政治、文化

2019年10月29日 (火)

基本的人権と義務は表裏一体だ

Dobfumsuuaaohs7   今回は山学院大学教授福井義高氏のコラム「基本的人権と義務は表裏一体だ」(正論10/25)を取り上げます。

 ≪誰かの権利は他の人の義務≫

 昨今、なんでもかんでも基本的人権であるという風潮が広がっている。しかし、自らの要求を通すための単なるレトリックではないとしたら、人権すなわち人間の権利の拡大は、人間の義務の拡大を意味することが十分理解されていない。

 権利行使には義務あるいは責任が伴うという、ありふれた主張を繰り返したいわけではない。

 ここで議論の出発点としたいのは、日本の法学界にも大きな影響を与えたオーストリア出身の法哲学者ハンス・ケルゼンの「純粋法学」の前提でもある、誰かの権利はそれ以外の人の義務であるという、権利と義務の論理的関係である。

 たとえば、表現の自由すなわち自分が思うところを好きなように表現する権利は、この表現行為を邪魔してはならないという義務を他人に課している。また、健康で文化的な生活を営む権利は、こうした生活が送れるよう支援する義務を他人に課している。

 この文字通り、権利と義務が表裏一体となった関係は、賛否両論あり得る権利行使責任論とは異なり、どんな場合も成り立つ論理的必然である。

 したがって、米国の哲学者ジョン・サールが指摘しているように、基本的な人間の権利があるとすれば、当然、「基本的人義」とでもいうべき、それに対応する基本的な人間の義務が存在する。

 権利の拡大は、同時に義務の拡大をもたらすことで、我々の自由を制約し、耐え難い状況を引き起こしかねない。それでも、我々が人間として義務を負わねばならない基本的人権があるとしたら、どのようなものがそれにあたるのであろうか。

 ≪消極的義務と積極的義務≫

 義務にはふたつのタイプがある。ひとつは、他人が権利を行使する際、それを邪魔してはならないという消極的義務。もうひとつは、他人の権利行使に対応して、なんらかの行動を強いられる積極的義務である。

 人間として生まれた以上、自らの幸福を自由に追求することにお互い最大限の考慮を払いあうべきであろう。したがって、他人に消極的義務を課すだけの、表現の自由、身体の自由、結社の自由などは、まさしく基本的人権といってよい。

 表現の自由の場合、映画館で偽って「火事だ」と叫ぶことや名誉毀損(きそん)にあたる場合などを除けば、その内容の制限には極力慎重でなければならない。

 表現の自由を最重要視する米国では、言語学者ノーム・チョムスキーをはじめ、リベラルの間でもヘイトスピーチ規制反対の声は根強く、実際、法律で規制されていない。「ことばの暴力」というけれども、他人に石を投げつけるのと不愉快な言葉を投げつけるのは異質の行為である。

 好きなものを食べる自由と異なり、なぜ好きなことを表現する自由が基本的人権として強調されるのか。それは、食べる自由が侵害される危険性はまずない一方、表現する自由が侵害される危険性は常に存在するからである。

 一方、積極的義務を他人に課す基本的人権を想定することは難しい。積極的義務を果たすには、おカネがかかる。国家の義務と言ったところで、国家は打ち出の小槌(づち)ではなく、個人から強制的に徴収した税金を配分しているにすぎない。

 たとえば、健康で文化的な生活を営む権利が基本的人権だとすれば、日本国民に限定されず、日本在住か否かを問わず人間であれば誰でも行使できることになる。その財政負担は耐えがたいというより不可能である。

 ≪おカネが必要な権利は≫

 積極的義務すなわち、おカネが必要な権利は、人間ではなく日本国民としての権利に限られるというしかない。もちろん、たとえば外国人を生活保護の対象にするなといっているわけではない。しかし、それは外国人にとって権利ではなく政策的配慮である。

 そもそも税金は少ない方が望ましいし、有無を言わさず集められた税金の使い道に関しては、民意が反映されなければならない。国民としての権利であっても、積極的義務が必要なものには、抑制的であることが求められる。

20190927023605  愛知県の芸術祭「あいちトリエンナーレ」の展示に関して言えば、有志が民間施設で開催するのであれば、たとえその内容が多くの人にとって不愉快なものであっても、許容する義務がある。

 ただし、表現の自由という基本的人権が要求するのは、気に食わなくとも好きにさせるというところまでである。

 それ以上の義務を他人に課すものではなく、支援しないからといって基本的人権を侵害したことにはならない。

 芸術(と称するもの)への支援は、基本的人権の問題ではない。民意に沿って、何にいくら税金を投入するか、最終的には議会の承認を得て、行政が決めるべき政策の順位づけの問題である。

 福井義孝氏のこのコラムは権利ばかり主張して義務を果たしていない人に対して痛烈なパンチを与えます。ただし認識していればの話ですが。

 以前から社会福祉などのサービス向上を高らかに謳う野党議員が、その財源に対して語らないのはおかしいと思っていたのですが、財源のもとになる税金を納める「義務」を訴えることによる、国民へのマイナスイメージを被りたくないからでしょう。

 そして左翼界隈の「あいちトリエンナーレ」への公金投入中止に関する単純な反対論も、氏の見解から言えば簡単に封殺できるでしょう。

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2019年10月14日 (月)

「表現の不自由展」とか言っている場合か

Bn_aojc  今回は銀座の画廊<秋華洞>社長ブログより、田中千秋氏の『「表現の不自由」とか言っている場合でしょうか』(10/11)を取り上げます。田中氏は美術商の立場から「表現の不自由展」を痛烈に批判しています。

 僕は今回あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」の騒動は対岸の火事、ということにしておこう、と思っていました。およそ美術の畑とは関係ない人たちがちょっとオツムのネジがずれてしまった愛知県のごく一部の人たちと組んで起きてしまった、不幸な事件で、美術業界とはなんの関係もない、と、思っておきたかったからです。

 その根本の問題は津田大介さんのような全く美術に対して不見識な人物を芸術監督として迎えてしまう、愛知県の芸術への関心の無さだと思っておりました。

 ただ、東京大学有志、芸大有志、現代美術画廊の数名など、文化庁の予算執行停止に対して連名で異を唱える人々が出てきたことで、どうもこれは私達美術業界を巻き込む事象となり、彼らの圧倒的な問題意識の低さに直面して、少しは自分の意見を出しておく必要にも駆られました。

 まず、最初に言っておくべきことは、今回の事件は「表現の自由」とはなんの関係もないことです。今回は「表現の自由」という言葉を隠れ蓑にした反日プロパガンダであるという事実をまず指摘しなければ議論は始まらないでしょう。その嘘を朝日新聞自らが吐露した「慰安婦」の物語を元とした「反日有理」のシンボル「少女像」を始め、天皇の肖像を燃やして踏みつける展示、特攻隊で亡くなられた方を揶揄する展示など、「自由」とはなにかを真面目に問う内容とは程遠いことはすでに御存知の通りです。

 ところが、予算を執行停止した行政も、それに反論する側も、これはなんの戦略か、その中身に触れず、手続き論に終止しています。両者は「大人の対応」と言うべきでしょうか。僕には、本質を議論するのを避け、マスコミに切り取りの報道を許す態度と思えます。

Images-8_20191014154401  ここで、問題の層はいくつかありますが、大きくは2つでしょう。

 第一は、上記の内容が単なる政治的な偏見によるもので、芸術とは何ら関係がないことです。特に、天皇像を焼く、特攻隊を愚弄する、という作品を見たある女性は、涙が出て止まらなかったそうですが、同じことを別の国でやれば即座に殺されてしまうような国民の根源的な怒りを招くものでもあり、最低でも国家侮辱罪で捕まることでしょう。温厚な日本人に甘えた、たるみきった展示です。

 第二の問題は、実は今回の展示は、事前に予算申請する際には伝えなかった反日的内容をゲリラ的に展示してしまったことです。有名な東・津田の動画など傍証材料も出揃っています。この意味で大村愛知県知事と津田監督は、予算をだまし取ったことになり、実は刑事罰が適用されるべき案件でもあります。

 これらの根の深い問題があるにもかかわらず、擁護にまわった有識者は、実は個人できちんと論拠を述べた方が少ない。東京画廊の山本さんには直接説明していただきましたが、残念ながら納得はしておりません。小山登美夫さんもどういうつもりで文化庁を責めているのか。不見識を感じざるを得ません。この展示に参加しているチンポムのエリーさんもなにか意見を述べているようですが、やはり本質から逃げています。(ぼくはChim♂Pomの過剰でセンセーショナルな数々の表現についてはむしろ面白く見てますし、今回の「放射能」の展示について、必ずしも否定的には捉えていませんが、予算に関する彼女の発言は、正鵠を得たものとは思いません。)

 僕が個人的に好きな山猫日記の三浦瑠麗さんも執行停止に反対していますが、その論理は私には理解できません。

 文化庁の予算停止が「不自由展」充当分だけでなく、全体であったことは、論点になりうるでしょう。ですが、上記の2つの問題は、予算停止どころか、強い処罰をするべき根深い問題を含んでいます。

 今回の大村知事は、リコールどころか、「予算騙し取り」で塀の向こうに落ちる可能性さえあると思いますが、東大芸大現代美術の各有識者の皆さんは、犯罪擁護とも思える態度を今後も貫くおつもりでしょうか。

「表現の自由」を擁護することじたいは、僕ももちろんやぶさかではありません。政治的なネタも、エログロも、僕の画廊では大いにやっていきたいし、他の画廊のみなさんも様々挑戦していただきたい。

 ですが、国家の根幹、個人の誇りを徹底して傷付ける今回の企画は、放置すれば国家の存立そのものを危うくするものでさえあると私は思います。「国」というものへの帰属意識は、共通の物語がなせること。日本人は、その物語の大きな部分を天皇のご存在によってきました。これは、古くからの日本美術を扱っていると、自ずと気付かされることです。美術活動、表現の自由を私達が行使できるのは、安定した国家の基盤があってこそです。その基盤そのものの破壊を試みる今回の企画は「表現の自由」の基盤を破壊するものです。

 今回の企画を、税金を投入する場所でやるのがとんでもない、というのが巷でよく言われていることです。もし「騙して」やっていなかったとしても、なおこの問題が残ります。「一般の画廊でやればよい」とも言われますね。

 ところがどっこい、画廊の立場でいえば、『一般の画廊』でやるのもとんでもない。我々コマーシャルギャラリーでも、貸画廊でも、展示には画廊主の責任とポリシーが問われます。それはブランド価値になるのです。

 なんども言うように、僕の画廊ではエロもグロも政治も、やりたいと思っています。ですが、そこにはバランス感覚やセンスが必要です。いらした方を楽しませる工夫と、ウイットが必要です。すこし過激な展示なら、それを相対化して冷静に見られるような仕掛けが必要です。あのようなひたすらに日本人の歴史を踏みにじるような作品をやる画廊があれば、それは勝手かもしれませんが、多くの人に軽蔑される覚悟も必要でしょう。

 じっさいのところ、「画廊」でもやるべき展示ではないと思います。画廊だって公器なのです。

 今回の愛知の展示には軽蔑される覚悟さえ感じられない。ベタベタに世間に甘えきった大村さんと津田さん、そして愚かなる参謀としての東浩紀さんの覚悟のないのんべんだらりとした反日ごっこ。

Images-3_20191014153701  しかも反対するこの展示のナンバー2、河村たかし名古屋市長の制止も振り切っての展示再開は、常軌を逸しています。

 こんなものをもって「表現の自由」を語られたら、表現の自由が泣きます。表現の自由を切り開いてきた先人たちも泣くことでしょう。自由な表現への弾圧が「死」を意味する、いくつかの国で、どうぞ覚悟を持っておやりください。あるいは「表現の自由」のメッカとも思われるアメリカで、星条旗やワシントン・キリストの肖像を燃やす展示をしてご覧なさい。何が起きるのか。

 国が維持され、発展してこそ、私達が自由に活動できるのです。その原点を忘れて、今もなお文化庁に抗議する不見識で顔の見えない人たちすべてに言いたいです。あなたたちこそ、表現の自由の敵だ。

 田中氏のご意見に全面的に賛同します。芸術でも何でもない、ただ単に日本の伝統をぶち壊し、国体をも揺るがそうという意図を持った、政治的色彩一色のこの展示会、それを表現の自由を楯に開催しようなどとたくらむのは、朝日や極左活動家など反日親中親朝鮮の一団であることは明らかでしょう。

 補助金の交付はもとより、田中氏の言うように開催そのものが許されない展示会です。日本だからこそ開催されてしまっていますが、親中親朝鮮の知識人は親しみのあるそれらの国で同様な展示会が開かれたら、開催関係者はどうなるか少しは考えたことがあるのでしょうか。本当に甘え切った集団ですね。

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2019年10月11日 (金)

「表現の不自由展」はヘイトそのものだ

2154064  今回は8月1日に開催され様々な物議を醸しだしたあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」に関する、作家でジャーナリストの門田隆将氏によるコラム『「表現の不自由展」はヘイトそのものだ』を取り上げます。このコラムは不自由展が中止になる前日の模様を描いたものです。

「表現の不自由展」初の実体験レポート!月刊『Hanada』2019年10月号(完売御礼!)に掲載され、大反響を呼んだ門田隆将氏のルポを特別に全文公開!本日の午後、「表現の不自由展・その後」が再開されましたが、門田隆将氏のルポは8月3日、つまりは中止になる前日の模様を描いた希少な体験記です。

 8月3日午前11時、私は名古屋市東区の愛知芸術文化センタービル10階の愛知県美術館チケット売り場に並んでいた。

 この日の名古屋は最高気温34.8度が示すように朝からぐんぐんと温度計の目盛りが上昇。汗がねっとりと首にまとわりつく典型的な熱暑の1日だった。

 広い吹き抜けの空間は冷房があまり効いておらず、汗が滲む中、チケット売り場には、200人近くが並んでいた。

 だが、窓口には職員が2人しかいない。緩慢な切符の売り方に、列は時間が経つごとに長くなっていった。窓口の2人も、やがて片方が消え、1人だけの販売になる。あまりのサービス精神の欠如に、私は近くの職員に「この長蛇の列が目に入りませんか?なぜ売り場に1人だけなんですか。おかしいと思いませんか」と言った。

 しかし、職員は「申し訳ありません」というだけで何もしない。私は同じフレーズをこの入口だけで別々の職員に3回も言う羽目になる。

 しかも、チケットをやっと買って中に入っても「順路」の案内がない。仕方がないので左側に歩を進めたら「順路はあっちです」と職員に注意されてしまった。順路を示す印も出さないまま「順路はあっちです」と平然と言う職員。これほど観覧者をバカにした芸術祭も珍しい。

(ああ、きっと県の職員がやっているんだろう)

 私は、観る側のことを全く考慮に入れていない様子に、公務員なら「さもありなん」と勝手に解釈した。職員のレベルの低さ――まず、それが私の最初の印象だ。

SNS投稿禁止という矛盾

 芸術祭のテーマは「情の時代」である。パンフレットには〈「情の時代」とは、いかなるものでしょうか。そこではきっと、私たちの習慣的な知覚を揺さぶる視点、例えば、動物の視点、子供の視点、いま・ここから遠く離れた「誰か」の視点などが盛り込まれることでしょう〉とある。何が言いたいのかよくわからない文章だが、芸術祭にはままあることだ。

 私は、まず10階の展示をひとまわりした。この手の作品は、作家の意図が伝わるものと、そうでないものとが明確に分かれる。いったい何を表したいのだろう、という作品もあれば、ストレートに心に飛び込んでくるものもあった。ひと通り10階の観覧を終えた私は、いよいよ「表現の不自由展・その後」の会場がある8階に向かった。

 同展示は、日本国内の美術館やイベント等で撤去や公開中止になった作品ばかり20点以上を集めた企画である。すでに公開中止になったものを集めて展示するのだから、「あいちトリエンナーレ」にとって当然、覚悟の催しということになる。私も、「いったいどんなものなのか」と興味が湧いた。

 8階には長い列ができている場所があり、すぐに「あそこか」とわかった。近づくと職員が「待ち時間は1時間ほどです」と叫んでいる。まさか1時間も? そう思いながら列に並んだ。

 すでに100人以上が並んでおり、人々の関心の高さが窺えた。やがて30分ほどで会場の入口に来た。意外に早い。

「展示品の写真撮影は結構です。ただし、SNS(ソーシャルネットワーク)への使用はお断りしています」

 観覧にあたっての注意事項をスタッフが1人ひとりに伝えている。また、そのことを書いた「撮影写真・動画のSNS投稿禁止」という注意書きが入口手前に掲示されていた。どうやら「表現の不自由展」には、観る側も「不自由」が強制されるものらしい。そういう不自由さについて訴えるはずの展示なのに、「自己矛盾」に気づかないところが主催者のレベルを物語っている気がした。

昭和天皇の顔を損壊

 入口には、白いカーテンがかかっている。めくって中へ入ると、幅2メートルもない狭い通路に、ぎっしり人がいた。左右の壁に作品が展示されており、それを人々が食い入るように見つめている。

 手前の右側には、いきなり、昭和天皇を髑髏が見つめている版画があった。最初から“メッセージ性”全開だ。

 反対の左側に目を向けると、こっちは昭和天皇の顔がくり抜かれた作品が壁に掛けられている。背景には大きく×が描かれ、正装した昭和天皇の顔を損壊した銅版画だ。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への剥き出しの憎悪がひしひしと伝わってくる。

(……)

 皆、無言で観ている。声を上げる者は1人もいない。私も言葉を失っていた。

 その先には、モニターがあり、前にはこれまた「無言の人だかり」ができている。

 やはり昭和天皇がモチーフだ。昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれ、燃え上がっていくシーンが映し出される。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がる。

 次第に焼かれていく昭和天皇の肖像。すべてが焼かれ、やがて燃えかすが足で踏みつけられる。強烈な映像だ。作者の昭和天皇へのヘイト(憎悪)がストレートに伝わる。

 よほど昭和天皇に恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで私は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉だった。

 画面は切り替わり、若い日本の女性が、母親への手紙を読み上げるシーンとなる。

「明日、インパールに従軍看護婦として出立します」

「私の身に何が起こっても、お国のために頑張ったと誉めてくださいね」

 そんな台詞を彼女は口にする。インパール作戦は、昭和19年3月から始まった補給もないまま2,000メートル級のアラカン山脈を踏破する過酷な作戦だ。とても看護婦が同行できるようなものではない。

 私自身が拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ第2部の「陸軍玉砕編」で、この作戦の生き残りに直接取材し、飢餓に陥って数万の戦死・餓死者を出し、白骨街道と化した凄まじいありさまをノンフィクションで描いている。おそらくこの映像作品は真実の歴史など“二の次”なのだろう。

 やがて、海岸の砂浜にドラム缶が置かれた場面となり、そのドラム缶が爆発し、宙に舞う。まったく意味不明だ。

 私の頭には、「自己満足」という言葉も浮かんできた。これをつくり、展示してもらうことで作者は溜飲を下げ、きっと自らの「創造性(?)」を満足させたのだろう。

 しかし、私には、取材させてもらった老兵たち、つまり多くの戦友を失った元兵士たちがどんな思いでこれを観るだろうか、ということが頭に浮かんだ。そして一般の日本人は、これを観て何を感じるだろうか、と。

 当時の若者は日本の未来を信じ、そのために尊い命を捧げた。私たち後世の人間が、2度とあの惨禍をくり返さない意味でもその先人の無念を語り継ぐことは大切だ。少なくとも私はそういう思いで10冊を超える戦争ノンフィクションを書いてきた。

3_20191011164401 怒号が起こった少女像前

 少女像が展示されているのは、この作品群の先である。通路を出て広い空間に出たら、そこにはテントのような作品がまん中に置かれ、左奥に少女像があった。

 少女像を人が取り囲んでいる。いきなり、

「やめてください」

「なぜですか!」

 そんな怒号が響いてきた。観覧者の1人が少女像の隣の椅子に座り、紙袋をかぶっている。どうやら、その紙袋を少女像にもかぶせようとしたらしい。

 それを阻止されたようだ。少女像のある床には、〈あなたも作品に参加できます。隣に座ってみてください。手で触れてみてください。一緒に写真も撮ってみてください。平和への意思を広めることを願います〉という作者の呼びかけがあり、それを受けて隣の席に座ろうとする人間もそれなりにいるようだ。

「やめてください」と叫んだ人は、どうやら展示の案内人らしい。観覧している人から質問をされたら答え、抗議されたら、それに応えるためにここにいるようだ。ご苦労なことだ。なかには過激な抗議をする人もいるだろう。いちいちこれに対応するのは大変だ。

 少女像と一緒に写真を撮りたい人がいれば、この人はシャッターも押してあげていた。この日、美術館で最も大変な“業務”に就いていた人は間違いなくこの人物である。

 怒号はすぐに収まり、何事もなかったような空間に戻った。

少女像の解説文に「性奴隷」

 日本人はおとなしい。ひどい作品だと思っても、ほとんどが抗議をするでもなく、無言で観ていた。その代わり、ひっきりなしにカメラやスマホのシャッター音が響いている。

 少女像自体は、どうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。その横にはミニチュアサイズの少女像も展示されていた。さらにその左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。

 私は少女像の説明書きを読んでみた。〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館前で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。

 英語の解説文には、「SexualSlavery」(性奴隷制)という言葉が見てとれた。「性奴隷」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されていた。日本の公式見解とは明らかに異なるものであり、これらの説明には2つの点で「虚偽」があった。

 まず、慰安婦は「性奴隷」ではない。あの貧困の時代に春を鬻ぐ商売についた女性たちだ。当時の朝鮮の新聞には〈慰安婦募集 月収三百圓以上勤務先 後方〇〇部隊慰安所 委細面談〉などという新聞広告が出ていたように、上等兵の給料およそ十圓の時代にその「30倍以上」の収入を保証されて集まった女性たちである。彼女たちの収入は、当時の軍司令官の給与をはるかに凌駕していた。

 恵まれた収入面については、さまざまなエピソードがあるが、ここでは触れない。ともかく慰安所(「P屋」と呼ばれた)には、日本人女性が約4割、朝鮮人女性が約2割、残りは……という具合に、あくまで中心は日本の女性たちだった。ちなみに日本人女性で慰安婦として名乗り出たり、補償を求めた者は1人もいない。

 もちろん喜んで慰安婦になった女性は少ないだろうと思う。貧困の中、さまざまな事情を抱えて、お金のために慰安婦の募集に応じざるを得なかったのだろう。私たち日本人は大いに彼女たち慰安婦の身の上に同情するし、その幸せ薄かった人生に思いを致し、実際に日本は代々の首相が謝罪し、財団もつくり、その気持ちを談話として伝えてきている。

朝日と韓国が虚偽の歴史を

 しかし、朝日新聞や韓国は、これを日本軍や日本の官憲が無理やり「強制連行した女性たち」であるという“虚偽の歴史”を創り上げた。韓国は世界中に慰安婦像なるものを建て、性奴隷を弄んだ国民として日本人の名誉を汚し続けている。私たちは、この虚偽を認めるわけにはいかない。

 まして「少女が性奴隷になった」などという、さらなる虚構を韓国が主張するなら、それはもう論外だ。そして、目の前の少女像は、その「虚偽」を世界中に流布させることを目的とするものである。日本人は少女像が虚偽の歴史を広めるものであることを知っており、少女像の存在は間違いなく「両国の分断」をより深くするものと言える。

 しかし、韓国がどこまでもこの虚構にこだわるなら、もはや両国に「友好」などという概念など、未来永劫生まれるはずはない。

 軍需工場などに勤労動員された「女子挺身隊」を慰安婦と混同した朝日新聞の大誤報から始まった虚構がここまで韓国の人々を誤らせたことに、私は両国の不幸を感じる。それと共に同じ日本のジャーナリズムの人間として朝日新聞のことを本当に腹立たしく、また悔しく思う。

不快極まる作品群

 私は、少女像の前に展示されていた作品にも首を傾げた。「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」と題されたその作品はテントのようなかまくら形の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法九条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉などをベタベタと貼りつけ、底部には米国の星条旗を敷いた作品だった。

 idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」 「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の人々の「お墓」を表すものなのだろう。日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上にこのタイトルなので、少なくとも戦死した先人たちへの侮蔑を含む作品のように私には感じられた。

 どの作品も「反日」という統一テーマで括られた展示だった。会場の壁には「表現の不自由をめぐる年表」も掲げられていたが、「表現の不自由」といえば、チャタレー事件に始まり、四畳半襖の下張事件、日活ロマンポルノ事件をはじめ、ポルノやヘアをめぐって当局との激しい闘いの歴史が日本には存在する。

 私は、これらが「なぜ無視されているのか」を考えた。つまり、展示はあくまで政治的な主張が目的なのであって、純粋な「表現の自由」をめぐる訴えなどは考慮にないのではないか、と感じたのである。

 あいちトリエンナーレは、日本人の税金が10億円も投入され、公の施設で開かれる「公共のイベント」だ。そんな場所で、わざわざ他国が主張する「虚偽の歴史」のアピールをする意味は何だろうか。それを許す責任者、つまり大村秀章・愛知県知事は余程の「愚か者」か、あるいはその韓国の主張に確固として「同調する人物」のどちらかなのだろう。

 私は、こんな人物が愛知県知事という重責を担っていることに疑問を持つ1人だが、首長を選ぶのは、その地域の人たちの役割なので、私などがとやかく言う話ではない。

 私は、試しに韓国や中国へ行って同じことをやってみたらどうだろうか、と想像した。たとえば韓国人の税金が投入された芸術祭で、何代か前の大統領の肖像をバーナーで焼き、その燃えかすを思いっきり踏みつけてみる。そして、その大統領の顔を損壊し、剥落させた銅版画を展示してみる。韓国人はどんな反応を示すだろうか。

 また中国へ行って、中国共産党の公金が支出された芸術祭で、同じように毛沢東の肖像をバーナーで燃やしてみる……。どんな事態になるかは容易に想像がつく。作者は、おそらく表現の自由というものは、決して「無制限」なものではなく、一定の「節度」と「常識」というものが必要であることに気づかされるのではないか。イスラム社会で仮にこれをやったら、おそらく命が断たれるだろう。逆に私は「日本はいかに幸せか」をこの展示で感じることができた。

 しかし、日本人にとって国民統合の象徴である昭和天皇がここまで貶められるのはどうだろうかと思わざるを得ない。昭和天皇、そして昭和天皇のご家族にとどまらず、自分たち日本人そのものの「心」と「尊厳」が踏みにじられる思いがするのではないだろうか。つまり、これらは、間違いなく日本人全体への憎悪(ヘイト)を表現した作品なのである。

 もし、これを「芸術だ」と言い張る人には、本物のアーティストたちが怒るのではないか、と私は思った。「あなたは芸術家ではない。偏った思想を持った、ただの政治活動家だよ」と。

 それは昭和天皇を憎悪しない普通の観覧者にとっては、ただ「不快」というほかない作品群だった。少なくとも、多くの日本人の心を踏みにじるこんなものが「アート」であるはずはない。作者が日本人に対するヘイトをぶつけただけの展示物だと私には思えた

支離滅裂の大村知事

 私が会場を去って間もなくの午後5時。同センターで緊急記者会見した大村秀章・愛知県知事は、

「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況だ」

と語り、突如、展示中止を発表した。芸術祭事務局に「美術館にガソリン携行缶を持って行く」との脅迫のファックスがあり、安全が保てないことを理由に「中止を決めた」という。開幕からわずか3日。信じがたい展開だった。

 それは「あってはならないこと」である。「表現の自由」を標榜して展示をおこなっているなら、どんなことがあっても脅迫や暴力に「負けてはならない」からだ。まして大村氏は愛知県知事だ。愛知県警を大動員してでも、「暴力には決して屈しない」姿勢を毅然と示さなければならない立場である。

 一方で私には「ああ、逃げたな」という思いがこみ上げた。あの展示物を見れば、常識のある大人ならこれに税金を投じることの理不尽さを感じ、非難がますます大きくなることはわかる。それを察知した大村知事は、テロの危険性をことさら強調し、自分たちを「被害者の立場」に置いた上で“遁走”したのだろう。

 その証拠に四日後、実際にファックスを送った当の脅迫犯が逮捕されても大村知事は展示再開を拒否した。

 芸術祭の実行委員長代理である名古屋市の河村たかし市長はこの展示を知らず、慌てて観覧した後、

「少女像の設置は韓国側の主張を認めたことを意味する。日本の主張とは明らかに違う。やめればすむという問題ではない」

と大村知事と激しく対立した。これに対して大村知事は、

「(河村氏の)発言は憲法違反の疑いが極めて濃厚。憲法21条には、“集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない”と書いてある。公権力を持っているからこそ、表現の自由は保障しなければならない。公権力を行使される方が、この内容はいい、悪いと言うのは、憲法21条のいう検閲と取られても仕方がない。そのことは自覚されたほうがいい」

と反撃。だが、憲法12条には、「表現の自由」などの憲法上の権利は濫用されてはならないとして、〈常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ〉と記されている。表現の自由をあたかも「無制限」であるかのように思い込んでいる大村知事の認識の甘さは明白だった。

真実を報じないマスコミ

 もうひとつの問題点は、報道のあり方だ。産経新聞やフジテレビを除くマスコミは、少女像のことばかりを報道し、昭和天皇の肖像焼却や顔の損壊などのヘイト作品について一切、触れなかった。ただ「表現の自由が圧殺される日本」という報道に終始したのである。

 もし、展示中止が妥当なほど作品がひどいものだったら、そもそも自分たちの論理は成り立たなくなる。そのため少女像だけの問題に矮小化し、いかに日本では「表現の自由」が風前の灯であるかという報じ方に徹したのだ。

 真実を報じず、自分の論理展開に都合のいいものだけを取り上げるのは、日本のマスコミの特徴だ。

 8月4日の朝日新聞の天声人語では、〈75日間公開されるはずだったのに、わずか3日で閉じられたのは残念でならない▼ある時は官憲による検閲や批判、ある時は抗議や脅し。表現の自由はあっけなく後退してしまう。価値観の違いを実感させ、議論を生みだす芸術作品は、私たちがいま何より大切にすべきものではないか〉と主張し、8月6日付の記事では、〈表現の不自由展 政治家中止要請 憲法21条違反か 応酬〉〈永田町からも危惧する声「政府万歳しか出せなくなる」〉と、展示物の詳細は伝えないまま大村知事を全面支援した。

 だが、ネットではいち早く作品群の詳細が伝えられ、芸術監督を務めた津田大介氏と企画アドバイザーの東浩紀氏が昭和天皇の肖像を焼却する作品が展示されることを笑いながら話す動画など、さまざまな情報が炙り出されていった。

 今回も新聞とテレビだけを観る層とネットを観る層との著しい情報量の乖離が明らかになった。いま日本は情報面において完全に「二分」されている。

 ネットを駆使する人たちはマスコミが隠す情報さえ容易に手に入れることができ、一方では、偏った主義主張を持つメディアにいいように誘導される人たちがいる。そこには、大きな、そして根本的なギャップが存在しているのである。

 今回の出来事は、「芸術である」と主張さえすれば何でも通ってしまうのか、極めて偏った政治主張によるヘイト行為もすべて認められるものなのか、という実にシンプルな問題と言える。同時に、韓国への批判は「ヘイト」、日本を貶めるものは「表現の自由」という倒錯したマスコミの論理に国民が「ノー」を突きつけたものでもあった。

 一部の反日、反皇室、親韓勢力による公的芸術祭の乗っ取りとも言える行為は、こうして途中で頓挫した。そして、日本のマスコミの「あり得ない姿」も露わになった。

 今回の出来事を通じて、私たち日本人は日本の“内なる敵”マスコミと、特異な主張を展開する一部政治勢力への「警戒」と「監視」を疎かにしてはならないことを改めて学ばせてもらったのである。

Images-3_20191011164501  公金を使ってまで、天皇をあからさまに批判・侮蔑し、加えて慰安婦問題の政府見解を否定し韓国側見解を肯定する、こんな展示会を開催するなど正気の沙汰ではないと思います。

 今月から再開されたようですが、文化庁からの補助金は全額不交付と言う決定のようです。当たり前の処置だと思いますが、またぞろ左側からは「実質的な検閲だ」との批判が出ています。

 毎日新聞の社説では「今回の企画展で抗議の対象になったのは、元従軍慰安婦を象徴する少女像や、昭和天皇の肖像を素材とした作品だ。政治性の高い作品を公共の空間でどう見せるか。これを機に議論を深めたい。」などと記述しています。

 そもそも政治性と言っても完全に一方向、「反日」の立場での展示であり、しかも天皇の肖像を燃やす動画などは「日本国民の統合の象徴」を汚す行為だという認識があるのかどうか非常に疑問です。完全に狂った論調を繰り返す日本の左派系新聞、これらメディアの罪も重いと言わざるを得ません。

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2019年9月18日 (水)

反捕鯨というファシズム

Img_d1b4af2a00541daa2e613cf5f4a533191761 今回は韓国の話題を離れて、先日国際捕鯨委員会(IWC)から脱退した日本が、商業捕鯨を再開したことにちなみ、産経新聞文化部の桑原聡氏のコラム「反捕鯨というファシズム」(JAPANForward)を取り上げます。この脱退劇は韓国への輸出管理強化とともに、日本の今までの主体性のないお人好し外交を打破する、一つの象徴として見てもいいものと考えます。

◇ 

 民主主義国家とそこに暮らす人々の共通の敵とは、左右の全体主義ではないか。この敵と戦うために、知恵を絞り、手を取り合うことが何よりも求められるのに、クジラをめぐっては民主主義国家のリーダーと目される国々と国民が、率先して全体主義に傾き、自分たちの意に沿わぬ国々に圧力をかけている。

 人間は地球環境の一部であり、環境を破壊すれば、いずれ人間も滅亡する。本能を失い理性に支配されるようになった人間は、産業革命以降、利益に目がくらみ、再生不能になるレベルの環境破壊をやってきた。動物にしろ植物にしろ、これまでにいくつの種を絶滅させてきたことか。こうした反省を踏まえ、地球環境保護のため世界レベルで議論し協調しようと、さまざまな国際機関が設立された。第二次世界大戦後に設立された国際捕鯨委員会(IWC)もその一つだ。

 クジラ資源の持続的利用と捕鯨産業の秩序ある発展を図ることを目的に捕鯨国を中心に設立されたものの、いつのまにやら、それが反捕鯨国に牛耳られ、一頭たりともクジラを捕獲すべきでないという主張がまかり通るようになった。

 絶滅の可能性があるクジラの捕獲を禁ずるのは当然だ。しかし、ミンククジラのように絶滅の危機を抜けたとされるクジラを、科学的調査に基づいた枠の中で捕獲することまで環境保護の美名のもとに禁じることには、疑問を感じざるをえない。

根底には優生思想が

 人間は他の生物の命をいただかないと生きてゆけない。そこに菜食、肉食の差はない。それゆえ、環境破壊につながらぬように注意を払いながら、他の生き物を捕獲・採取・飼養・栽培してその命をいただく。それがわれわれの生き方の基本だろう。

 アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反捕鯨国は、捕鯨の全面禁止を主張する。その昔、彼らは灯火用燃料、機械用潤滑油など多様な用途があった鯨油ほしさに、大西洋、次いで太平洋で乱獲を重ね、クジラを絶滅寸前にまで追い込んだ。ところが、石油が鯨油に代わるようになり、産業としてのうまみがなくなると、利に敏(さと)い彼らは捕鯨から早々に撤退し、食べるためにクジラを捕獲する国々を「野蛮」と非難するようになった。クジラのすべてを大切に利用してきた日本人に対して無礼だ。「お前たちにだけは言われたくない」と私は思う。

 かくいう私は山口県下関市の近郊に生まれ育った。昭和30年代、裕福ではなかったわが家の食卓にもっとも多くのぼった肉はクジラだった。小学校の給食にもよく出てきた。赤身は網焼きか竜田揚げにしてショウガ醤油(じょうゆ)で、オバケと呼ばれる尾っぽの白い部分はゆでて酢みそでいただいた。クジラは庶民の日常食であり、貴重なタンパク源だった。下関市には捕鯨で知られた大洋漁業(現マルハニチロ)の拠点があったため、おそらく日本のどこよりも鯨肉を安価に入手できたのではなかろうか。クジラは哺乳類ではあるが、魚屋で売られていた。

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 反捕鯨国の言い分は「知能の高いクジラは人間の友人だ。それを殺すなんてもってのほか」というもので、ほとんどカルト宗教の域に達している。そもそも本当にクジラは知能が高いのだろうか。自分たちがいだく勝手な幻想をもとに、他国を折伏するような行為は慎んでほしい。それにだ、ここがもっとも大事な点なのだが、知能の高さによって、保護すべき動物と食べてもよい動物とに仕分けする思想は、優生思想と同根ではないか。それはクジラを捕獲して食べる民族とその文化に対するあからさまな差別につながっている。彼らはクジラ保護を訴えることで、自身が差別主義者であると宣言しているのだ。こんな相手に、これまでわが国が蓄積してきた科学的データをもとに商業捕鯨の再開を訴えたところで、何も変わるはずがない。相手はカルトだ。私はIWC脱退の決断を断固支持したい。

 そもそも戦後日本人は、国際連合をはじめとする国際機関を妙にありがたがるところがある。昭和8年に国際連盟を脱退、ドイツ、イタリアとの枢軸結成に突き進み、その結果味わった悲劇と屈辱がトラウマになっているのかもしれない。IWC脱退の決断は、戦後日本人が国際機関幻想から目覚めるよい機会になるかもしれない。そして間違いなく、これから反捕鯨国や先鋭的な環境保護団体からさまざまな攻撃が仕掛けられてくるだろう。ひるむな日本! 闘え日本! 商業捕鯨再開は、文化の多様性を守る闘いののろしだ。

クジラ食文化の効果的PRを

 平成5年5月25日付の本紙夕刊に興味深い人物が登場している。上方落語の笑福亭猿笑(現・円笑)さんである。同年5月4日、米国のニューヨーク・タイムズに「なぜ捕鯨を悪と決めつけるのか」と米国民に問いかける意見広告を出したのだ。「鯨くらい食べなくてもいいではなく、自分たちの手で鯨の文化を守る必要があるんです」「食べ物のことで、どうして外国人に文句を言われるのか」と猿笑さんは動機を語っている。掲載費用約100万円はポケットマネーだった。

 商業捕鯨が再開された7月1日、京都市に暮らす円笑さんに電話で感想を聞いた。最初に尋ねたのは、26年前の意見広告に対する反応についてだ。大学教授らアメリカのインテリから約380通の反論がエアメールで届き、そのほとんどは「日本は野蛮な国だ」という感情的な非難だったという。再開について円笑さんはこう語った。

 「当時、(環境保護団体)グリーンピースの人々とも話し合う機会がありましたが、クジラを環境保護のシンボルに仕立て上げる彼らに捕鯨国の文化に対する敬意はいっさい感じられませんでした。クジラをめぐる事態はあの当時のまま今日に至りました。IWC脱退という決断は致し方ないと思います。気がかりなのは、わが国でクジラの食文化が断絶していることです。せっかく商業捕鯨を再開しても、需要がなければどうにもならない。政府は若い人に向けた効果的なPRの戦略を練るべきでしょう」

 最後に自戒を込めて反捕鯨国の人々にモンテーニュの言葉をささげておきたい。

《本当に我々は、自分の住む国の思想習慣の実際ないし理想のほかには、真理および道理の標準をもっていないようである》(第1巻第31章「カンニバルについて」)

 ◇

 昭和40年ころまでの我が家の食卓でもクジラが肉の代表だったのを覚えています。牛肉など高くて食べられなかったからでしょう。ところがそれから十数年後には、高級食材となっていました。桑原氏の言われる通り日本人の食文化からは遠い存在になってしまった感じは強くします。

 ところで桑原氏のコラムの趣旨は、他国の食文化に過剰に干渉する国際機関の理不尽さと、そこから脱退することへの肯定論だと思いますが、私も賛同します。

 クジラではありませんがイルカについても「セーリングのワールドカップ江の島大会の開会式でイルカのショーが開かれたことに対して、国際団体や参加選手から批判が集中し、日本セーリング連盟が11日に謝罪した。」という事案がありました。

 サーカスでよくみられる、ゾウやライオン、またその他の動物のショーも禁止の流れが起きているようです。確かに動物を愛護する観点から言えば、ショーを演じさせること、まして食することは残酷と映るのでしょう。

 しかし、では牛肉や豚肉、鶏肉はいいのでしょうか。自然の中での殺戮ではなく、人間が飼育しているものならいいのでしょうか。結局この問題は神学論争に近いと思います。ただ一つ言えることは、客観的に国際的な犯罪だと認識が及ばない限り「その国の食文化に干渉しないでほしい」、と言うことに尽きるように思います。

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