比較し、より自由を求める意識、これらすべてを国家が統一的な権力に基づいて瞬く間に制限した。憲法にさえ明記されている、移動の自由を欧米諸国は奪った。その様子は、中国の独裁体制に近い道を通らねば、ウイルスによる破滅的な無秩序と混乱に対抗できないという事実を突きつけたのです。

ここには、自由と義務をめぐる高度な緊張関係がありました。欧米諸国のロックダウンには、「自由は無秩序にならない限りで保障されている」、という強いメッセージが込められていた。平時でないからこそ、自由とは何かという問いが頭在化したのです。

ところが、一方の日本はどうだったでしょうか。ここでもわが国は日本流のあいまいさで逃げ切ろうとした。よくも悪くも、自由とは何かが真剣に問われることはなかったのです。

プライバシーを絶叫する自由と、非常時に弱者が飯を食い、虐待を防ぐための「自由」がある。

私たちはいずれかを選択せねばならない。

そして結局のところ、自由と「自由」いずれを選ぶのかは、その国の国民の価値観、つまり文化や死生観に関わるものだと思うのです。

現在の日本国民は、非常時に多少の犠牲などお構いなく、弱者の困窮を見過ごしてもなお死守したいプライバシーを抱えているのでしょうか。あるいは逆に、私権の一部を供したとしても、身を寄せ合う四人家族が飯を食い、おもちゃを買い、泣き声ではなく笑い声が聞こえてくる光景の方を望むのか。

筆者自身は後者のような「自由」に基づく死生観をもった人間でありたいと思います。

すなわち、人間には「絶対的な自由」などありえないということ、自らが生きる時代と場所(国家)という制約を受け入れざるをえない、ということに私たちは気づくべきなのです。

 ◇

 先崎氏の『プライバシーを絶叫する自由と、非常時に弱者が飯を食い、虐待を防ぐための「自由」がある』と言う表現は言い得て妙だと思います。特にカギ括弧付きの「自由」は、平時慣れしている我々に問題を突きつけているようです。

 確かに自由には義務を伴います。そしてそれは緊急事態ほど重要になってきます。平時の自由を守るためにも、緊急事態下では国民としては自粛の義務、政府としては支援の義務があり、その支援の円滑運用のためにも、個人の私権の制限も必要だと思います。

 あの自由を超え高に叫んできたフランスやイギリス、そしてアメリカでも私権制限の最たるロックダウンを繰り返し実施しました。日本は緊急事態での対応は自粛要請だけで、周回遅れでした。その最大の要因は「プライバシーを絶叫する自由」の立役者、左翼メディアと野党だとつくづく思いました。 

 そして彼らは、自分たちの言論の自由は絶叫するのに、政府与党の言論の自由は封殺する、ダブスタの典型例です。そして今、その彼らの前で政府側は「前言撤回、陳謝」を繰り返しています。「何を言う、俺の言うことを聞けなければおまえが代わりに言ってみろ」という位の、腰の据わった政治家が政府与党にほしいですね。石原慎太郎氏が懐かしく思えます。

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2021年6月 6日 (日)

中共の毒牙に洗脳されたノーベル賞作家大江健三郎氏

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 ある人によれば、日本には日本をおとしめるための「奥の院」(仮称)という地下組織があるそうです。その「奥の院」、決して表には現れないが影で絶大な権力を持ち、反日勢力を操っているそうです。そこには当然多額の中共の地下マネーが流れ、反日メディアをも牛耳っているのでしょう。

 かつてのコミンテルンに端を発し、この日本を共産化し、戦中戦後にはソ連、そして現在は中共の属国としようと企む「奥の院」に、思想を同化・洗脳された数々の知識人たち、その先頭を走った一人に、かのノーベル賞作家大江健三郎氏がいます。

 原子力関連技術に詳しい物理学者の高田純氏が、その著書「脱原発は中共の罠」で、大江健三郎氏のノーベル賞作家にはほど遠い反日の奇行を述べていますので、以下に引用します。少し長いのですがご容赦を。

 ◇

81vmz7y3el ノーベル賞作家が中共の危険な水爆実験を絶賛する

東日本大震災が発生した2011年以来、「反原発」や「脱原発」感情を煽る集団がいる。その先導者の一人はノーベル文学賞の大江健三郎氏で、象徴的な「トロイの木馬」だ。

震災のあった平成3年6月に始まった「さようなら原発1000万人アクション」は、9人の呼びかけ人 = 内橋克人氏、大江健三郎氏、落合恵子氏、鎌田慧氏、坂本龍一氏、澤地久枝氏、瀬戸内寂聴氏、辻井喬氏、鶴見俊輔氏を担いだ、脱原発運動である。

一千万人署名市民の会の都内記者会見では「安倍新政権の原発を増設・再稼働させようとする行為は許せない」と主張。そして2013年1月10日に、大江氏は言った。

「原発に対して、憲法改悪に対してNOと言うには、デモンストレーションしかない」。

「脱原発」と「憲法改正」は全くの無関係である。それなのに、「憲法改悪にNO」とは支離滅裂ではないか。

彼は「脱原発」の先導者として適任者なのか、はなはだ疑問である。その理由は明快だ。

彼は昭和時代、1964年10月に始まった中共の核実験・核武装に対して、「核実験成功のキノコ雲を見守る中国の若い研究者や労働者の喜びの表情が、いかにも美しく感動的であった(『世界』67年9月号)と言った。その地は、中共に侵略された新疆ウイグルである。

中共の核武装はYESで、日本の核エネルギーの平和利用はNOとする大江氏の矛盾。

ならば、脱原発後の日本が核武装することに、大江氏は賛成するのか。さらに言えば、「さようなら原発」一千万人署名市民の会は、日本の核武装に賛成するのか。バカバカしい限りだ。

彼らの目標は、「日本文明の発展と国防強化を阻止することにある」。すなわち、反国益、反日行動である。こうした「市民」運動を大々的、好意的に取り上げるマスコミは、異常だ。「市民の声」は「国民の声」なのか。

大江氏が『世界』で中共の核実験を絶賛した年の6月17日、中共は2メガトン威力の大型水爆実験を強行した。そこは、ウイグル人たちが暮らす楼蘭遺跡周辺地域で、やってはいけない危ない地表核爆発だった。

地表核爆発は莫大な放射能を含む砂を広大な風下地域に降下させるので危ない。風下住民に致死リスクがある。中共は、この内陸で3回もメガトン級の地表核爆発を強行した。そのため、9万人以上が放射線で急性死亡したと推計されている。被害はこれ以上である。総核爆発回数46回、22メガトンは、広島核の1375倍だ。(『中国の核実験』)

米ソは危険回避のために、太平洋や北極海で、人口地域から100m以上も離して水爆実験場とした。

だから、内陸での中共の水爆実験は世界最悪の蛮行である。それを侵略したウイグル人たちの土地で強行した。北京から遠く離れた西方で爆発させた第一の理由は、危険を知っていたからである。

この中共の核武装に対する彼の感情は、平成になっても変わらなかった。それは、フランスと中共の両者の核実験に対しての反応に顕著に表れた。

1991年から96年までの核実験を両国で比べる。フランスが12回南太平洋で、他方、中共は9回ウイグル地区で行った。

フランスが核実験を始めると、彼は猛烈にフランス批判を始めた。フランス産のワインは飲まずに、カリフォルニア産ワインを飲むという写真が新聞で報じられたほどである。

一方で、彼は中共のウイグル地区での核実験にたいしては、完全に沈黙を続けたのだ。

一般人から見れば、大江氏の核に対する言動は明らかに矛盾している。

しかし、彼自身の嗜好は一貫している。彼は、中共が大好きだった。彼は、それを貫いている。だから、日本国内の中共大好き派の集団には人気がある。

大江氏はチャイナが好きなのではなく、共産主義のチャイナ(中共)が好きなのだ。そう解釈したほうが納得できる事実がある。彼が、建国間もない中共を旅行した際の言動が、その理解につながる。

1949(昭和24)年10月1日、毛沢東が北京の天安門の壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。ただし、内戦は終息していなかった。11月30日に重慶を陥落させて蒋介石深いる国民党政府を台湾島に追いやっても、翌年6月まで小規模な戦いが継続した。

建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、穏健で秩序ある改革が進められていた。しかし毛沢東は、1952年9月4日、突如として社会主義への移行を表明した。

その後、共産党に批判的な知識人層を排除した。非道な人民裁判による処刑や投獄だった。こうして、毛は、急進的に社会主義建設路線の完成をめざした。

1957年の反右派闘争で党内主導権を得た中央委員会主席の毛沢東は、1958年から1961年までの間、農業と工業の大増産政策である大躍進政策を発動した。

大量の鉄増産を試みたが、農村での人海戦術に頼る原始的な製造法のため、使えない大量の鉄くずができただけだった。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、農業も失敗した。

こうして大躍進政策は失敗し、数年間で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。

1960年5月20日より38日間にわたり、日本から6人の作家・評論家が、まだ国交のない中共を訪問した。その中に大江氏はいた。その時期は、まさに、暴走した共産党が打ち出した大躍進政策が発動された只中だった。

その印象記は、『写真 中国の顔』として、同年10月に出版された。それによると、日本文学代表団の中国訪問旅行は日本中国文化交流協会と中国人民外交協会の間に結ばれた「日中両国人民の文化交流に関する共同声明」に基づき行われた。中国人民対外文化協会、中国作家協会の招待であった。

この時代は、毛沢東が共産党中央委員会主席および中央軍事委員会主席を務める、

最高指導者の地位にあった。当然、この日本からの訪中団の物語全てが、毛の放った対日工作というお盆の上の出来事である。

日本訪問団は広州、北京、蘇州を順に訪れて、主に日本国内での日米安全保障条約(安保)反対闘争を詳しく伝えるために時間を費やした。

これに対して、「中国人民、労働者、農民、学者、文学者、政権の中枢にある人々から、熱烈な歓迎を受け、日本の安保反対闘争にたいして大きな支持を得た」という。

すなわち、日本訪問団は日米安保の反対闘争に関し、中共から熱烈な工作を現地で受けたのだった。これが、大江氏の中共大好きの源流になった。

帰国後に、日本で多くの写真を含む出版を企画する意向を中共側へ相談したが、合意され、積極的に協力を受けた。向こうからしてみれば、全てが工作なのだから当然である。

見て回るところ、会合も、全てが中共にお膳立てされている。だから、不都合な場面を、彼らが見ることはなかった。

そんなわけで、彼は、非道な権力闘争の粛清や投獄を見ることはなかったのではないか。あるいは、それらを感じながらも、革命の空想のなかで正当化したのではないか。

そうして、彼はこう言った。

「もっとも重要な印象は、この東洋の一部に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日に向かっているということであった」。

一員の野間宏氏も言う。

「1949年の開放以来大きな発展をつづけている中国は、1958年の『大躍進』以来、さらに大きく前進している。私達はこの中国のなかで日本と中国の結合という問題についてたえず考えていた」。

この意味は、日本が中共体制にのみ込まれることを指しているのであろう。とんでもない思考だ。帰国後の彼らは、中共の日本支部代表になっていたのではないか。そんな想像ができる怖い実話だ。

共産党独裁社会の現実の悲劇に目を向けず、彼らが空想する共産理想社会のメガネを通して、日本社会の変革を語っている。これこそが危険な木馬である。

中共中央委員会主席・毛沢東主導の権力闘争である「文化大革命」が1966年に始まり、1976年まで続いた。その間の虐殺は最大2000万人と推計されている。この文革は日本へも輸出された。日本語雑誌である『人民中国』、『北京周報』、『中国画報』や『毛沢東選集』などの出版物や北京放送などの国際放送で、対日世論工作の宣伝がなされた。日本国内での暴力革命事件と文革期間が完全に重なっている。

「天安門事件」は、1989年6月4日に勃発した。北京市にある天安門広場に学生たちを中心に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力で鎮圧し、多数の死傷者を出した。多数の戦車部隊の武力行使や、踏みつけられた死体の写真が世界中に報じられた。この弾圧で、数万人が殺されたとの推計がある。

その後、中共独裁の悲劇のいくつかは世界が報じた。天安門事件、チベット仏教の弾圧、南モンゴルの土地収奪、ウイグルでの核爆発災害、ウイグル人や法輪功など無実の囚人からの臓器狩りと移植ビジネスなどの暗部を、世界の大多数はそれとなく知っている。

当然、大江氏もその暗部の報道を知っているはずだ。にもかかわらず、1960年と1984年に訪中した。

さらに、天安門事件後の2000年9月、ノーベル賞作家となった彼は、中国社会科学院外国文学研究所の招きに応じ、北京を訪れた。

彼は、「今度の中国行きでは、若い世代の率直な意見を聞きたい。未来に向かうあなた方にとって、日本人は信頼に値するのか。アジア人にとって日本人は信頼に値するのかどうか。そして世界の人々にとって日本人は共に生きることのできる在なのか.…」と語っていた。

この気持ちは、香港の民主主義が死んだ2020年でも、大江氏の心にあるのだろうか。世界の大多数の人からすれば、中共は信頼されない存在だ。他国の発明を奪い、模倣品を製造する多数の工場。周辺国へ武力行使し、圧力をかける存在。尖閣諸島は中共のものだという。

武漢で発生した、さらに言えば、発生させた新型コロナウイルスの感染爆発の事実を隠蔽し、世界中にバイオハザードを巻き起こした張本人。

しかし、彼は中共が大好きだ。一般の人には理解不能の信念の作家は、間違いなく危険な「トロイの木馬」である。

 ◇

 大江健三郎氏は北朝鮮についても『地上の楽園』と称して礼賛していますし、根っからの反米、反日、反天皇制、つまり極左思想の持ち主であることは疑いのないところでしょう。彼がその呼びかけ人の一人となった『さようなら原発1000万人アクション』のメンバーには、そうそうたる人物が参加していますが、皆「奥の院」に洗脳された日本弱体化の中共の手先となった人たちです。

 私自身は原発を何が何でも今以上に推進する派には属しませんが、しかし一方折角設備があるのに、必要以上に厳しい規制を押しつけ、稼働停止状態を長く放置している現状には異を唱えます。少なくとも国産エネルギーをほとんど持たなく、かつ経済的にも長期低落状況の日本が、このような無駄を放置するのではなく、なんとか稼働に持って行くのが国や国民のためでしょう。

 原発反対者に申し上げたい。原発を止めている間に垂れ流す原油や天然ガスの輸入費用をどこから出すのか。反対者がそれを補填するのか。いずれにしろ反日左翼の人たちは、日本を弱体化することにばかり力を注いでいるとしか思えません。もちろんそれは中共の狙いの一つでしょうが。

 歴史を振り返れば、GHQがもたらした戦後日本の左傾化。もちろん占領途中でソ連の台頭、中共の勃興、朝鮮戦争勃発等により、共産化の脅威に気づいたマッカーサーは、レッドパージで共産党を地下に追いやりますが、大学やメディア、言論界、組合等に根付いた共産主義思想はしぶとく残り続け、今も一定の存在感を示しています。

 彼らの大きな目的の一つは日本の防衛力、抑止力の拡大阻止、そのための憲法改正阻止です。未だに戦前の軍国主義を持ち出し、軍アレルギーをばらまいています。

 そして大学、左翼メディア、日本学術会議、日本弁護士連盟等々、彼らの巣窟で日本弱体化を狙っています。それはまさしく中共の意図するところ。彼らを糾弾することが中共から日本を守り、日本の未来を思う我々の最大の課題だと強く感じます。

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2019年10月29日 (火)

基本的人権と義務は表裏一体だ

Dobfumsuuaaohs7   今回は山学院大学教授福井義高氏のコラム「基本的人権と義務は表裏一体だ」(正論10/25)を取り上げます。

 ≪誰かの権利は他の人の義務≫

 昨今、なんでもかんでも基本的人権であるという風潮が広がっている。しかし、自らの要求を通すための単なるレトリックではないとしたら、人権すなわち人間の権利の拡大は、人間の義務の拡大を意味することが十分理解されていない。

 権利行使には義務あるいは責任が伴うという、ありふれた主張を繰り返したいわけではない。

 ここで議論の出発点としたいのは、日本の法学界にも大きな影響を与えたオーストリア出身の法哲学者ハンス・ケルゼンの「純粋法学」の前提でもある、誰かの権利はそれ以外の人の義務であるという、権利と義務の論理的関係である。

 たとえば、表現の自由すなわち自分が思うところを好きなように表現する権利は、この表現行為を邪魔してはならないという義務を他人に課している。また、健康で文化的な生活を営む権利は、こうした生活が送れるよう支援する義務を他人に課している。

 この文字通り、権利と義務が表裏一体となった関係は、賛否両論あり得る権利行使責任論とは異なり、どんな場合も成り立つ論理的必然である。

 したがって、米国の哲学者ジョン・サールが指摘しているように、基本的な人間の権利があるとすれば、当然、「基本的人義」とでもいうべき、それに対応する基本的な人間の義務が存在する。

 権利の拡大は、同時に義務の拡大をもたらすことで、我々の自由を制約し、耐え難い状況を引き起こしかねない。それでも、我々が人間として義務を負わねばならない基本的人権があるとしたら、どのようなものがそれにあたるのであろうか。

 ≪消極的義務と積極的義務≫

 義務にはふたつのタイプがある。ひとつは、他人が権利を行使する際、それを邪魔してはならないという消極的義務。もうひとつは、他人の権利行使に対応して、なんらかの行動を強いられる積極的義務である。

 人間として生まれた以上、自らの幸福を自由に追求することにお互い最大限の考慮を払いあうべきであろう。したがって、他人に消極的義務を課すだけの、表現の自由、身体の自由、結社の自由などは、まさしく基本的人権といってよい。

 表現の自由の場合、映画館で偽って「火事だ」と叫ぶことや名誉毀損(きそん)にあたる場合などを除けば、その内容の制限には極力慎重でなければならない。

 表現の自由を最重要視する米国では、言語学者ノーム・チョムスキーをはじめ、リベラルの間でもヘイトスピーチ規制反対の声は根強く、実際、法律で規制されていない。「ことばの暴力」というけれども、他人に石を投げつけるのと不愉快な言葉を投げつけるのは異質の行為である。

 好きなものを食べる自由と異なり、なぜ好きなことを表現する自由が基本的人権として強調されるのか。それは、食べる自由が侵害される危険性はまずない一方、表現する自由が侵害される危険性は常に存在するからである。

 一方、積極的義務を他人に課す基本的人権を想定することは難しい。積極的義務を果たすには、おカネがかかる。国家の義務と言ったところで、国家は打ち出の小槌(づち)ではなく、個人から強制的に徴収した税金を配分しているにすぎない。

 たとえば、健康で文化的な生活を営む権利が基本的人権だとすれば、日本国民に限定されず、日本在住か否かを問わず人間であれば誰でも行使できることになる。その財政負担は耐えがたいというより不可能である。

 ≪おカネが必要な権利は≫

 積極的義務すなわち、おカネが必要な権利は、人間ではなく日本国民としての権利に限られるというしかない。もちろん、たとえば外国人を生活保護の対象にするなといっているわけではない。しかし、それは外国人にとって権利ではなく政策的配慮である。

 そもそも税金は少ない方が望ましいし、有無を言わさず集められた税金の使い道に関しては、民意が反映されなければならない。国民としての権利であっても、積極的義務が必要なものには、抑制的であることが求められる。

20190927023605  愛知県の芸術祭「あいちトリエンナーレ」の展示に関して言えば、有志が民間施設で開催するのであれば、たとえその内容が多くの人にとって不愉快なものであっても、許容する義務がある。

 ただし、表現の自由という基本的人権が要求するのは、気に食わなくとも好きにさせるというところまでである。

 それ以上の義務を他人に課すものではなく、支援しないからといって基本的人権を侵害したことにはならない。

 芸術(と称するもの)への支援は、基本的人権の問題ではない。民意に沿って、何にいくら税金を投入するか、最終的には議会の承認を得て、行政が決めるべき政策の順位づけの問題である。

 福井義孝氏のこのコラムは権利ばかり主張して義務を果たしていない人に対して痛烈なパンチを与えます。ただし認識していればの話ですが。

 以前から社会福祉などのサービス向上を高らかに謳う野党議員が、その財源に対して語らないのはおかしいと思っていたのですが、財源のもとになる税金を納める「義務」を訴えることによる、国民へのマイナスイメージを被りたくないからでしょう。

 そして左翼界隈の「あいちトリエンナーレ」への公金投入中止に関する単純な反対論も、氏の見解から言えば簡単に封殺できるでしょう。

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2019年10月14日 (月)

「表現の不自由展」とか言っている場合か

Bn_aojc  今回は銀座の画廊<秋華洞>社長ブログより、田中千秋氏の『「表現の不自由」とか言っている場合でしょうか』(10/11)を取り上げます。田中氏は美術商の立場から「表現の不自由展」を痛烈に批判しています。

 僕は今回あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」の騒動は対岸の火事、ということにしておこう、と思っていました。およそ美術の畑とは関係ない人たちがちょっとオツムのネジがずれてしまった愛知県のごく一部の人たちと組んで起きてしまった、不幸な事件で、美術業界とはなんの関係もない、と、思っておきたかったからです。

 その根本の問題は津田大介さんのような全く美術に対して不見識な人物を芸術監督として迎えてしまう、愛知県の芸術への関心の無さだと思っておりました。

 ただ、東京大学有志、芸大有志、現代美術画廊の数名など、文化庁の予算執行停止に対して連名で異を唱える人々が出てきたことで、どうもこれは私達美術業界を巻き込む事象となり、彼らの圧倒的な問題意識の低さに直面して、少しは自分の意見を出しておく必要にも駆られました。

 まず、最初に言っておくべきことは、今回の事件は「表現の自由」とはなんの関係もないことです。今回は「表現の自由」という言葉を隠れ蓑にした反日プロパガンダであるという事実をまず指摘しなければ議論は始まらないでしょう。その嘘を朝日新聞自らが吐露した「慰安婦」の物語を元とした「反日有理」のシンボル「少女像」を始め、天皇の肖像を燃やして踏みつける展示、特攻隊で亡くなられた方を揶揄する展示など、「自由」とはなにかを真面目に問う内容とは程遠いことはすでに御存知の通りです。

 ところが、予算を執行停止した行政も、それに反論する側も、これはなんの戦略か、その中身に触れず、手続き論に終止しています。両者は「大人の対応」と言うべきでしょうか。僕には、本質を議論するのを避け、マスコミに切り取りの報道を許す態度と思えます。

Images-8_20191014154401  ここで、問題の層はいくつかありますが、大きくは2つでしょう。

 第一は、上記の内容が単なる政治的な偏見によるもので、芸術とは何ら関係がないことです。特に、天皇像を焼く、特攻隊を愚弄する、という作品を見たある女性は、涙が出て止まらなかったそうですが、同じことを別の国でやれば即座に殺されてしまうような国民の根源的な怒りを招くものでもあり、最低でも国家侮辱罪で捕まることでしょう。温厚な日本人に甘えた、たるみきった展示です。

 第二の問題は、実は今回の展示は、事前に予算申請する際には伝えなかった反日的内容をゲリラ的に展示してしまったことです。有名な東・津田の動画など傍証材料も出揃っています。この意味で大村愛知県知事と津田監督は、予算をだまし取ったことになり、実は刑事罰が適用されるべき案件でもあります。

 これらの根の深い問題があるにもかかわらず、擁護にまわった有識者は、実は個人できちんと論拠を述べた方が少ない。東京画廊の山本さんには直接説明していただきましたが、残念ながら納得はしておりません。小山登美夫さんもどういうつもりで文化庁を責めているのか。不見識を感じざるを得ません。この展示に参加しているチンポムのエリーさんもなにか意見を述べているようですが、やはり本質から逃げています。(ぼくはChim♂Pomの過剰でセンセーショナルな数々の表現についてはむしろ面白く見てますし、今回の「放射能」の展示について、必ずしも否定的には捉えていませんが、予算に関する彼女の発言は、正鵠を得たものとは思いません。)

 僕が個人的に好きな山猫日記の三浦瑠麗さんも執行停止に反対していますが、その論理は私には理解できません。

 文化庁の予算停止が「不自由展」充当分だけでなく、全体であったことは、論点になりうるでしょう。ですが、上記の2つの問題は、予算停止どころか、強い処罰をするべき根深い問題を含んでいます。

 今回の大村知事は、リコールどころか、「予算騙し取り」で塀の向こうに落ちる可能性さえあると思いますが、東大芸大現代美術の各有識者の皆さんは、犯罪擁護とも思える態度を今後も貫くおつもりでしょうか。

「表現の自由」を擁護することじたいは、僕ももちろんやぶさかではありません。政治的なネタも、エログロも、僕の画廊では大いにやっていきたいし、他の画廊のみなさんも様々挑戦していただきたい。

 ですが、国家の根幹、個人の誇りを徹底して傷付ける今回の企画は、放置すれば国家の存立そのものを危うくするものでさえあると私は思います。「国」というものへの帰属意識は、共通の物語がなせること。日本人は、その物語の大きな部分を天皇のご存在によってきました。これは、古くからの日本美術を扱っていると、自ずと気付かされることです。美術活動、表現の自由を私達が行使できるのは、安定した国家の基盤があってこそです。その基盤そのものの破壊を試みる今回の企画は「表現の自由」の基盤を破壊するものです。

 今回の企画を、税金を投入する場所でやるのがとんでもない、というのが巷でよく言われていることです。もし「騙して」やっていなかったとしても、なおこの問題が残ります。「一般の画廊でやればよい」とも言われますね。

 ところがどっこい、画廊の立場でいえば、『一般の画廊』でやるのもとんでもない。我々コマーシャルギャラリーでも、貸画廊でも、展示には画廊主の責任とポリシーが問われます。それはブランド価値になるのです。

 なんども言うように、僕の画廊ではエロもグロも政治も、やりたいと思っています。ですが、そこにはバランス感覚やセンスが必要です。いらした方を楽しませる工夫と、ウイットが必要です。すこし過激な展示なら、それを相対化して冷静に見られるような仕掛けが必要です。あのようなひたすらに日本人の歴史を踏みにじるような作品をやる画廊があれば、それは勝手かもしれませんが、多くの人に軽蔑される覚悟も必要でしょう。

 じっさいのところ、「画廊」でもやるべき展示ではないと思います。画廊だって公器なのです。

 今回の愛知の展示には軽蔑される覚悟さえ感じられない。ベタベタに世間に甘えきった大村さんと津田さん、そして愚かなる参謀としての東浩紀さんの覚悟のないのんべんだらりとした反日ごっこ。

Images-3_20191014153701  しかも反対するこの展示のナンバー2、河村たかし名古屋市長の制止も振り切っての展示再開は、常軌を逸しています。

 こんなものをもって「表現の自由」を語られたら、表現の自由が泣きます。表現の自由を切り開いてきた先人たちも泣くことでしょう。自由な表現への弾圧が「死」を意味する、いくつかの国で、どうぞ覚悟を持っておやりください。あるいは「表現の自由」のメッカとも思われるアメリカで、星条旗やワシントン・キリストの肖像を燃やす展示をしてご覧なさい。何が起きるのか。

 国が維持され、発展してこそ、私達が自由に活動できるのです。その原点を忘れて、今もなお文化庁に抗議する不見識で顔の見えない人たちすべてに言いたいです。あなたたちこそ、表現の自由の敵だ。

 田中氏のご意見に全面的に賛同します。芸術でも何でもない、ただ単に日本の伝統をぶち壊し、国体をも揺るがそうという意図を持った、政治的色彩一色のこの展示会、それを表現の自由を楯に開催しようなどとたくらむのは、朝日や極左活動家など反日親中親朝鮮の一団であることは明らかでしょう。

 補助金の交付はもとより、田中氏の言うように開催そのものが許されない展示会です。日本だからこそ開催されてしまっていますが、親中親朝鮮の知識人は親しみのあるそれらの国で同様な展示会が開かれたら、開催関係者はどうなるか少しは考えたことがあるのでしょうか。本当に甘え切った集団ですね。

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2019年10月11日 (金)

「表現の不自由展」はヘイトそのものだ

2154064  今回は8月1日に開催され様々な物議を醸しだしたあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」に関する、作家でジャーナリストの門田隆将氏によるコラム『「表現の不自由展」はヘイトそのものだ』を取り上げます。このコラムは不自由展が中止になる前日の模様を描いたものです。

「表現の不自由展」初の実体験レポート!月刊『Hanada』2019年10月号(完売御礼!)に掲載され、大反響を呼んだ門田隆将氏のルポを特別に全文公開!本日の午後、「表現の不自由展・その後」が再開されましたが、門田隆将氏のルポは8月3日、つまりは中止になる前日の模様を描いた希少な体験記です。

 8月3日午前11時、私は名古屋市東区の愛知芸術文化センタービル10階の愛知県美術館チケット売り場に並んでいた。

 この日の名古屋は最高気温34.8度が示すように朝からぐんぐんと温度計の目盛りが上昇。汗がねっとりと首にまとわりつく典型的な熱暑の1日だった。

 広い吹き抜けの空間は冷房があまり効いておらず、汗が滲む中、チケット売り場には、200人近くが並んでいた。

 だが、窓口には職員が2人しかいない。緩慢な切符の売り方に、列は時間が経つごとに長くなっていった。窓口の2人も、やがて片方が消え、1人だけの販売になる。あまりのサービス精神の欠如に、私は近くの職員に「この長蛇の列が目に入りませんか?なぜ売り場に1人だけなんですか。おかしいと思いませんか」と言った。

 しかし、職員は「申し訳ありません」というだけで何もしない。私は同じフレーズをこの入口だけで別々の職員に3回も言う羽目になる。

 しかも、チケットをやっと買って中に入っても「順路」の案内がない。仕方がないので左側に歩を進めたら「順路はあっちです」と職員に注意されてしまった。順路を示す印も出さないまま「順路はあっちです」と平然と言う職員。これほど観覧者をバカにした芸術祭も珍しい。

(ああ、きっと県の職員がやっているんだろう)

 私は、観る側のことを全く考慮に入れていない様子に、公務員なら「さもありなん」と勝手に解釈した。職員のレベルの低さ――まず、それが私の最初の印象だ。

SNS投稿禁止という矛盾

 芸術祭のテーマは「情の時代」である。パンフレットには〈「情の時代」とは、いかなるものでしょうか。そこではきっと、私たちの習慣的な知覚を揺さぶる視点、例えば、動物の視点、子供の視点、いま・ここから遠く離れた「誰か」の視点などが盛り込まれることでしょう〉とある。何が言いたいのかよくわからない文章だが、芸術祭にはままあることだ。

 私は、まず10階の展示をひとまわりした。この手の作品は、作家の意図が伝わるものと、そうでないものとが明確に分かれる。いったい何を表したいのだろう、という作品もあれば、ストレートに心に飛び込んでくるものもあった。ひと通り10階の観覧を終えた私は、いよいよ「表現の不自由展・その後」の会場がある8階に向かった。

 同展示は、日本国内の美術館やイベント等で撤去や公開中止になった作品ばかり20点以上を集めた企画である。すでに公開中止になったものを集めて展示するのだから、「あいちトリエンナーレ」にとって当然、覚悟の催しということになる。私も、「いったいどんなものなのか」と興味が湧いた。

 8階には長い列ができている場所があり、すぐに「あそこか」とわかった。近づくと職員が「待ち時間は1時間ほどです」と叫んでいる。まさか1時間も? そう思いながら列に並んだ。

 すでに100人以上が並んでおり、人々の関心の高さが窺えた。やがて30分ほどで会場の入口に来た。意外に早い。

「展示品の写真撮影は結構です。ただし、SNS(ソーシャルネットワーク)への使用はお断りしています」

 観覧にあたっての注意事項をスタッフが1人ひとりに伝えている。また、そのことを書いた「撮影写真・動画のSNS投稿禁止」という注意書きが入口手前に掲示されていた。どうやら「表現の不自由展」には、観る側も「不自由」が強制されるものらしい。そういう不自由さについて訴えるはずの展示なのに、「自己矛盾」に気づかないところが主催者のレベルを物語っている気がした。

昭和天皇の顔を損壊

 入口には、白いカーテンがかかっている。めくって中へ入ると、幅2メートルもない狭い通路に、ぎっしり人がいた。左右の壁に作品が展示されており、それを人々が食い入るように見つめている。

 手前の右側には、いきなり、昭和天皇を髑髏が見つめている版画があった。最初から“メッセージ性”全開だ。

 反対の左側に目を向けると、こっちは昭和天皇の顔がくり抜かれた作品が壁に掛けられている。背景には大きく×が描かれ、正装した昭和天皇の顔を損壊した銅版画だ。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への剥き出しの憎悪がひしひしと伝わってくる。

(……)

 皆、無言で観ている。声を上げる者は1人もいない。私も言葉を失っていた。

 その先には、モニターがあり、前にはこれまた「無言の人だかり」ができている。

 やはり昭和天皇がモチーフだ。昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれ、燃え上がっていくシーンが映し出される。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がる。

 次第に焼かれていく昭和天皇の肖像。すべてが焼かれ、やがて燃えかすが足で踏みつけられる。強烈な映像だ。作者の昭和天皇へのヘイト(憎悪)がストレートに伝わる。

 よほど昭和天皇に恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで私は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉だった。

 画面は切り替わり、若い日本の女性が、母親への手紙を読み上げるシーンとなる。

「明日、インパールに従軍看護婦として出立します」

「私の身に何が起こっても、お国のために頑張ったと誉めてくださいね」

 そんな台詞を彼女は口にする。インパール作戦は、昭和19年3月から始まった補給もないまま2,000メートル級のアラカン山脈を踏破する過酷な作戦だ。とても看護婦が同行できるようなものではない。

 私自身が拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ第2部の「陸軍玉砕編」で、この作戦の生き残りに直接取材し、飢餓に陥って数万の戦死・餓死者を出し、白骨街道と化した凄まじいありさまをノンフィクションで描いている。おそらくこの映像作品は真実の歴史など“二の次”なのだろう。

 やがて、海岸の砂浜にドラム缶が置かれた場面となり、そのドラム缶が爆発し、宙に舞う。まったく意味不明だ。

 私の頭には、「自己満足」という言葉も浮かんできた。これをつくり、展示してもらうことで作者は溜飲を下げ、きっと自らの「創造性(?)」を満足させたのだろう。

 しかし、私には、取材させてもらった老兵たち、つまり多くの戦友を失った元兵士たちがどんな思いでこれを観るだろうか、ということが頭に浮かんだ。そして一般の日本人は、これを観て何を感じるだろうか、と。

 当時の若者は日本の未来を信じ、そのために尊い命を捧げた。私たち後世の人間が、2度とあの惨禍をくり返さない意味でもその先人の無念を語り継ぐことは大切だ。少なくとも私はそういう思いで10冊を超える戦争ノンフィクションを書いてきた。

3_20191011164401 怒号が起こった少女像前

 少女像が展示されているのは、この作品群の先である。通路を出て広い空間に出たら、そこにはテントのような作品がまん中に置かれ、左奥に少女像があった。

 少女像を人が取り囲んでいる。いきなり、

「やめてください」

「なぜですか!」

 そんな怒号が響いてきた。観覧者の1人が少女像の隣の椅子に座り、紙袋をかぶっている。どうやら、その紙袋を少女像にもかぶせようとしたらしい。

 それを阻止されたようだ。少女像のある床には、〈あなたも作品に参加できます。隣に座ってみてください。手で触れてみてください。一緒に写真も撮ってみてください。平和への意思を広めることを願います〉という作者の呼びかけがあり、それを受けて隣の席に座ろうとする人間もそれなりにいるようだ。

「やめてください」と叫んだ人は、どうやら展示の案内人らしい。観覧している人から質問をされたら答え、抗議されたら、それに応えるためにここにいるようだ。ご苦労なことだ。なかには過激な抗議をする人もいるだろう。いちいちこれに対応するのは大変だ。

 少女像と一緒に写真を撮りたい人がいれば、この人はシャッターも押してあげていた。この日、美術館で最も大変な“業務”に就いていた人は間違いなくこの人物である。

 怒号はすぐに収まり、何事もなかったような空間に戻った。

少女像の解説文に「性奴隷」

 日本人はおとなしい。ひどい作品だと思っても、ほとんどが抗議をするでもなく、無言で観ていた。その代わり、ひっきりなしにカメラやスマホのシャッター音が響いている。

 少女像自体は、どうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。その横にはミニチュアサイズの少女像も展示されていた。さらにその左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。

 私は少女像の説明書きを読んでみた。〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館前で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。

 英語の解説文には、「SexualSlavery」(性奴隷制)という言葉が見てとれた。「性奴隷」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されていた。日本の公式見解とは明らかに異なるものであり、これらの説明には2つの点で「虚偽」があった。

 まず、慰安婦は「性奴隷」ではない。あの貧困の時代に春を鬻ぐ商売についた女性たちだ。当時の朝鮮の新聞には〈慰安婦募集 月収三百圓以上勤務先 後方〇〇部隊慰安所 委細面談〉などという新聞広告が出ていたように、上等兵の給料およそ十圓の時代にその「30倍以上」の収入を保証されて集まった女性たちである。彼女たちの収入は、当時の軍司令官の給与をはるかに凌駕していた。

 恵まれた収入面については、さまざまなエピソードがあるが、ここでは触れない。ともかく慰安所(「P屋」と呼ばれた)には、日本人女性が約4割、朝鮮人女性が約2割、残りは……という具合に、あくまで中心は日本の女性たちだった。ちなみに日本人女性で慰安婦として名乗り出たり、補償を求めた者は1人もいない。

 もちろん喜んで慰安婦になった女性は少ないだろうと思う。貧困の中、さまざまな事情を抱えて、お金のために慰安婦の募集に応じざるを得なかったのだろう。私たち日本人は大いに彼女たち慰安婦の身の上に同情するし、その幸せ薄かった人生に思いを致し、実際に日本は代々の首相が謝罪し、財団もつくり、その気持ちを談話として伝えてきている。

朝日と韓国が虚偽の歴史を

 しかし、朝日新聞や韓国は、これを日本軍や日本の官憲が無理やり「強制連行した女性たち」であるという“虚偽の歴史”を創り上げた。韓国は世界中に慰安婦像なるものを建て、性奴隷を弄んだ国民として日本人の名誉を汚し続けている。私たちは、この虚偽を認めるわけにはいかない。

 まして「少女が性奴隷になった」などという、さらなる虚構を韓国が主張するなら、それはもう論外だ。そして、目の前の少女像は、その「虚偽」を世界中に流布させることを目的とするものである。日本人は少女像が虚偽の歴史を広めるものであることを知っており、少女像の存在は間違いなく「両国の分断」をより深くするものと言える。

 しかし、韓国がどこまでもこの虚構にこだわるなら、もはや両国に「友好」などという概念など、未来永劫生まれるはずはない。

 軍需工場などに勤労動員された「女子挺身隊」を慰安婦と混同した朝日新聞の大誤報から始まった虚構がここまで韓国の人々を誤らせたことに、私は両国の不幸を感じる。それと共に同じ日本のジャーナリズムの人間として朝日新聞のことを本当に腹立たしく、また悔しく思う。

不快極まる作品群

 私は、少女像の前に展示されていた作品にも首を傾げた。「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」と題されたその作品はテントのようなかまくら形の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法九条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉などをベタベタと貼りつけ、底部には米国の星条旗を敷いた作品だった。

 idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」 「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の人々の「お墓」を表すものなのだろう。日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上にこのタイトルなので、少なくとも戦死した先人たちへの侮蔑を含む作品のように私には感じられた。

 どの作品も「反日」という統一テーマで括られた展示だった。会場の壁には「表現の不自由をめぐる年表」も掲げられていたが、「表現の不自由」といえば、チャタレー事件に始まり、四畳半襖の下張事件、日活ロマンポルノ事件をはじめ、ポルノやヘアをめぐって当局との激しい闘いの歴史が日本には存在する。

 私は、これらが「なぜ無視されているのか」を考えた。つまり、展示はあくまで政治的な主張が目的なのであって、純粋な「表現の自由」をめぐる訴えなどは考慮にないのではないか、と感じたのである。

 あいちトリエンナーレは、日本人の税金が10億円も投入され、公の施設で開かれる「公共のイベント」だ。そんな場所で、わざわざ他国が主張する「虚偽の歴史」のアピールをする意味は何だろうか。それを許す責任者、つまり大村秀章・愛知県知事は余程の「愚か者」か、あるいはその韓国の主張に確固として「同調する人物」のどちらかなのだろう。

 私は、こんな人物が愛知県知事という重責を担っていることに疑問を持つ1人だが、首長を選ぶのは、その地域の人たちの役割なので、私などがとやかく言う話ではない。

 私は、試しに韓国や中国へ行って同じことをやってみたらどうだろうか、と想像した。たとえば韓国人の税金が投入された芸術祭で、何代か前の大統領の肖像をバーナーで焼き、その燃えかすを思いっきり踏みつけてみる。そして、その大統領の顔を損壊し、剥落させた銅版画を展示してみる。韓国人はどんな反応を示すだろうか。

 また中国へ行って、中国共産党の公金が支出された芸術祭で、同じように毛沢東の肖像をバーナーで燃やしてみる……。どんな事態になるかは容易に想像がつく。作者は、おそらく表現の自由というものは、決して「無制限」なものではなく、一定の「節度」と「常識」というものが必要であることに気づかされるのではないか。イスラム社会で仮にこれをやったら、おそらく命が断たれるだろう。逆に私は「日本はいかに幸せか」をこの展示で感じることができた。

 しかし、日本人にとって国民統合の象徴である昭和天皇がここまで貶められるのはどうだろうかと思わざるを得ない。昭和天皇、そして昭和天皇のご家族にとどまらず、自分たち日本人そのものの「心」と「尊厳」が踏みにじられる思いがするのではないだろうか。つまり、これらは、間違いなく日本人全体への憎悪(ヘイト)を表現した作品なのである。

 もし、これを「芸術だ」と言い張る人には、本物のアーティストたちが怒るのではないか、と私は思った。「あなたは芸術家ではない。偏った思想を持った、ただの政治活動家だよ」と。

 それは昭和天皇を憎悪しない普通の観覧者にとっては、ただ「不快」というほかない作品群だった。少なくとも、多くの日本人の心を踏みにじるこんなものが「アート」であるはずはない。作者が日本人に対するヘイトをぶつけただけの展示物だと私には思えた

支離滅裂の大村知事

 私が会場を去って間もなくの午後5時。同センターで緊急記者会見した大村秀章・愛知県知事は、

「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況だ」

と語り、突如、展示中止を発表した。芸術祭事務局に「美術館にガソリン携行缶を持って行く」との脅迫のファックスがあり、安全が保てないことを理由に「中止を決めた」という。開幕からわずか3日。信じがたい展開だった。

 それは「あってはならないこと」である。「表現の自由」を標榜して展示をおこなっているなら、どんなことがあっても脅迫や暴力に「負けてはならない」からだ。まして大村氏は愛知県知事だ。愛知県警を大動員してでも、「暴力には決して屈しない」姿勢を毅然と示さなければならない立場である。

 一方で私には「ああ、逃げたな」という思いがこみ上げた。あの展示物を見れば、常識のある大人ならこれに税金を投じることの理不尽さを感じ、非難がますます大きくなることはわかる。それを察知した大村知事は、テロの危険性をことさら強調し、自分たちを「被害者の立場」に置いた上で“遁走”したのだろう。

 その証拠に四日後、実際にファックスを送った当の脅迫犯が逮捕されても大村知事は展示再開を拒否した。

 芸術祭の実行委員長代理である名古屋市の河村たかし市長はこの展示を知らず、慌てて観覧した後、

「少女像の設置は韓国側の主張を認めたことを意味する。日本の主張とは明らかに違う。やめればすむという問題ではない」

と大村知事と激しく対立した。これに対して大村知事は、

「(河村氏の)発言は憲法違反の疑いが極めて濃厚。憲法21条には、“集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない”と書いてある。公権力を持っているからこそ、表現の自由は保障しなければならない。公権力を行使される方が、この内容はいい、悪いと言うのは、憲法21条のいう検閲と取られても仕方がない。そのことは自覚されたほうがいい」

と反撃。だが、憲法12条には、「表現の自由」などの憲法上の権利は濫用されてはならないとして、〈常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ〉と記されている。表現の自由をあたかも「無制限」であるかのように思い込んでいる大村知事の認識の甘さは明白だった。

真実を報じないマスコミ

 もうひとつの問題点は、報道のあり方だ。産経新聞やフジテレビを除くマスコミは、少女像のことばかりを報道し、昭和天皇の肖像焼却や顔の損壊などのヘイト作品について一切、触れなかった。ただ「表現の自由が圧殺される日本」という報道に終始したのである。

 もし、展示中止が妥当なほど作品がひどいものだったら、そもそも自分たちの論理は成り立たなくなる。そのため少女像だけの問題に矮小化し、いかに日本では「表現の自由」が風前の灯であるかという報じ方に徹したのだ。

 真実を報じず、自分の論理展開に都合のいいものだけを取り上げるのは、日本のマスコミの特徴だ。

 8月4日の朝日新聞の天声人語では、〈75日間公開されるはずだったのに、わずか3日で閉じられたのは残念でならない▼ある時は官憲による検閲や批判、ある時は抗議や脅し。表現の自由はあっけなく後退してしまう。価値観の違いを実感させ、議論を生みだす芸術作品は、私たちがいま何より大切にすべきものではないか〉と主張し、8月6日付の記事では、〈表現の不自由展 政治家中止要請 憲法21条違反か 応酬〉〈永田町からも危惧する声「政府万歳しか出せなくなる」〉と、展示物の詳細は伝えないまま大村知事を全面支援した。

 だが、ネットではいち早く作品群の詳細が伝えられ、芸術監督を務めた津田大介氏と企画アドバイザーの東浩紀氏が昭和天皇の肖像を焼却する作品が展示されることを笑いながら話す動画など、さまざまな情報が炙り出されていった。

 今回も新聞とテレビだけを観る層とネットを観る層との著しい情報量の乖離が明らかになった。いま日本は情報面において完全に「二分」されている。

 ネットを駆使する人たちはマスコミが隠す情報さえ容易に手に入れることができ、一方では、偏った主義主張を持つメディアにいいように誘導される人たちがいる。そこには、大きな、そして根本的なギャップが存在しているのである。

 今回の出来事は、「芸術である」と主張さえすれば何でも通ってしまうのか、極めて偏った政治主張によるヘイト行為もすべて認められるものなのか、という実にシンプルな問題と言える。同時に、韓国への批判は「ヘイト」、日本を貶めるものは「表現の自由」という倒錯したマスコミの論理に国民が「ノー」を突きつけたものでもあった。

 一部の反日、反皇室、親韓勢力による公的芸術祭の乗っ取りとも言える行為は、こうして途中で頓挫した。そして、日本のマスコミの「あり得ない姿」も露わになった。

 今回の出来事を通じて、私たち日本人は日本の“内なる敵”マスコミと、特異な主張を展開する一部政治勢力への「警戒」と「監視」を疎かにしてはならないことを改めて学ばせてもらったのである。

Images-3_20191011164501  公金を使ってまで、天皇をあからさまに批判・侮蔑し、加えて慰安婦問題の政府見解を否定し韓国側見解を肯定する、こんな展示会を開催するなど正気の沙汰ではないと思います。

 今月から再開されたようですが、文化庁からの補助金は全額不交付と言う決定のようです。当たり前の処置だと思いますが、またぞろ左側からは「実質的な検閲だ」との批判が出ています。

 毎日新聞の社説では「今回の企画展で抗議の対象になったのは、元従軍慰安婦を象徴する少女像や、昭和天皇の肖像を素材とした作品だ。政治性の高い作品を公共の空間でどう見せるか。これを機に議論を深めたい。」などと記述しています。

 そもそも政治性と言っても完全に一方向、「反日」の立場での展示であり、しかも天皇の肖像を燃やす動画などは「日本国民の統合の象徴」を汚す行為だという認識があるのかどうか非常に疑問です。完全に狂った論調を繰り返す日本の左派系新聞、これらメディアの罪も重いと言わざるを得ません。

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2019年9月18日 (水)

反捕鯨というファシズム

Img_d1b4af2a00541daa2e613cf5f4a533191761 今回は韓国の話題を離れて、先日国際捕鯨委員会(IWC)から脱退した日本が、商業捕鯨を再開したことにちなみ、産経新聞文化部の桑原聡氏のコラム「反捕鯨というファシズム」(JAPANForward)を取り上げます。この脱退劇は韓国への輸出管理強化とともに、日本の今までの主体性のないお人好し外交を打破する、一つの象徴として見てもいいものと考えます。

◇ 

 民主主義国家とそこに暮らす人々の共通の敵とは、左右の全体主義ではないか。この敵と戦うために、知恵を絞り、手を取り合うことが何よりも求められるのに、クジラをめぐっては民主主義国家のリーダーと目される国々と国民が、率先して全体主義に傾き、自分たちの意に沿わぬ国々に圧力をかけている。

 人間は地球環境の一部であり、環境を破壊すれば、いずれ人間も滅亡する。本能を失い理性に支配されるようになった人間は、産業革命以降、利益に目がくらみ、再生不能になるレベルの環境破壊をやってきた。動物にしろ植物にしろ、これまでにいくつの種を絶滅させてきたことか。こうした反省を踏まえ、地球環境保護のため世界レベルで議論し協調しようと、さまざまな国際機関が設立された。第二次世界大戦後に設立された国際捕鯨委員会(IWC)もその一つだ。

 クジラ資源の持続的利用と捕鯨産業の秩序ある発展を図ることを目的に捕鯨国を中心に設立されたものの、いつのまにやら、それが反捕鯨国に牛耳られ、一頭たりともクジラを捕獲すべきでないという主張がまかり通るようになった。

 絶滅の可能性があるクジラの捕獲を禁ずるのは当然だ。しかし、ミンククジラのように絶滅の危機を抜けたとされるクジラを、科学的調査に基づいた枠の中で捕獲することまで環境保護の美名のもとに禁じることには、疑問を感じざるをえない。

根底には優生思想が

 人間は他の生物の命をいただかないと生きてゆけない。そこに菜食、肉食の差はない。それゆえ、環境破壊につながらぬように注意を払いながら、他の生き物を捕獲・採取・飼養・栽培してその命をいただく。それがわれわれの生き方の基本だろう。

 アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反捕鯨国は、捕鯨の全面禁止を主張する。その昔、彼らは灯火用燃料、機械用潤滑油など多様な用途があった鯨油ほしさに、大西洋、次いで太平洋で乱獲を重ね、クジラを絶滅寸前にまで追い込んだ。ところが、石油が鯨油に代わるようになり、産業としてのうまみがなくなると、利に敏(さと)い彼らは捕鯨から早々に撤退し、食べるためにクジラを捕獲する国々を「野蛮」と非難するようになった。クジラのすべてを大切に利用してきた日本人に対して無礼だ。「お前たちにだけは言われたくない」と私は思う。

 かくいう私は山口県下関市の近郊に生まれ育った。昭和30年代、裕福ではなかったわが家の食卓にもっとも多くのぼった肉はクジラだった。小学校の給食にもよく出てきた。赤身は網焼きか竜田揚げにしてショウガ醤油(じょうゆ)で、オバケと呼ばれる尾っぽの白い部分はゆでて酢みそでいただいた。クジラは庶民の日常食であり、貴重なタンパク源だった。下関市には捕鯨で知られた大洋漁業(現マルハニチロ)の拠点があったため、おそらく日本のどこよりも鯨肉を安価に入手できたのではなかろうか。クジラは哺乳類ではあるが、魚屋で売られていた。

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 反捕鯨国の言い分は「知能の高いクジラは人間の友人だ。それを殺すなんてもってのほか」というもので、ほとんどカルト宗教の域に達している。そもそも本当にクジラは知能が高いのだろうか。自分たちがいだく勝手な幻想をもとに、他国を折伏するような行為は慎んでほしい。それにだ、ここがもっとも大事な点なのだが、知能の高さによって、保護すべき動物と食べてもよい動物とに仕分けする思想は、優生思想と同根ではないか。それはクジラを捕獲して食べる民族とその文化に対するあからさまな差別につながっている。彼らはクジラ保護を訴えることで、自身が差別主義者であると宣言しているのだ。こんな相手に、これまでわが国が蓄積してきた科学的データをもとに商業捕鯨の再開を訴えたところで、何も変わるはずがない。相手はカルトだ。私はIWC脱退の決断を断固支持したい。

 そもそも戦後日本人は、国際連合をはじめとする国際機関を妙にありがたがるところがある。昭和8年に国際連盟を脱退、ドイツ、イタリアとの枢軸結成に突き進み、その結果味わった悲劇と屈辱がトラウマになっているのかもしれない。IWC脱退の決断は、戦後日本人が国際機関幻想から目覚めるよい機会になるかもしれない。そして間違いなく、これから反捕鯨国や先鋭的な環境保護団体からさまざまな攻撃が仕掛けられてくるだろう。ひるむな日本! 闘え日本! 商業捕鯨再開は、文化の多様性を守る闘いののろしだ。

クジラ食文化の効果的PRを

 平成5年5月25日付の本紙夕刊に興味深い人物が登場している。上方落語の笑福亭猿笑(現・円笑)さんである。同年5月4日、米国のニューヨーク・タイムズに「なぜ捕鯨を悪と決めつけるのか」と米国民に問いかける意見広告を出したのだ。「鯨くらい食べなくてもいいではなく、自分たちの手で鯨の文化を守る必要があるんです」「食べ物のことで、どうして外国人に文句を言われるのか」と猿笑さんは動機を語っている。掲載費用約100万円はポケットマネーだった。

 商業捕鯨が再開された7月1日、京都市に暮らす円笑さんに電話で感想を聞いた。最初に尋ねたのは、26年前の意見広告に対する反応についてだ。大学教授らアメリカのインテリから約380通の反論がエアメールで届き、そのほとんどは「日本は野蛮な国だ」という感情的な非難だったという。再開について円笑さんはこう語った。

 「当時、(環境保護団体)グリーンピースの人々とも話し合う機会がありましたが、クジラを環境保護のシンボルに仕立て上げる彼らに捕鯨国の文化に対する敬意はいっさい感じられませんでした。クジラをめぐる事態はあの当時のまま今日に至りました。IWC脱退という決断は致し方ないと思います。気がかりなのは、わが国でクジラの食文化が断絶していることです。せっかく商業捕鯨を再開しても、需要がなければどうにもならない。政府は若い人に向けた効果的なPRの戦略を練るべきでしょう」

 最後に自戒を込めて反捕鯨国の人々にモンテーニュの言葉をささげておきたい。

《本当に我々は、自分の住む国の思想習慣の実際ないし理想のほかには、真理および道理の標準をもっていないようである》(第1巻第31章「カンニバルについて」)

 ◇

 昭和40年ころまでの我が家の食卓でもクジラが肉の代表だったのを覚えています。牛肉など高くて食べられなかったからでしょう。ところがそれから十数年後には、高級食材となっていました。桑原氏の言われる通り日本人の食文化からは遠い存在になってしまった感じは強くします。

 ところで桑原氏のコラムの趣旨は、他国の食文化に過剰に干渉する国際機関の理不尽さと、そこから脱退することへの肯定論だと思いますが、私も賛同します。

 クジラではありませんがイルカについても「セーリングのワールドカップ江の島大会の開会式でイルカのショーが開かれたことに対して、国際団体や参加選手から批判が集中し、日本セーリング連盟が11日に謝罪した。」という事案がありました。

 サーカスでよくみられる、ゾウやライオン、またその他の動物のショーも禁止の流れが起きているようです。確かに動物を愛護する観点から言えば、ショーを演じさせること、まして食することは残酷と映るのでしょう。

 しかし、では牛肉や豚肉、鶏肉はいいのでしょうか。自然の中での殺戮ではなく、人間が飼育しているものならいいのでしょうか。結局この問題は神学論争に近いと思います。ただ一つ言えることは、客観的に国際的な犯罪だと認識が及ばない限り「その国の食文化に干渉しないでほしい」、と言うことに尽きるように思います。

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