歴史・国際

2022年11月14日 (月)

「慰安婦少女像」撤去運動を行う韓国人たち「少女像は偽りと憎悪の象徴」、だが日本人は今どう動いているのか

2211071129_2714x476  日本の朝日新聞に代表される左派系反日新聞や、「自虐史観」を引きずる自称知識人を語る人たちは、中韓の捏造歴史に肩入れしているようですが、逆に中韓に捏造歴史を売り込んでいるのも事実です。その代表例が「慰安婦強制連行説」でしょう。

 朝日新聞が作り出したこの自虐捏造物語は、いち早く韓国に受け入れられ、元慰安婦被害者を作り出し、賠償と謝罪を込めた大々的な日本批判によって「河野談話」という、嘘で固めたストーリーを日本の政府に作らせました。日本軍をとてつもなく貶めた朝日の罪は極めて大きいと思います。しかし発覚後も簡単な虚偽報道で済ましている面の皮の厚さには、辟易としてしまいます。

 ところでその韓国は、国内のみならず世界中に「慰安婦像」をまき散らしていますが、そのお膝元韓国では少し変化が生じているようです。その詳細を韓国国史教科書研究所所長の金柄憲(キムビョンホン)氏が、デイリー新潮に寄稿した記事から紹介します。タイトルは『「慰安婦少女像」撤去運動を行う韓国人たち 「少女像は偽りと憎悪の象徴」活動理由を語る』です。

 現在、慰安婦少女像は韓国国内に150体、海外には34体が設置されているという。日本でも「表現の不自由展」で展示されてきたが、その撤去運動が韓国から始まった。親日であるだけで罪人扱いされる国で、なぜそんな活動が生まれたのか。その中心人物による寄稿。【金柄憲/国史教科書研究所所長】

 ***

「少女像の実物を見るのは初めて、と語ったある女性は、感極まったのか、少し涙ぐんだ」

 8月6日付で韓国・聯合ニュースが報じた日本の「表現の不自由展・京都」に関する記事の一節である。「検閲や社会的な圧力により展示中止に追い込まれたアート作品を集めて展示する美術展」と銘打たれたこの企画展で、黒いチマ(スカート)に白いチョゴリ(上衣)を着て裸足で座っている慰安婦少女像と向き合ったその女性は、乱暴に日本軍に連れ去られてひどい性的暴行を受けた幼い少女を思い浮かべたことだろう。

 韓国でもソウルの路線バスが、これと同じ少女像を前方の座席に座らせて市内を走り回り、多くの市民の注目を集めたことがあった。それを目の当たりにした市民の多くも、「表現の不自由展」を見た女性のように、涙ぐみ、罪悪感に苛まれたに違いない。

 こうした点で、この少女像を作った金運成(キムウンソン)・金曙(キムソ)ギョン夫妻のもくろみはかなり達成したといえる。

世界各地の少女像の撤去を求める運動

 目下、この少女像は日本各地を巡回中である。2019年、「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」で展示され、抗議が寄せられたために展示中止となった「平和の少女像」は、今年8月6、7日の京都に続き、同月25日から28日まで、名古屋で再び展示されることになった。

 このため私は、名古屋で展示中止を訴えるべく急遽来日し、街頭での抗議運動や記者会見を行った。同月26日には、この企画展の中で行われた少女像の作者、金運成氏とのトークイベントに飛び入り参加して、あのような少女像を製作した根拠を尋ねた。よもや私が名古屋にいるとは思わなかったのだろう、金氏は「慰安婦が証言している」とだけ言い、私の質問にきちんと向き合わなかった。

 私はいま、これら世界各地の少女像の撤去を求める運動を行っている。本稿でその一端をお伝えしようと思う。

デモに10人しか来ない日も

 韓国では、長年、日本政府に対して慰安婦への正式な謝罪と賠償を求める「水曜集会(デモ)」(毎週水曜開催)が、旧日本大使館前で行われてきた。だがコロナ禍で集会は制限され、感染拡大防止のために「一人デモ」の形を余儀なくされた。そして昨年11月1日、「段階的な日常回復」(ウィズコロナ)へ向けて防疫措置が緩和されると、申告さえすれば誰でも、人数に大きな制約を受けず集会ができるようになった。

 この緩和措置は、デモを主導する韓国最大の慰安婦支援団体「正義記憶連帯」(旧挺対協。以下、正義連)にとって、活況を呈した過去への回帰ではなく、場所を転々とする惨めで辛い集会の始まりとなった。ウィズコロナ後に初めて迎えた昨年11月3日の水曜日、正義連の集会は、約30年間守ってきた少女像の前から、隣の聯合ニュースビル前に締め出される屈辱を味わった。対抗する保守系団体「自由連帯」が先に集会の申告をしていたためだ。その1カ月後の12月1日には、聯合ニュースビル前から、国税庁の後ろにある狭い場所へと追いやられた。私が代表を務める「慰安婦法廃止国民行動」に場所を奪われたからである。

 以来、正義連は水曜デモを行う場所を探して転々とする、放浪の身となる。3年前の2019年8月14日の集会では、主催側推計で2万人にもなる人が押し寄せ、足の踏み場さえなかった。ところが資金流用問題や慰安婦との不和などが発覚し、いまはやっと10人を数えるという日も多い。隔世の感がある。

 正義連の水曜デモが少女像の前から完全に締め出されたと判断した私たちは、今年初め、各団体別に行っていた集会を一つにまとめ、「慰安婦詐欺清算連帯」という団体を結成した。普段は各団体ごとに活動しながら、大きな出来事があれば団結し、正義連への圧迫を強めるためである。

 その最初のイベントが、2月16日に行われた「私たちは友達!」がテーマの「韓日友好市民ハンマダン(集いの場)」だった。その日、旧日本大使館から見える聯合ニュースビル前には、日の丸と太極旗(韓国国旗)が翻った。以前なら「親日派」「売国奴」と罵られ、暴力が横行したはずだが、不思議なほど静かだった。慰安婦問題で少しでも異なる意見を出せば「極右の妄言」と非難したマスコミも静かだった。私は成功した行事だったと思っている。

 こうした勢いに乗って、海外にある少女像の撤去デモをしようという意見が出てきた。コロナが流行する前、ドイツ遠征デモを計画していた落星台経済研究所研究委員の李宇衍(イウヨン)博士の提案だ。提案はすぐに具体的な話となった。当初は、意気揚々とドイツ・ベルリンと米カリフォルニア州・グレンデールにある少女像前で集会を行おうとしたが、コロナ禍前に比べ2倍以上に値上がりした航空運賃と長距離旅行への負担から、米国行きは断念せざるを得ず、ひとまずドイツに向かうことになったのだ。

取材されるも報道はされず

 ドイツ・ベルリンのミッテ区には、ブロンズの少女像が設置されている。それに対する抗議活動を行うため、私は「慰安婦詐欺清算連帯」の朱玉順(チュオクスン)(「オンマ〈お母さん〉部隊」代表)、先の李宇衍、吉田賢司(通訳)とともに、今年6月25日から5泊6日の日程で現地を訪れた。

 旅立ちの日、仁川空港には意外にも公共放送「KBS」の取材チームが私たちを待ち構えていた。そこで私たちはベルリンの少女像を設置した「コリア協議会」(ドイツの韓国系市民団体。韓静和(ハンジョンファ)代表)に対し、慰安婦問題でうそをつかないことと少女像の自主的撤去を要求することが目的だと説明した。しかし、その内容が報道されることはなかった。

 14時間の長いフライトを経て、ベルリンのホテルで休息をとった翌朝、出国前に予め集会の申告をしておいた場所に向かう。私たちを真っ先に出迎えたのは、「表現の不自由展」と同じ着色されたFRP(繊維強化プラスチック)製の少女像だった。もともとあったブロンズの少女像の向かい、コリア協議会が陣取る場所に、同じ少女像が持ち込まれ、私たちをじっと見つめていたのだ。そこには数人のドイツ人と現地の日本人もいた。

 一方、ブロンズの少女像の方は、なぜか蚊帳(かや)に覆われていた。私たちが毀損するのではないかと考えたコリア協議会が保護幕として覆ったのだという。彼らの行動はいつも幼稚である。あきれるほかはない。もとより傷つけるつもりはなかったが、万が一、傷つけたなら、私たちは無事に帰国できたのだろうか。

「碑文の内容はすべてうそ」

「慰安婦詐欺もう止めよ!」と書いた横断幕設置とユーチューブ配信のためのスマートフォンのセッティングなど集会の準備を終え、少女像の台座に刻まれてあった碑文を読んでみる。2020年9月にこの少女像の除幕式が行われたが、その10日後、ミッテ区は一度、撤去命令を出しているのだ。その理由がこの碑文にある。

 問題になった文章はこう書かれている。

「第2次世界大戦中、日本軍はアジア太平洋地域で無数の少女と女性を強制連行し、彼女たちに性奴隷生活を強いた」

 碑文の通りなら、慰安婦たちは日本軍に拉致され、戦時性暴力のもと性奴隷生活を強要された「戦争犯罪被害者」になる。そして少女像はそうした被害者を象徴する造形物ということになる。

少女像もうそ

 国際紛争の進行中に敵軍や占領軍により行われた拉致・強姦・殺人などの行為を一般的に戦争犯罪と呼ぶ。だが当時、朝鮮は日本の占領地でなかったばかりか、朝鮮の女性は日本国民でもあった。さらに日本軍慰安所は占領地女性に対する戦争犯罪防止のために設置・運用された合法的な売春空間であり、慰安婦は慰安所の経営者と契約を結んだ後、身分証明書の発給を受けて出国しており、現地に到着してからは領事館・警察に各種書類を提出して営業許可を得て金を稼いだ職業女性たちだった。

 戦争犯罪の被害者という主張は通らない。

 少女像も同様にうそだ。少女像の作家、金運成・金曙ギョン夫妻の『空いた椅子に刻んだ約束』という本には、「日本軍の甘言に乗ったり強制的に戦場に連れて行かれた10代初めから中ごろの幼い女性を作品で表現するため、11歳の自分の娘をモデルに、13歳から15歳の少女の姿として少女像を製作した」と書かれている。

 しかし当時、日本軍慰安婦は17歳以上でなければ営業許可を得られなかった。だから13~15歳の少女が日本軍慰安婦になることはできない。日本軍に連れ去られたという話も、13~15歳の少女という話もみんなうそなのだ。

妨害された集会

 ドイツのコリア協議会は、慰安婦が戦争犯罪の被害者であるという主張とともに、ホロコースト犠牲者のユダヤ人と同じだとする主張までためらうことなく行っている。これもまったく話にならない。第2次世界大戦でナチスに虐殺されたユダヤ人は数百万人に及ぶといわれるが、日本軍に殺害された慰安婦は一人も報告されていない。

 日本軍兵士は、慰安所規定により定められた時間に定められた料金を支払わなければ、日本軍慰安所を利用できなかった。慰安婦の中には高額の収入でルビー、翡翠、ダイヤモンドのような宝石を購入する者もいれば、故郷に生活費や学費などを送る者もいたとの証言もある。戦争犯罪の被害者であるだけでなくホロコーストの犠牲者と同じだとするコリア協議会の主張は荒唐無稽だ。

 だから私たちは集会を通してコリア協議会に「うそをつくな」と訴え続けたのだ。

 私たちが少女像周辺で集会をしていると、コリア協議会は、やじを飛ばしたり自分たちのスピーカーの音を大きくしたりする方法で私たちの声が聞こえないように邪魔をした。ある人は中指を上に立てて悪口を吐き捨てた。「平壌で会おう」という文言が印刷されたシャツを着た人が、北朝鮮国旗が貼られたボードを持って周りをうろついた。そして慰安婦被害者だとして彼らが掲げた写真のほとんどが朝鮮人ではなかった。こうしたコリア協議会の非理性的な演出は、29日まで行われた7回の集会で何度も繰り返された。

偏向的な報道

 慰安婦問題が今日のように世界的な注目を浴びるようになったのは、真実の報道に背を向けたマスコミの責任も大きい。初日の集会を終えて車に乗ろうとすると、聯合ニュースの記者を名乗る女性が声をかけてきた。私たちがなぜ来たのか、どんな主張をしているのか、今後の計画は何なのかなどと質問されるのかと思ったが、記者の質問は「ホテルはどこですか?」がすべてだった。

 そして、翌日報道されたベルリン発の聯合ニュースの記事は、コリア協議会の立場を代弁する広報紙と見間違えるほど偏向的な内容だった。国内で聯合ニュースの記事をそのまま書き移す他のメディアは言うまでもない。偏向的な報道はある程度予想していたが、これほどひどいとは思わなかった。

 だから私は、韓日関係に関する限り、大韓民国のマスコミは「カレイ・ヒラメ族」だと言うようにしている。両目があるにはあるが一方向しか見られないためだ。

期日を過ぎても撤去されず

 コリア協議会は、慰安婦が戦争犯罪の被害者でありホロコーストの犠牲者と同じだといううそにとどまらず、ベルリンの少女像を永久存置すべきだとも主張している。これは韓国の正義連とマスコミも同様の立場だ。

 だがミッテ区の少女像は、都市空間芸術委員会の審議を経て1年単位で契約を結ぶ展示造形物である。契約期間が過ぎれば直ちに撤去すべきものだ。

 設置直後に碑文の内容が問題になって撤去命令が出されても、コリア協議会は行政訴訟、署名運動、請願書、デモなどあらゆる手段を駆使してこれを阻止しようとした。そればかりかミッテ区議会の左派政党の支援まで要請したのだ。

 左派が多数のミッテ区議会は、少女像の存置を圧倒的な票差で議決し、撤去命令を無力化した。とはいえ議会の決定は永久存置を意味するのではなく、当初の契約通り1年間だけ展示できるというものだ。2021年9月にミッテ区は、コリア協議会の申請を受け入れ、1年延長したものの、今年9月28日までと釘を刺している。つまり最初の契約から一度だけ更新し、2年間展示できるようになったわけだ。もっとも期日を過ぎても撤去されていない。

問題の本質は「貧困」

 このようにコリア協議会はこの契約内容も無視し、あらゆる手段を使って永久存置させようと、ゴリ押しの活動を展開している。ウィーン条約違反の日本大使館前の少女像設置や「集会・示威に関する法律」(集示法)に反する30年間の水曜デモとなんら変わらないやり口だ。韓国には「水が漏れるヒョウタン(器)は外で使っても水が漏れる」(訳注:自分の家でさえ問題のある者は外でも問題を起こすという意味)ということわざがあるが、その通りになってしまった。

 慰安婦問題の本質は貧困である。かつて国が貧しく、親も貧しかったため、家族のために自ら犠牲になったり、親がわずかばかりの金を受け取って自分の子を歓楽街に送り込んだりした。彼女たちが慰安婦になった経緯は多様だが、それはほとんどが貧困のために起きた、恥ずかしくも悲しい私たちの自画像である。

 不幸な歴史も歴史なのであり、記憶し反省しなければならないのは当然だが、必ず歴史的事実を前提にしなければならない。しかし、これまで正義連が主導した慰安婦運動は、慰安婦の歴史を丸ごと歪曲・捏造してきた。慰安婦少女像はこうして捏造された情報を基に製作された偽りと憎悪の象徴なのである。

うそを基にした表現まで尊重するべきなのか

 少女像は現在、韓国国内に150体、海外に34体も設置されている。その上、日本では「表現の不自由展」という名の企画展にまで登場し、多くの人々に慰安婦に対する歪曲された認識を植え付けている。この展示は既に京都、名古屋、神戸に巡回し、さらにさまざまな都市に場を移しながら続くというので心配でならない。

 表現の自由が尊重されねばならないのは当然だ。だがうそを基にした表現まで尊重する理由はない。

 ミッテ区に設置された少女像や「表現の不自由展」で展示された少女像には「平和」という言葉が掲げられているが、平和とは程遠い偽りと憎悪の象徴物でしかない。真の平和は真実と向き合う時に得られることを肝に銘じるべきなのである。

 金柄憲氏は慰安婦法廃止国民行動代表も務めていて、慰安婦像の廃止と慰安婦像の由来の是正を一所懸命やっています。日本にこれほど慰安婦に関して、積極的にその嘘を暴こうとしている団体があるのだろうかと、日本の取り組みを疑問視しています。

 そもそも何故この歴史の真っ赤な嘘が、是正されないまま今日に至ったのでしょうか。朝日新聞や河野談話の責任があっても、その時点でこの嘘を徹底的に潰すことを怠った真の原因は何処にあるのでしょうか。

 旧統一教会問題で、日本人、特に女性の信者が、自虐史観を元にした「韓国元慰安婦に酷いことをした」という嘘を植え付けられ、大枚の献金を要求されたという話もあります。すべてがこの非難や中傷をうやむやにしてきた、政府やメディアに責任があるのではないでしょうか。

 旧日本軍兵士へのとてつもない侮辱を含んだこの慰安婦捏造問題に、韓国人だけではなくむしろ日本人が深く関わって、是正するよう求めます。戦中の慰安婦問題と戦後の拉致問題は、日本の腰砕け外交の象徴として大反省すべき事案だと強く思います。

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2022年1月30日 (日)

史実をねじ曲げ反日を続ける韓国に、今こそ正論でもって反論大攻勢を

Hqdefault_20220130101001  28日岸田首相は、「佐渡島の金山」の世界遺産登録申請を決断しました。この決断とその経緯に関し、産経新聞は次のように伝えています。

佐渡金山 世界遺産に推薦へ 慎重論覆し首相決断

岸田文雄首相は28日、「佐渡島の金山」(新潟県)を世界文化遺産に登録するよう国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦する方針を明らかにした。韓国が戦時中に朝鮮半島出身者らへの「強制労働」があったなどと反発し、政府も一時見送る方向で調整したが、最終的に首相が韓国側の主張は事実誤認で国際社会に真実を訴えるべきだと判断した。推薦書の提出期限である2月1日に閣議了解する見通し。正しい事実関係を国際社会に訴えるため、省庁横断型のタスクフォースを立ち上げる考えも明らかにした。

佐渡金山をめぐっては、文化審議会が昨年末に登録に向けた国内候補に選出した。この際、韓国外務省が「強制労働させられた被害の現場だ」などとして、即時撤回を求めていた。

政府は「強制労働」は事実誤認で「独自の主張は受け入れられない」(林芳正外相)とし、韓国側に抗議した。ただ、外務省には、韓国が慰安婦資料の登録を目指した「世界の記憶」(世界記憶遺産)に関連し、関係国が合意しない限りは申請しない制度改革を日本が主導した経緯も踏まえ、推薦に慎重論も強かった。

しかし、今回の申請対象は「江戸時代まで」に限定しており、勤務した朝鮮半島出身者らには給与などが支払われている。自民党の保守系議員からは「論戦を避ける形で申請をしないというのは間違い」(安倍晋三元首相)などと推薦を求める声があがっていた。

首相は地元が推薦を強く求めたことや、見送った場合は韓国側の主張を黙認したような印象を与えかねないことも考慮し、推薦を最終決断した。

一方同産経新聞は、この決断に先立ち、韓国側の「強制労働」主張に対し、次のような阿比留瑠比氏の反論のコラムを掲載しています。

韓国「強制労働」放置なら禍根残す

24日の衆院予算委員会での自民党の高市早苗政調会長の質問を聞いていて、政府が何と答弁するか耳をそばだてた場面があった。高市氏が昭和34年の外務省記事資料の内容について、現在も政府の公式見解か否かを問うたところである。

高市氏は資料の内容について具体的に触れなかったので、国会中継を見ていてもよく分からなかった人もいることだろう。そこで補足すると、資料にはこう記されている。

「現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する」

「現在登録されている在日朝鮮人の総数は約61万人であるが、最近、関係省の当局において、外国人登録票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち、戦時中に徴用労務者としてきたものは245人にすぎないことが明らかになった」

「現在日本に居住している者は、前記245人を含みみな自分の自由意思によって日本にとどまった」

また、昭和14年から20年の終戦直前までに約100万人も増加した内地の朝鮮人のうち、①約70万人は自ら職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加②残りの30万人の大部分は鉱工業、土木事業などの募集に応じて自由契約に基づき渡来した③国民徴用令により導入された徴用労働者の数はごく小部分であり、所定の賃金などが支払われている-とも明記されている。

この資料は高市氏が「そんな古い資料はもうない」と渋る外務省に探させたところ、「昭和35年の『外務省発表集10号』の中にあった」と提出してきたものである。記事資料とは「外務省の正式発表のうち、外務報道官としての公式見解などを表明するもの」と位置づけられている。

高市氏は12年前、民主党の鳩山由紀夫内閣当時の平成22年3月の衆院外務委員会で、岡田克也外相に同じ質問を投げかけている。岡田氏の答弁はこんなそっけないものだった。

「ちょっと今、急に聞かれても私、把握しておりませんので分かりません」

そこで岸田文雄内閣の答弁を注目したところ、林芳正外相はこう答えていた。

「ご指摘の記事の資料の存在について承知をしている。数字などが正確であるかどうかについては、それを否定する客観的な情報はないということだが、現時点で詳細について確認することはできないため、お答えするのが困難だ」

なぜわざわざこんな曖昧な答弁をするのかはよく分からないが、「否定する客観的な情報はない」のだったら、現在も政府の公式見解だということになる。

高市氏が国会でこの問題を最初に取り上げたのは、もともと民主党政権が永住外国人への地方参政権付与を目指していたことが背景にある。

例えば、当時の原口一博総務相は「自分の意思に反して(日本に)連れてこられた人が、地方で投票の権利を持つのは日本の国家として大事なことだ」と主張していた。この認識自体が大間違いなのである。

ただ、悪貨が良貨を駆逐するように、悪意ある誤情報が事実を覆い隠し見えなくすることは少なくない。在日韓国・朝鮮人は強制連行されたから日本にいるわけではない。

「佐渡島の金山」(新潟県)の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産への推薦に関しても、一番重要なのは登録の可否ではないのではないか。

韓国が「韓国人の強制労働の被害現場だ」と虚偽に基づく宣伝戦を仕掛けていることに対し、受けて立つか立たないかこそがまさに問われている。

岸田首相自身も24日の衆院予算委で、昨年4月に閣議決定した「『募集』、『官斡旋(あっせん)』及(およ)び『徴用』による労務については、いずれも強制労働に関する条約上の強制労働には該当しない。これらを『強制労働』と表現することは適切ではない」との政府の立場を踏襲すると答弁しているではないか。

「いわれなき中傷には毅然(きぜん)と対応していく」

岸田首相はくしくも、昭和34年の外務省記事資料と同じ「中傷」という言葉を用いてこうも述べた。中傷とは、「ありもしないことを言って他人の名誉を傷つけること」であり、高市氏のいう「国家の名誉にかかわる事態」を座して見過ごしてはならない。

韓国による中傷を放置すれば禍根を残す。

 ◇

 今回の「佐渡島の金山」の世界遺産登録に関し、真っ先に慎重姿勢を示したのは外務省でした。理由は「韓国の反対のリスクがある」と言うことでした。登録審査には審査国の全会一致が原則で、韓国が反対に回れば、登録できないというものです。

 これなどまさに、今まで日本が中韓などの歴史戦に負け続けてきた、根本要因です。戦わずして負けを認める、こんな腰が引けた外交を続けてきたからこそ、今の韓国の日本への高飛車な態度を作り上げてしまったのです。

 しかもこの件に関しては、阿比留氏の指摘の通り、歴史的な根拠はありません。堂々と論破すればいいだけの話です。それに対し外務省は韓国の執拗な反対に怖じ気づいたのでしょうか、登録申請を躊躇していたわけです。国益を全く考えず、難敵だからといって反論すらしようとしない、こんな外務省は日本に要りません。幹部を含め総入れ替えが必要でしょう。

 そして史実をねじ曲げ、無理難題をふっかけてくる韓国に対しては、政府も外務省だけに頼らずに、安倍元首相や高市政調会長、民間の櫻井よし子氏や門田隆将氏のような保守論壇を前面に立てて、徹底論破していくべきでしょう。慰安婦も徴用工も含めて。

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2021年11月29日 (月)

戦後の韓国はなぜ世界の最貧国だったのか? 活用されなかった日本の資産

83795d25  「漢江の奇跡」と言う言葉を韓国人はよく使います。1965年に締結した日韓基本条約を締結後、日本は韓国に無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの合計8億ドルの経済援助を韓国に与えています。これがその奇跡の大きな母体になったのですが、韓国は国民にその詳細を開示せず、独力で奇跡を起こしたと喧伝しました。

 それまで韓国は世界の最貧困国だったのです。国内総生産 (GDP) はあの北朝鮮をも下回っていました。なぜそうだったのか、在韓ジャーナリストの藤原修平氏がJBpressに寄稿したコラムから紐解きます。タイトルは『戦後の韓国はなぜ貧しかったのか? 活用されなかった日本の資産 「帰属財産研究」で明かされた韓国政府の「でたらめ」な管理』(11/28)で、以下に引用して掲載します。

 ◇

M83032351515_4  爽快な一冊と言うほかはない。『帰属財産研究』(李大根著、文藝春秋、2021年10月発行)は、それまで視界を遮っていた濃霧がすっかり消えたような読後感だった。

 終戦により朝鮮半島から引き揚げた日本人が現地に残した莫大な「帰属財産」は、その後、十分に生かされなかった。これまで誰も語ろうとしなかったその真実を、沈着冷静に剣を振り下ろすかのような鋭利な分析力で明快に解き明かしている。

 韓国で暮らしているとそんなことは小耳にも挟まない。それどころか、「私たちは解放後、本当に貧しかった」という話が、神話のように延々と語り継がれ、だから日本支配が悪かったんだ、と言うのだ。

潤沢だったはずの日本資産

 著者の歴史学者、李大根(イ・デグン)が本書に取り掛かろうとしたのは、韓国戦後史のこうした固定観念に対して疑問を抱いたからだ。まずこの著書では、日本の台湾・朝鮮統治の特殊性が指摘される。

 西洋列強の植民地支配と大きく異なるのは、日本はこれらの地域のインフラを整備して産業化を極めて積極的に進めた点だ。資料を見てみると、戦後に引き上げていった日本人は財産をすべて処分したわけではない。それどころか朝鮮半島の各地には、日本が統治時代に築き上げた近代的な建造物やインフラに満ち溢れていたはずなのだ。

 監訳者の黒田勝弘(産経新聞ソウル駐在特別記者兼論説委員)もまえがきで触れているが、1951年から14年もかかった日韓国交正常化交渉のなかで、そうした資産をめぐる「日本側の請求権」が問題になっていた。日本資産はそれほど膨大な額に及ぶ。

 本書はまず、解放直後どころか1960年代に入るまでの韓国は、日本統治時代からの「高度な工業化と経済発展」の延長線上にいたと指摘する。そしてそれをあえて無視した「世界最貧国」という、韓国が自国に対して抱き続ける固定観念こそ、そうした事実への「全面的な無知の所産であり、言語道断」だと切り捨てる。

 では、潤沢だったはずの日本の資産は、いったいどのような扱いをされたのか。

 解放後、まずはアメリカの軍政がすべて接収して、一部小規模のものを韓国の民間人に払い下げるなどしたのち、残る大部分を1948年に成立した大韓民国政府が譲り受けた。だが米軍政にしても韓国政府にしても、膨大な帰属財産の管理が実に杜撰であった。そのため活用が不十分で、その状態が朴正煕政権の成立時点まで継続する。本書の読みどころは、その全容が数々の資料をもとに暴き出されていく点である。

韓国政府の「でたらめ」な管理体制

 詳細はご一読を乞うのだが、米軍政の場合は「米国式の理想主義に偏りすぎて韓国の実情に合わない非現実的な政策を追求したり、確固たる原則や一貫した方針もなく」管理していた。

 これは大韓民国初代大統領の李承晩(イ・スンマン)の姿勢と重なっている。李承晩は「米国式の自由企業主義に対する確固たる信念を持っていた」うえに、帰属財産の譲渡を受けた際に、アメリカと「帰属財産の引き受けと管理を行う別途の機構を設置することで合意」したのにそれを履行しなかったのだ。

 もちろん、アメリカは痺れを切らして韓国側に抗議する。だがその後も、「でたらめ」で、いわばだらだらとした管理体制が続いていく。

 帰属財産を効果的に活用したのが、日本式の経済構造を積極的に取り入れた朴正煕(パク・チョンヒ)政権であった。だがそれ以前の韓国政府は、自分の政治的イデオロギーに侵されて、本来活かせるはずの産業資産を、活かすことができなかった。それが成立直後から60年代初頭までの韓国政府の失態であったのだ。

 ここで紹介したのは、ごく一部でしかない。本書を紐解けば、米軍政が帰属財産の扱いでいかに手をこまねいたか、そして、引き継いだ韓国政府がそれをいかに蔑む資材として見ていたか、そのうえ、それを取り巻く韓国社会がいかに利己的で自分たちの利益に固執していたか、が手に取るようにわかってくる。

「開港前の未開社会」に戻りかねない

 そしてもうひとつの醍醐味を最後に挙げておくと、元々は2015年に韓国で発行された本書は、まるで大統領選挙を控えた今現在の韓国を物語っているようにも思えるのだ。日本との関係改善を政策の前面に押し出す尹錫悦(ユン・ソギョル)氏と、日本統治時代の痕跡を全て消し去ろうとする李在明(イ・ジェミョン)氏。

 李氏は、日本統治時代に入ってきた日本語由来の韓国語を別の言葉に代えようと躍起になっている。先日も「産婦人科」という名称は「日帝の残滓」であるから「女性健康医学科」に健康すべきだと発言している。

 国境を越えた関係を築くべきグローバル時代において、まったく逆行する話だ。そういえば、最近は法律用語を変えようという動きもあると聞いている。

Ol01  これを予言するかのように、本書の最終章の最後には、次の言葉が置かれている。

〈ひと言でいって「言語民族主義」の極致である。専門的な学術用語は言うまでもなく、法律、行政、経営、技術などの分野での専門用語が日本式表現であるからといって「使用不可」のレッテルを貼ったとすれば、結果はどうなるであろうか。恐らく韓国は、再び1876年の開港前の未開社会に戻るであろう。〉

 ◇

 その未開社会から韓国を救った日本の統治を逆恨みし、戦後も未開の延長線上の「帰属財産」の杜撰な管理により、世界の最貧国にあえいでいたにもかかわらず、日韓基本条約を元にした日本からの大枚の資金を、国民に伏せて利用して「漢江の奇跡」を自身で成し遂げたと、自慢する韓国。なんとも浅はかで卑しい態度なんでしょう。

 自身では全く統治できなかった未開の国を、日本が大枚の投資をしてインフラを整備し、法制度を整え、産業を発展させ、教育を振興させたことは、今どれだけの国民が知っているのでしょうか。中国の言論統制ほどではないにしろ、韓国もまた親日的な言論はかなり強固に封じられています。この未開の国が開国するのは、果たしていつになるのでしょうか。

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2021年11月 8日 (月)

朝日の記者が拡散した「南京大虐殺」は中国軍の仕業だった

Images_20211107211701  今回は「南京大虐殺」を取り上げます。この「南京大虐殺」は「慰安婦強制連行」と同様、戦後朝日新聞の記者が真実かどうか調査もせず拡散した、もっとも忌まわしい事件の一つです。私は以前この事件の詳細について、田中正明氏の著書「南京事件の総括」で知り得ました。

 ここではこの事件の概要を、元陸将補の森清勇氏が2年半前に、JBpressに寄稿したコラムから引用して掲載します。タイトルは『「南京大虐殺」は中国軍の仕業だった 南京入城時の内外紙の報道から検証した本当の歴史』(19/1/9)です。

 ◇

 中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。

 しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。

 河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が「虚偽だった」と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。

 一方、習近平主席が2015年の公式訪英時、エリザベス女王主催の晩餐会で「日本侵略者の暴行を暴く記事を発表した」などと英国人記者を称賛して中英の友情物語として紹介したことがある。

 ところが、岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)氏の調査で件の記者は南京に行っていなかったことが判明した。筆者はこの失態の影響もあるのではないかと思料している。

 嘘は大きければ大きいほど愛国心が強い証とされた「愛国虚言」ゆえか、本多氏のルポルタージュ「中国の旅」(1971年)以来、「南京大虐殺」は拡大の一途をたどり独り歩きしてきたが、展示品の撤去や事実を確認しない虚偽の紹介は、矛盾の露呈ではないだろうか。

そもそも「南京事件」とは何か

 支那事変(日中戦争、日華事変とも呼称)は、北京近傍の盧溝橋事件(1937年7月7日)で始まり、3週間後の29日には日本人居住地を守っていた中国の守備隊が反乱を起こし、250人余の猟奇的殺害、処刑を行う通州事件が起きる。8月9日には上海に拡大した。

 「中国に深入りするのは泥沼に踏み込むようなものだ」と不拡大を主張していた参謀本部の第1部長石原莞爾少将や慎重論の米内光政海相も堪忍袋の緒を切らし、作戦を限定する方針のもとに上海への出兵に同意する。

 9月にかけて2個師団強(第3・第9師団、1個支隊)が松井石根大将を総司令官とする上海派遣軍として派遣された。

 他方、蒋介石の中国側はドイツから招いた将軍の指導下にチェコ製機関銃を配備するトーチカを構築して、75個師団(約75万人)の大兵力を布陣していた。

 日本側は苦戦を強いられ、11月には予備役まで招集した第10軍(第6・第101師団、1個支隊)を増派、北支から第16師団も転用して上海派遣軍に編入し、中支那方面軍(司令官松井大将)を編成した。

 5個師団基幹でも総兵力は約7万人で、国民党軍の10分の1以下でしかなかった。

 蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受け、20キロを進むのに1か月余を要した。

 その後の南京までの三百数十キロの追撃が30日であったことからも、上海戦の激烈さが分かる。

 日本軍が南京攻略戦を開始したのは12月8日である。蒋介石は前日に南京を脱出する。

 松井方面軍司令官は9日16:00に翌日正午までの停戦命令を出し降伏を勧告するが返答なく、10日13:00に攻撃を再開した。

 日本軍の攻城に耐え切れず南京防衛軍司令長官の唐生智が12日夜脱出すると、13日早朝に南京は落城する。その後城内の掃討戦を行い、17日に松井司令官を先頭に入城式を行う。

 日本軍の意向もあって、12月23日には早くも南京市自治委員会が成立し、翌1938年1月1日を期して発会式を挙行している。

 城壁上に上がった陶錫三会長は城下に集う民衆に対して「ここに敵の主都は甦生へのスタートを切った」と宣言する(「アサヒグラフ」昭和13年1月26日)。

 「南京事件」と言われたものは、米人宣教師たちが後々の布教のために、「城内における日本軍の暴行」をでっち上げ、国際世論や南京市民の支持を得るプロパガンダであったとされる。

 従って、城内の暴行報告は日本軍の南京入城(12月13日)から翌38年2月上旬までの約6週間であった。

 しかし、この間の暴行報告を見ても強姦、掠奪、放火などで数も多くなく、虐殺と思われるような事象は見られない。

 事実、南京戦以前は100万人いた市民の多くは戦火の拡大と共に脱出した。

 残った20万人もドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が設定した安全地帯(安全区や難民区などの呼称もあり、皇居前広場の約4倍)に収容され、安全区外の城内にいる市民はほとんどいない状況であった。

 しかも、城内の人口は日本軍の入城後も減ることはなく、2月頃は25万人と推定されるまでになっていた。

 この時点で南京市民虐殺30万人説は成り立たず、「南京大虐殺」の虚構は崩れ去る。

 しかし、大虐殺は「あった」派は満足せず、何時しか上海戦から南京攻略に至るまでとしたり、南京攻略戦以降の数か月にわたる期間などとするように変化させていく。

 また、歴史家で「日本『南京』学会」理事でもある冨澤繁信氏は、大虐殺の出発点となった6週間内の「南京安全地帯の記録」を丁寧に翻訳・研究し、安全地帯の記録で「兵士」と書かれているのを一方的に「日本軍兵士」とする恣意的誤訳などを指摘している。

Unnamed_20211107211701 本多氏『中国の旅』での記述

 日本軍が南京に近づく状況を本多氏の『中国の旅』は、「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」と書いている。

 日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断する。

 そこに大衆が押し寄せると、「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる・・・大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。

 日本軍は「二つの門を突破して、南京城外へくりだした。長江ぞいに下流(北東)へ、・・・と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。・・・このときまでに、南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」と記している。

 本多氏に語る姜根福氏は「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます」と語る。

 続けて、「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうして歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」と語るのである。

 このわずかな引用でも異常な殺し方が見られるが、姜が伍長徳さんから聞いた話として次のような記述がある。

 「(日本兵は)逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた」

 「・・・下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と皮が離れたりしていた」

 「(化学工場では)強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食った」

 残酷な殺し方が出てくるが、日本人にはなじめない方法ばかりである。

 中国の古典『資治通鑑』にはこうした殺し方が記述されていると言われ、正しくこれらは中国4000年の歴史でしかないようだ。

 なお、南京は幾度も事変に見舞われ、その度にこうした殺戮が繰り返された都市でもある。

ごまかしに終わった藤岡氏との誌上討論

 「週刊文春」(2014.9.4号)が「朝日新聞 売国のDNA」で、「本多氏は事実とかけ離れた『南京大虐殺30万人説』を流布させた人物だ」として、上述の「歴史上まれに見る惨劇・・・」を引用したうえで、藤岡信勝拓殖大学客員教授の「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」とのコメントをつけていた。

 このコメントに対し、「週刊金曜日」編集部から「週刊文春」編集部に「公開質問状」が届く。

 両者の意を受けた両編集部が相談した結果、誌上での公開討論を5回行うことになるが、藤岡氏の第1信に対する本多氏側の「週刊金曜日」からは本多氏とA記者が対談する変則的な形の第1信が届く。

 これでは2対1の討論で、しかも討論相手の本多氏の発言は10%位(全5信の文字数6000字中の比率)でしかないという。

 藤岡氏が「本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の『A記者』なるものと討論することを承諾した事実はない」から「心底驚き、呆れた」「卑怯であり卑劣である」「責任逃れ」だと詰るのも頷ける。

 平行線というか不毛に終わったように、日中間の最大の歴史戦は南京事件である。

 当時、南京に派遣された特派員は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また「アサヒグラフ」などの写真報道も盛んに行われた。

 こうした資料が「南京事件」を全くと言っていいほど扱っていないのは、そもそも事件は「なかった」という最大の傍証ではないだろうか。

 筆者がJBpress『欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の「中国の旅」―「柳条湖」をルポルタージュで「柳条溝」とした顛末から読み解く』に見たと同じく、当時の史料や関係者の発言などよりも中国側が長年にわたってシナリオを練り脚色した言説を信じるという「本多ルポルタージュの破産」(殿岡昭郎氏)ではないだろうか。

記者たちは真実の報道を怠ったのか

 南京城を陥落させるまでの数日間は城外で激戦が続くが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどない。

 20万人と言われた市民のほぼ全員が安全区に避難し、安全区以外の城内外にいたのは中国の兵士だけであったとみられているからである。

 石川達三など一部の作家が日本兵士の悪逆非道ぶりを見たように東京裁判前に新聞に書いたが、後に「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。・・・(自分が以前書いた)あの話は私は今も信じてはおりません」と否定している。

 当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真がほとんどである。

 しかし、8年後の南京裁判と東京裁判で、突如として20万とも30万とも言われる虐殺を日本軍がやったとして被告席に立たされる。

 戦闘に関わった万を数える将兵や当時現地で取材したほとんどの記者たちも、初めて聞く話に驚き、狐につまされた感じであったと述べている。

 前述の通州事件はたった1日の出来事で、記者らしい記者もいなかったが、翌日からは各紙が報道した。

 一方、6週間にもわたった南京戦では200人を超す内外記者・カメラマン、作家・画家、内外の外交官などが居合わせながら、誰一人として「虐殺」など語らなかったのだ。

 松井石根・中支那方面軍司令官は入城に先立ち9日、唐生智・南京防衛司令官あてに降伏の勧告を行っている。

 主旨は南京には歴史遺産が多くあり破壊するに忍びないし、また罪のない民衆が傷つくおそれがあるので南京を開放せよというものであった。

 しかし、指定時刻になっても南京城からは何の反応もなく、勧告を無視したので攻撃命令が発せられた。日本軍は激しい攻城戦を繰り広げながら包囲網を確実に狭めていった。

 南京を逃れて重慶に政府を移転した蒋介石さえ、内外への宣伝と支援要請のため開いた300回もの記者会見で「虐殺」には言及していない。

 のちに政権を取る毛沢東も「自分が政権を取れたのは皇軍のお蔭」とは述べるが、虐殺非難など一切しなかった。

 「虐殺」ほど世界を驚かし、同情を誘い支援要請に好都合な宣伝であろうに、「一切しなかった」、いや「できなかった」のはなぜか。答えは言うまでもないであろう。

暴虐を働いたのは支那兵だった

 1937~38年の日中戦争当時、蒋介石や国民党軍の行動を実見した米国人ジャーナリストのフレデリック V. ウイリアムズは、『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』(田中秀雄訳)で、蒋介石の国民党が米国を巻き込んで、残虐極まる中国軍を糊塗して、悪逆非道の日本軍とするプロパガンダ大戦略を練り展開する状況を記している。

 本多氏の「中国の旅」は、中国にとっては「飛んで火にいる夏の虫」を捕えた場外延長戦ではなかったのだろうか。

 宣伝に長けた中国共産党のプロパガンダで、仕組まれた成果は「南京大虐殺記念館」の建設(1985年)にも繋がっていったのであろう。

 大阪朝日新聞(12年12月10日付)は、「負傷兵締め出し」「非人道極まる支那軍」の見出しで、ニューヨーク・タイムス南京特派員の9日の報道を転載している。

 日本軍に圧迫されつつある支那兵が化学戦研究所や金陵公園内の政府要路の大人たちの広大美麗な邸宅に放火しているというのである。

 同時に、中国人負傷兵が城内に入って中国軍から手当てを受けるのを締め出すために門を閉ざしたと伝える。

 それどころか、城内で治療を受けていた負傷者までが城外に追い出され、自力で城壁を迂回して揚子江へ出るか、野垂れ死にする以外にない状況に置かれたとの報道である。

 日本軍との城外での熾烈な戦闘の一方で、支那軍自身が自国民や負傷兵士を手当てするどころか、死に至らしめている状況を作り出していたのである。

 同紙はまた、「狂ふ支那軍の大破壊」「外人の軍事専門家呆れる」の見出しも掲げ、中立国の軍事専門家がニューヨーク・タイムス南京特派員に語ったことを報道している。

 それによると、「日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆んど軍事施設に限られてをり、これを全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にもたらぬであろう」というのである。

 「支那軍は退却に当たり、不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟を後に残して、これを日本軍に占領させた方が、ただ空しく退却するよりは、彼らの威信を高めるものだと信じてゐる」からだという。

 そして「今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなしえぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあらう」とも述べる。

 日本軍の手の届かないところで、南京市民や負傷兵たちがほかならぬ中国軍によって死に追いやられている状況を遺憾なく示していたのである。

 このように、中国政府や中国軍は、市民たちをあっさり棄民として見捨て、われ先にと安全なところに逃げて行った。

 日本軍が入城した時に見た死体などの光景は、中国軍が自国の市民を死に追いやった姿であったのだ。

 姜根福が語った「南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」というのは、中国軍の仕業であったことが図らずも証明されるのである。

全体的に平穏な南京城内

 同盟通信社の前田雄二記者は開城と共に入城するが、「まだ戦闘は終わってはいない。城内の中国軍は統制を失ってはいたが、各要所に立てこもって一歩もひこうとしない部隊であった」と相手のタフネスについてもしっかり記録している。

 そして「浅井、祓川、高崎などのカメラは、この市街戦をとり続けた」(『戦争の流れの中に』)と書いている。このように、城内の戦闘状況を撮りつづけていた同盟通信社のカメラマンだけでも3人がいたのである。

 当時の新聞などは戦闘状況を報道しているだけで、「南京事件」を報じていなかった。先ほど述べたように、むしろ退却する中国軍の悍ましい状況を報道している。

 当時のアサヒグラフなどの写真を見ても、大人も子供もにこやかな顔の写真が多く、日本軍の入城を歓迎したという話はあながち嘘でもなかったことが分かる。

 そうした中で、蒋介石の宣伝戦に協力する外国人(特に米国人宣教師など)や外国メディアが外電で針小棒大に事件を仕立てて報じたわけで、実際に戦争に関わっていた将兵や数百人もいた報道記者たちにとっては、初めて耳にすることで吃驚仰天以外の何物でもなかったというのである。

 戦後の中国共産党は、戦前・戦中の報道や東京裁判での判決などをベースに、日本に対し三戦でゆさぶりをかけているわけで、吟味なしに被災者たちの声を直接伝えることは、共産党の広報員になったも同然ではなかろうか。

 今日においても日常的に、自己正当化や数値の操作などは共産党が得意とするところである。

 南京の事象を日本軍の暴行として報道する外国人教授や米国人宣教師たちはどこにいたか、主として安全区に避難していた。

 危険地帯を歩き回っている記者やカメラマンらの目と、安全区に保護されている欧米人の目と、いずれが信ずるに足るというのだろうか。

 午後は残敵掃討戦になる。

 「敵は陣地を放棄する時は建物に火を放つので、黒煙がもうもうとあがる。砲火と銃声がひびきわたり、市内には凄愴の気がみなぎった。住民の巻きぞえをくうものもあり、中国軍の遺棄死体は多数にのぼった」と前田記者は記す。

 また「多くは兵服を脱いで住民に成りすました」とも述べている。

 前田記者は13日から15日にかけ、何回となく南京城内を車で見て回っている。旧支局が安全区内にあったということで、15日には安全区に入っている。

 「店はまだ閉じていたが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた」という。

 報道写真からもそうした情景をみることができる。

 14日の状況について、東京朝日新聞(12月16日付)はどういう報道をしていたであろうか。

 「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くと、もう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」

 しかし、当然のことながらこの前後にも小競り合いの戦闘は継続しており、16日には日本兵が捕虜を銃剣で処刑している場面に遭遇する。

 その後、下関の挹江門に回ると「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」場面に出くわす。

 また他の場所では銃で処刑しているところも見ており、別の記者が日本の兵士に勧められて中国兵を射殺もしている。

 翌17日が入城式で、約100人の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一氏などもいたという。

 翌日、再度城内を車で走ると挹江門の死体はすべて取り除かれていたが、護送中に反乱を起こした「夥しい中国兵の死体の山が(揚子江岸に)連なっている」のを目撃している。

 市民は安全区に保護されており、決して市民の死体などではない。

 戦いの相手であった国民党が発刊した当時の国民党軍の行動記録にも不法殺害や虐殺などの字は見出せない。

 前田記者たちは、同社の記者とは言うまでもないが、他の新聞社の記者らとも情報交換しており、自分一人の目で見たことではなく、南京戦場のあらゆるところから何百人もの記者らが見たり聞いたりした言行をベースに書いている。

 前田記者が城内を実見した状況や当時の朝日新聞が報道した内容、また国際連盟での中国代表であった顧維均等の発言・討議と、宣伝戦を得意とする中国共産党の息のかかった人物から本多氏が30余年後に聞き書きした内容と、どちらの信憑性が高いかは一目瞭然ではなかろうか。

 ◇

 このコラム記事にあるように、様々な当時の目撃証言によって、南京大虐殺は捏造である事が判明していますが、その捏造事件を自分で詳細に調査せず、中国共産党の息のかかった者たちからの聞き取りだけで、執筆拡散した朝日新聞の本多勝一元記者。これは故吉田清治の慰安婦強制連行捏造本の内容を、自身で現地調査もせずに書き続けた、同じ朝日新聞の植村隆元記者と同罪です。

 しかも中国軍が日本人を虐殺した「通州事件」と同じような内容の、身の毛がよだつような凄惨な殺し方を、南京で日本人が行ったと、中国人に言われるままに、調査もせず書籍にしたこの本多勝一は、果たして日本人でしょうか。

 朝日新聞は「南京大虐殺」と「慰安婦強制連行」という二大捏造の元を作った、史上最大の国家毀損犯罪新聞です。しかもそれに懲りずに今なお、日本を貶め中韓に媚びを売る売国新聞の実態を変えようともしていません。私にはこの新聞の目指すところがよく分かりません。政党のように目的、目標をはっきりさせてもらいたいと思います。まさか「反日が使命」と本当のことは言えないでしょうが。

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2021年8月14日 (土)

あの戦争は、誰がなぜ始めたのかよく考えよう

Img_50ab1fa81710430f2814904add208ac49736  もうすぐ1945年8月15日、昭和天皇が大東亜戦争の終戦の詔書を読み上げられた日から、76年目のその日がやってきます。だが無謀と言われ、勝ち目がないと言われたあの戦争に突入した、1941年12月8日、日本人の多くは歓喜の声を上げていました。

 多くのメディアに登場する戦争体験者の、「戦争を語り継ぐ」、その記事の中には、まず出てこないこのときの様子を、少し前ですが「永井経営塾」のネット記事から引用します。タイトルは『かつて「反戦」だった日本国民は、次第に戦争に「熱狂」し、そして戦争を始めた』(2014/7/9)です。

 ◇

Twitterで佐々木俊尚さんが(米国と戦争を始めたのは)「国民が大喜びで戦争を求めたからです」と発言されたことで、多くの方々がコメントされています。

やり取りを見ていて、とても多くの人たちが「戦争は軍部の独走。国民が強制されて戦争が始まった」と考えていることに、危うさを感じました。

戦争を体験していない現代の私たちは、日本が戦争を始めた状況を知ることで多くのことを学ぶことができます。その方法はいくつかあります。

NHK番組「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 "熱狂"はこうして作られた」(2011/2/27放映)はそんな参考になる情報の一つです。

素晴らしい番組ですが、放映2週間後に大震災が発生し、話題が広がらなかったのが残念です。

大正デモクラシーの時代、メディアも日本国民も反戦でした。しかし盧溝橋事件、日華事変を経て、次第に社会は戦争に熱狂する空気に覆われていきます。

それでも1941年年頭の世論調査では、「日米開戦は避けられる」という意見は60%。

その11ヶ月後の1941年12月、英米との交渉に弱腰な政府に業を煮やし、首相官邸に「東条内閣は腰抜けだ。日米開戦すべし!」という強硬な投書が3,000通殺到します。

1941年12月8日、日本は米国に宣戦布告しました。

日本経済新聞に2014/1/12に掲載された記事『熱風の日本史 大戦果、日本中が熱狂 第20回 12月8日の「青空」(昭和) 「世界は一新」「ペルリへの復讐」』に、当時の様子が描かれています。

---(以下、引用)---

 皇居前広場には続々と人が集まり、喜びの声をあげた。東京のビルの屋上からは「屠れ!米英われらの敵だ」「進め!一億火の玉だ」の垂れ幕が下がった。日本中が「万歳!」の歓呼で沸き返った。

 この日の日本人の興奮と歓喜は、作家・詩人など知識人の文章に表されている。

【伊藤整】「身体の奥底から一挙に自分が新しいものになったような感動を受けた。(略)ああこれでいい、これで大丈夫だ、もう決まったのだ、と安堵の念の沸くのを覚えた」(「十二月八日の記録」)

【高村光太郎】「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。(略)私は不覚にも落涙した」(「十二月八日の記」)

【火野葦平】「神々が東亜の空へ進軍してゆく姿がまざまざと頭のなかに浮かんで来た。(略)私はラジオの前で涙ぐんで、しばらく動くことも出来なかった」(「全九州文化協議会報告文」)

【長与善郎】「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい目に遭えるとは思わなかった」(「今時戦争とその文化的意義」)

 【太宰治】 「日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。(略)目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起こさせるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい」(「十二月八日」)

---(以上、引用)---

このNHK番組では、2011年時点で「あなたは、日本が再び戦争をする日が、来ると思いますか?」と聞いた世論調査が紹介されています。

 「来る」17.7% 「来ない」65.8% 「わからない・無回答」16.6%

しかし、1941年年頭の世論調査でも「日米開戦は避けられる」という意見が60%と大多数だったのにも関わらず、1941年12月には「戦争すべし」との空気が蔓延し、1941年12月8日の開戦当時は国全体が熱狂していたのです。

私たちが「国民は戦争を強制された被害者だった」という意識を持ったまま、「当時、国民は熱狂していた」という現実を直視しないとどうなるでしょうか?

一般的に問題を問題として認識しない人は、同じ過ちを繰り返す可能性があります。

感情的に「戦争反対」を叫ぶ意見は、ともすると何かのきっかけで「戦争賛美」に切り替わってしまうリスクもはらんでいます。

私たち一人一人が、戦争に至った当時の熱狂を事実として認識することが必要なのではないかと思います。

確かにメディアの責任も大きいでしょう。しかしメディアは聴衆の意向を汲み取り、聴衆が見たい・聞きたい情報を提供する宿命にあります。言い換えれば、メディアは聴衆の願望の鏡なのかもしれません。

聴衆である私たち自身が、メディア情報に踊らされないことが必要です。

幸い当時と違って現代では、ネットで比較的容易にオリジナルの一次情報を検証できますし、意識すればSNSで偏らない多様な意見に触れることも可能です。

一方で、単純化された強い意見やメッセージがSNSで一気に拡散され祭り状態になり、空気に沿わないマイナーな意見が封殺されてしまう現代の一部の風潮には、危うさも感じます。

人はともすると「単純で明快な答え」を求めがちです。しかし単純な答えに至るには様々なことを考える必要があります。多様な意見を封殺せずに尊重し、一人一人が自分自身で考え続けることもまた、必要なのではないか、と思います。

成熟した大人の社会とは、多様な意見を尊重する社会なのだと思います。

NHK番組の最後で、元・朝日新聞記者の武野武治さん(放映当時96歳)の言葉が紹介されています。武野さんは満州事変をきっかけに新聞記者を目指し、終戦の日に報道の戦争責任を感じて辞表を出し、その後、反戦の立場でフリーのジャーナリストをなさった方です。

---(以下、引用)---

戦争を始めさせては、だめだということだ。

始めさせてはだめだと。

始めてしまってから「あぁこりゃひどい」「こんなことになるなら」と言って止めさせようたって、止まないんです。戦争は。

やらせないためには何が必要なのか。

いちばん簡単なことは、現実に世界で何が起こっているのか。

アメリカが中国があるいはロシアが、その他の国々が何を思って、何をやっているかっていう現実ですね。

これを正直にお互いに知らせあうということですよ。

---(以上、引用)---

私たちも、世界全体の状況を考えた上で、日本がいかにあるべきか、そして戦争をいかに避けるべきなのかを、感情的にならず、性急な単純化もせずに、考え続け、そして自分でできることは行動し続けることが必要なのだと思います。

このNHK番組と日経記事は、メディアの立場で、メディアの戦争責任を反省したものです。

戦争関係の本では、「日本軍は強かった」、「大変な悲劇で悲惨だった」、「軍部に問題があった」、「陰謀だった」といった論調の本がよく売れていて、逆に「我々も問題があった」という内省的な本はあまり売れないそうです。その結果、書店でもそんな本が多く並べられています。

だから「国民が大喜びで戦争を求めた」という佐々木さんの発言に、多くの人たちが「そんなことはない!」と反応してしまうのかもしれません。

そんな中で、このNHK番組と日経記事は、客観的な取材を重ね、勇気を持って作られた、とても貴重なコンテンツです。

現代の私たちが学べることはとても多いと考え、紹介させていただきました。

平和国家・日本を心から願う私たち一人一人が、再び過ちをおかさないためにも、是非理解し共有してきたいことだと思います。

 ◇

 この記事そのものには全く異論がありません。ただ一つ欠けているとすれば、国民が歓喜したあの戦争は、実はソ連の戦争負担軽減のために、日本に泥沼の日中戦争を継続させようと朝日新聞などのメディアに潜入したコミンテルンと、そのコミンテルンに洗脳されたアメリカルーズベルト政権が、ドイツと激戦の渦中のイギリスのチャーチル首相に、アメリカのヨーロッパ戦線への参入を促され、日本を巻き込んだ戦争だったと言うことでしょう。

 ルーズベルトは戦争をしないという公約で4選を勝ち得た大統領です。参戦の口実が欲しかった。そこで「ハルノート」を日本に突きつけ、日米和平交渉を寸断し、日本を開戦に導いた、と言うのがヴェノナ文書で語られています。

 それともう一つ、「日本が再び過ちを犯さない」ようにしなければ、と多くの人が言います。広島の原爆記念碑にも同様の文字が刻まれています。でも戦後完全に平和ぼけしている日本人の気持ちが、再び戦争を起こそうと言う気になるのでしょうか。それに「政府もあるいは自衛隊も、いつかは自ら戦争を起こそうとしている」という人が、現実論として本当にいるのでしょうか。

 私にはそれはいわゆる左翼の政権叩きの材料としか映りません。そしてそれは中国の差し金かも知れません。それよりはるかに、その中国や北朝鮮、ロシアそれに韓国などの方が、日本を巻き込む戦争を起こす確率が高いと断言できます。記事中の、フリージャーナリスト武野さんの言葉の通り、他国の現実を見ろ、と言うことです。

 それに加えて「日本が再び過ちを犯さない」ためには、戦争を起こそうとしている国に、日本の努力で日本への戦争を起こさせないことでしょう。そのためには一にも二にも防衛力を整備し、腰砕けの外交力を強靱なものに代える必要があると強く思います。ポピュリズムに屈しないよう政府ももっと強くなければなりません。

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2021年6月15日 (火)

韓国人は日本にもう金を要求するな!

7_20210615110601  韓国のソウル中央地裁が、今月7日、以前の最高裁の判決を覆す「元徴用工の訴えを却下」してから一週間が経過しました。かなり画期的な判決言えます。その時点での産経新聞の紙面では、『韓国地裁、元徴用工の訴え却下 最高裁判例を否定 「提訴の権利」認めず』と題して、以下のように伝えています。

 ◇

 日本の朝鮮半島統治期に徴用工として動員されたと主張する韓国人や遺族85人が日本企業16社に賠償を求めた訴訟で、ソウル中央地裁は7日、訴訟を通じ賠償請求する権利は1965年の日韓請求権協定により制限されているとし、請求を却下する判決を言い渡した。

 いわゆる徴用工訴訟では2018年10月、韓国最高裁が「強制動員に対する賠償請求権は協定の適用対象に含まれていない」として日本企業側に賠償を命じた。今回、下級審が最高裁判例を否定する異例の判断を示した。原告側の代理人弁護士は「判例と正反対の判断で、あまりに不当だ」とし、控訴する意向だ。

 最高裁判決が「(日本の)違法な植民地支配」を背景に「反人道的な強制動員」が行われたと指弾したのに対し、地裁判決は「植民地支配の違法性を認める(韓国)国内法の事情だけで、請求権協定の『不履行』を正当化することはできない」と指摘した。

 さらに、賠償命令に伴う資産差し押さえが外交問題に発展すれば「国家の安全保障や秩序維持という憲法上の大原則を侵害する」と強調。こうした事態を回避するため、個人の請求権は「消滅したり放棄されたとはいえないが、訴訟で権利行使することは制限される」と結論付けた。

 原告の元徴用工と遺族らは15年、日本製鉄や三菱重工業などを相手取り、計86億ウォン(約8億5000万円)の損害賠償を求める訴えを起こしていた。

 この判決に対し、韓国左翼メディアは一斉に反発、産経新聞は共同通信の記事として8日次のように伝えました。タイトルは『元徴用工敗訴判決を「荒唐無稽」と批判 韓国革新紙』です。

 韓国の元徴用工訴訟で、ソウル中央地裁が原告の訴えを却下した判決について、8日付の韓国紙は1面などで大きく伝えた。日本企業に賠償を命じた2018年の最高裁判決とは正反対の判断を下したことに、革新系紙は「荒唐無稽な論理」(ハンギョレ)と批判した。保守系紙からは韓国政府の対応を求める声も上がった。

 ハンギョレは社説で、判決が、原告の訴えを認めた場合は日韓関係だけでなく米韓関係にも悪影響を及ぼす恐れがあると指摘したことを挙げ「政治・外交的な判断を判決に介入させた。論理の飛躍も見せた」と批判した。

 ただ、多くの韓国メディアは、上級審で覆る可能性もあると指摘。18年の最高裁判決に基づく日本企業の資産売却手続きが進んでいることなどから、日韓関係改善につながる可能性は高くないとの見方が強い。

 こうした韓国の国内の反応を横目で見ながら、日本側はようやく韓国内でも史実をしっかり見る司法関係者もいるとしながらも、今後の推移を見守るという静観の姿勢が強いようです。9日の産経新聞の社説は次のように述べています。

 韓国人元労働者らが日本企業に賠償を求めた「徴用工」訴訟で、韓国のソウル中央地裁は原告の請求を却下した。

 国際法に則(のっと)った常識的な判断である。問題を長引かせれば、韓国は常識外れの国という国際的な不信が増すだけだ。文在寅政権は自身の責任で早急に解決すべきだ。

 ソウル中央地裁は、1965年の日韓請求権協定を踏まえ、賠償請求権は訴訟で行使できないと判じた。協定で両国の請求権問題は「完全かつ最終的に解決した」と明記されており、当然である。

 協定は条約に相当し、請求を認めると条約順守を定めた国際法に反する可能性があるとした。賠償を認めて強制執行が実施され、外交問題に発展すれば、安全保障や秩序維持を侵害するとし、権利の乱用にあたるとも踏み込んだ。

 約束を守るべきは司法に言われるまでもない。合意が反故(ほご)にされるのでは、信頼に基づく国家間の交渉や関係は成り立たない。

 韓国では4月、元慰安婦らが日本政府を相手取った訴訟でも原告の請求を退ける判決が出た。国家は他国の裁判権に服さないとの国際法上の原則を守る常識に適(かな)った判決だ。それでも韓国が正気に戻ったと手放しでは喜べない。

 そもそも「徴用工」訴訟をめぐっては、韓国最高裁が2018年に日本企業に賠償を命じる判断を示している。今回とは正反対であり、これが同種訴訟が相次ぐ要因となっているのだ。最高裁は法律に基づく徴用を「不法な植民地支配と侵略戦争遂行に直結した反人道的不法行為」と決めつけた。最高裁が史実を無視し、国際法を踏みにじる。法治国家として付き合うには不安定極まりない。

 司法の暴走を助長したのは、文大統領自身である。韓国外務省は今回の判決後、「開かれた立場で日本と協議を続ける」などとしたが、解決済みの問題で日本が交渉に応じる余地はない。すべて韓国政府の責任と知るべきである。

 韓国大田(テジョン)市に不法設置された、痩せてあばら骨が浮き出た「徴用工」像についても、韓国の裁判所が5月、「韓国人徴用工ではなく日本人をモデルに制作された」という主張に「真実相当性がある」と認定した。噓はだめだということである。

 慰安婦問題とともに歴史の歪曲(わいきょく)を許さず、事実をもとに日本の名誉を守る発信も欠かせない。

 そして14日、ソウル駐在の産経新聞特別記者黒田勝弘氏が、『韓国人は日本にもう金を要求するな』と言うコラムを寄稿しました。以下に引用します。

 ソウル地裁が先ごろ、日本統治時代に関わるいわゆる徴用工補償問題で、原告の訴えを退け日本の立場を支持する判決を下した。

 外交的大問題を引き起こしている2018年の大法院(最高裁)判決を全面的に否定した、いわば下級審による〝反乱〟である。

 国際法や国家関係を無視した従来の最高裁判決を批判し、国際的常識にしたがった〝正論〟だが、その内容は端的にいって、過去がらみの補償問題は1965年の国交正常化の際に国家間の約束として解決済みだから、もう日本側には要求できないというものだ。

 最高裁判決に反する地裁判決なので今後、上級審での判断は不透明だが、日韓がらみではいつも「日本は悪で韓国は善」という雰囲気のなかで、今回の判決は世論の反発覚悟の勇気ある法治主義的判断である。

 反発の例では、左派系新聞「ハンギョレ」の「日本の金で〝漢江の奇跡〟…わが国の裁判所か」という大々的見出しがそうだ(8日付)。判決が「国交正常化の際、日本から受け取った請求権資金が、その後の韓国の経済発展の基礎」などと指摘していることを、ひどく非難しているのだ。

 韓国の裁判所なら、歴史的事実は無視してでも韓国人原告の立場に立つべきだとの論調だ。「どこの国の裁判長か」と、裁判長の弾劾・罷免を要求する〝ネット請願〟が大統領府には30万件以上、寄せられた。

 ところが一方で、この判決を支持するこれまた勇気ある新聞論調もあった。

 保守系「朝鮮日報」の主筆論評で見出しは「もうわれわれも日本に金をくれと要求するのはやめよう」となっている(10日付)。

 徴用工補償問題は条約で解決済みであり、韓国経済は大いに発展した。なのにいまなお日本相手に金をくれという。21世紀の韓国はまだそんなケチくさいことを…と嘆いているのだ。

 この論評も実はかなり世論を反映している。判決の是非は別に「また日本に金を出せか」「わが国がまだそんなことをいってるのは恥ずかしい」といった街の声は、結構多いからだ。

 「朝鮮日報」の主筆論評には、もう一つ目を引いた指摘があった。過去がらみで日本側に個人補償を要求するとなると、同じ論理で日本人が敗戦後、韓国に残した財産について「個人請求権を行使する」といってくれば受け入れるのか、と問題提起しているのだ。

 ちなみに日本は朝鮮半島からの撤収に際し個人財産を含む膨大な資産を放棄させられた。それらは進駐米軍に没収され、その後、韓国政府側に譲渡された。

 日本はその請求権を52年に、国際社会との講和条約で放棄したことになっているが、これはあくまで国際条約上の国家間のことだから、日本人はその気になれば、個人請求権として韓国に補償を要求できるではないか、という話である。

 日本が残した在韓資産の行方については昨年、李大根著『帰属財産研究』(2015年刊)という文献が存在することを、本紙で紹介した(近く日本で翻訳出版)。しかし日本人は今さら韓国に対し当時の財産を補償しろとはいわない。

 それをいい出すと国家関係や国際秩序は乱れる。今回の地裁判決は、そのことを韓国社会に教えようとしているようにみえる。

 黒田氏は「韓国社会に教えようとしているように見える」と述べていますが、戦後一貫して自国に都合のいいように作りあげた歴史を元に、子供の頃から反日教育を徹底してきた韓国社会が、おいそれと変わるようには思えません。

 ただ「反日種族主義」を著わした元ソウル大学の李栄薫氏のように、歴史を正しく見ようとする人たちも現れてきていますし、同様な意思を持って韓国から日本へ帰化した呉善花のような人たちもいます。大多数の人は未だに捏造された歴史に洗脳されているようですが、節目はすこしずつ変わってきているのかもしれません。ただあまり期待せず、韓国政府がそれを誤りと認めるまで、突き放しておくのが賢明でしょう。

 

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2020年9月26日 (土)

反日日本人の思想の源流、コミンテルンによる日本共産党へのテーゼ

9_20200926114301  以前にもこのブログで述べた、戦前のアメリカと日本に入り込んだ、ソ連共産党が世界に共産主義を拡散しようと作り上げた国際共産党組織コミンテルン。もちろん日米以外にも、その矛先は多くの国に向けられましたが、とりわけ日本の共産主義化を狙っていたようです。

 共産主義化の第一ステップはその国の弱体化です。当時の国際情勢の中で、日本の弱体化を進める最も有効な手段は、対中・対米戦に向かわせることでした。そのためアメリカのルーズベルト政権に深く入り込み、中国の国民党にも共産主義者を入り込ませ、やがて日中戦争、大東亜戦争へ向かわせます。

 コミンテルンは、実はそれ以外にも日本に共産党を組織させ、日本の近代化は全くお粗末で、前近代のままだという教示を拡散することを狙っていました。その毒牙にかかったのが、当時のインテリと言われる進歩的知識人でした。

Lt000134966001121017_xlarge  その詳細を記した書籍が、谷沢永一氏の「反日的日本人の思想」です。この書籍の中では、日本の進歩的な識者と言われる人たちがなぜ強固な反日思想を持っているのか、又左翼共産主義にかぶれているのか、を明快に解き明かしています。その概要はこうです。

 詳細は省きますが、日本は明治維新以降欧米列強に植民地化されるのを阻止しようと、富国強兵、殖産興業に努めました。しかしロシアと言うアジア大陸の北に覇権国家があり、その脅威から日本を守るため、日清戦争、日露戦争を戦い、特に日露戦争はその当時の軍事大国で白人国家ロシアを、黄色人種が初めて破った戦争として歴史に残ります。

 しかしこれをロシア側から見れば大変な屈辱で、またロシア革命への遠因となりました。もちろん革命後の共産主義国家ソ連のスターリンにとっても、日本は第一の報復の相手となります。共産主義革命の世界への拡散を狙った、コミンテルンの標的になったことは火を見るより明らかでしょう。

 コミンテルンは日本にも共産党を組織させ、数々の画策を続けている中で、「日本における情勢と日本共産党についてのテーゼ」と題する文書を作って、日本共産党に授けました。以下谷沢氏の著書から引用します。

神のお告げ”となった運動方針書

 「日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ」と題する文書をつくって、日本共産党に授けたのは国際共産党組織(コミンテルン)です。

 ときに1932年4月でありましたから、以後、「三十二年テーゼ」と言いならわされるようになりました。テーゼとは、運動方針書、というほどの意味です。

 この文書は、日本語訳にして1万字あまり、400字詰め原稿用紙になおすと30枚足らず、そんなに詳しく長い記述ではありません。しかし、この文書がいったん日本に伝えられるや否や、わが国における(当時の)すべての共産主義者および同調者はひとり残らず、ただちに平伏し礼拝せんばかりに丸暗記して拳々服庸しました。もちろん共産主義者でない人たちは、こんな阿呆陀羅経を頭から問題にしませんでしたけれど、一方、たとえかすかにでも共産主義に近寄っていたひとびとは、全員こぞって神から与えられた聖典のように恭しく信仰しました。

 それから数えて60年(この書籍は1999年発売です)を超す今日に至るまで、わが国における左翼人であって、なおかつ「三十二年テーゼ」に多少とも批判の言辞を吐いた人はひとりもありません。たとえ一字一句でも、訂正の必要ありと申し立てた人はいないのです。それどころか、少しおかしいぞと、疑義を抱いた人もありません。

 それではなぜ彼らは神から与えられた聖典のように恭しく信仰し、疑義を抱かないのでしょうか。その理由を同書から引用します。

 日本の(当時の)左翼人は国際共産党組織(コミンテルン)に対して理も非もなく無批判に平伏しました。だから、そのお墨つきである「三十二年テーゼ」は天下至上の尊い賜わりものとなります。国際共産党組織はこの地上における最高貴尊の機関なのです。国際共産党組織が間違うことなど金輪際ありえません。国際共産党組織は常に正しく完全に無謬なのです。

 ゆえに「三十二年テーゼ」を疑うのは神を疑うにひとしい冒涜となります。「三十二年テーゼ」は絶対的に正しいと念じて、敬虔に拝脆しなければなりません。

 では、なぜ国際共産党組織は無謬なのか。それは国際共産主義運動の司令塔だからです。その司令塔に、なにゆえ絶対の服従を誓わなければならないのか。理論の筋道は、次のように組み立てられます。

① 共産主義の実現は、人類にとって最高至上なる幸福状態の達成である。

② ゆえに共産主義の闘士は、世界歴史が発展してゆく基本法則の見通しを誤りなく立てているのであるから、その世界認識は透徹していて無謬であり至当である。

③ それら闘士の先頭をゆく職業革命家は、レーニンが太鼓判を捺したように「もっともたしかな、経験に富み、鍛錬された」(邦訳『レーニン全集』5巻493頁)人たちであるから、絶対の信頼を寄せるに足る。

④ こういう職業革命家として、闘争の前衛である秀れた人たちをさらに指導する立場にある各国の代表は、これ以上のぞむべくもない最高の全智全能である。

⑤ その代表が寄り集って合議のうえ出される国際共産党組織の決定は、現代世界における最高至上の洞察であり指導理論である。

 この理論を丸々信じて疑わない、まるで一種の宗教ですね。それもほとんどカルトに近い。そしてこの「三十二年テーゼ」が規定した近代日本史とはどんなものかと言うと、これがまた完全捏造の代物です。

 確かに私の大学在学中に、共産主義を標榜する様々な学生組織があり、その中の日本社会主義青年同盟(社青同)解放派のリーダーが、ロシア革命を異常に礼賛している光景を見ましたが、共産主義思想が大学の教授、学生に広く拡散している様子が見て取れました。さてそれでは、問題の「三十二年テーゼ」には、一体どういうことが書き記されてあるのでしょうか。さしあたり近代日本史に関する論述としては、次のような章句が見られます。続けて引用します。

① 日本は強盗的帝国主義であり、現に帝国主義的強盗戦争をおこなっている。(「強盗」という評語が何回も何回も繰り返し出てきます)。

② 日本独占資本主義は絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義であり、軍事的冒険主義である。(「封建的」と念を押しています)。

③ 日本の独占資本は、いまなお前資本主義的諸関係の緻密な網に絡みこまれている(「前資本主義的」と決めつけています)。

④ 日本の国内には封建制の強大な遺物、農民にたいする半封建的な搾取方法、が認められる(「封建制の強大な遺物」を指示し「半封建」と規定しています)。

⑤ 日本資本主義は、軍事的・警察的反動の状況のもとで、また国内における封建制の 遺物の基礎の上で育ってきた(繰り返し「封建制の遺物」が強調されます)。

⑥ 日本はフランスと共にソヴィエトの国に対する出征の発頭人としての役割を引きうけ、反ソヴィエト計画を持っている。

 一読しただけで、いわゆる社会科学的用語における錯乱が明らかでしょう。

 普通に『帝国主義論』と呼ばれているレーニンの著作は、正確な書名が『資本主義の最高の段階としての帝国主義』(全集22巻)なのです。その意味で日本は、帝国主義なんですね。

 日本の左翼人は、特にいちおう学者面している気取り屋は、実は、学者の風上にもおけぬ文字どおりの偽者でした。本来、学者の学者たる面目は、自分の乏しい能力を根かぎりふりしぼって、たとえ僅かでも創意工夫を世にさしだす努力のうえに成りたちます。その根本的な目標である独創を目指さず、「三十二年テーゼ」の奴隷に甘んじた阿呆者たちによって、いわゆる進歩派の論壇がおおいに栄えました。

 戦前・戦中においてすらなかなかの繁昌だったのですから、ましてや戦後は、左翼人が進歩的文化人としての装いをこらし、とんだりはねたりの大合唱となりました。その行きつくところが反目的日本人としての陰湿な論調です。日本という国を非難し、日本近代史を攻撃し、日本の国民性を貶める弾劾の論法こそ、彼らの至りついた究極の姿勢でした。繰り返しますが、そういう方向の議論は、すべて「三十二年テーゼ」の復唱であり言い換えであったのです。

 コミンテルンは既述の通り、日本以外にもその魔の手を伸ばしますが、とりわけ日本を徹底的な攻撃の相手としたのは、ソ連の南下と太平洋への進出の狙いだけではなく、日露戦争への報復が大きいと思います。日本の敗戦間際の参戦や北方領土の不当な占拠、そして北方領土に住む日本人への凌辱や強姦・略奪、満州兵のシベリア抑留と強制労働、すべて報復としか思えません。

 そして日本の敗戦によってGHQが占領政策を実施しますが、その施策の中での公職追放の後で復帰した、多くの敗戦利得者たる共産主義者や進歩的文化人が、この「三十二年テーゼ」を引っ提げて再登場し、過去の日本を非難し、攻撃し、弾劾し、罵倒し、侮蔑し続けて今日に至るのです。そして戦後はこの敗戦利得者に加え、GHQのプレスコードで徹底的に検閲され、一気に左翼の論調に切り替わった多くのメディアが、過去の日本だけでなく、時の政権への批判と、周辺国への謝罪要求をしつこいほど突き付けているのです。そこに日本人が日本を貶める、と言う他の国ではあまり見られない構図が出来上がっています。

 (ただ一つ運命的ともいえる日本にとって良かったことは、ソ連共産党からの占領を逃れ、共産化しなかったことでしょう。これはGHQの遺した最大の日本への貢献といえるでしょう。)

 日本は結局、ソ連の前身ロシアを恐れ、そのロシアの侵攻の防衛のために、日露戦争を戦い、朝鮮を併合し、満州に進出しました。そして革命を経て共産主義国家となったソ連から多くのスパイにかく乱され、前述のように日中戦争を泥沼化にし、米国のルーズベルト政権をほんろうしたコミンテルンによって、日米戦争へと突き進んだわけです。

 もちろん大東亜戦争の要因はそれだけではないにしろ、反共を掲げた日本が逆にソ連共産党に完敗した戦前・戦中の歴史だといえるかもしれません。そして今その共産主義の主役が中国共産党へと交代し、再び日本に立ちふさがっています。共産主義との戦いはまだまだ続くことになるでしょう。

 日韓併合の後始末というおまけもついて、戦後の日本に「謝罪に明け暮れる結果」を残した、何とも言い難いこの百年余りの歴史です。安倍元首相の遺した「戦後レジームからの脱却」をぜひとも達成したいと思いますが、そのためにもこの反日カルト集団を何とかして、日本を普通の国にして行く必要があります。

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2020年9月 5日 (土)

歴史から消し去る旧ソ連の大虐殺、中朝露、歴史の隠ぺい捏造は独裁国家の常とう手段か

C61725d8 今年初め、新型コロナウイルスの発生源中国で、その発生を確認した医師が、知り合いの医師たちに通報し、警鐘を鳴らそうとしましたが、その医師が拘束され、発生そのものを隠蔽しようとした武漢当局の行為が、その後世界中に知れ渡りました。共産主義国家中国での恐るべき隠ぺい工作でした。

 中国だけではありません、ソ連も同様です。以前このブログで数回にわたり述べてきたように、第2次世界大戦の中での日本と米英中蘭の戦い、つまり大東亜戦争は、その後のアメリカにおける「ヴェノナ文書」などの極秘資料やルーズベルトの前の大統領フーバー氏の回顧録などから、単純に日本だけが暴走して起こした戦争ではない、と言うことが明らかになってきました。

 むしろ当時暗躍したソ連共産党とその海外工作員コミンテルンが、世界への共産主義の拡大を目指し、ヨーロッパ各国で画策するとともに、日米中の中枢に深く入り込み、ソ連に有利になるようにヨーロッパとアジアで相互に戦わせた構図が、見えて来ています。

 独ソ不可侵条約も日ソ中立条約もその一環です。ドイツはこの条約を破棄してソ連に戦いを挑み、逆に敗戦を呼び込んでしまいましたが、ソ連はドイツとの戦いを勝利すると、途端に日ソ中立条約を破棄し、終戦間近の8月9日日本に参戦し、あっという間に北方領土を占領奪取したのです。

 そういう当時ソ連の共産党の暗躍が引き起こしたこの第2次世界大戦を、戦後の今日までドイツと日本を唯一の悪者に仕立てる、歴史捏造が繰り返されています。ドイツはヒットラー率いるナチスと言う国家社会主義政党が、ホロコーストと言う残虐な殺戮を行ったため、その責を否定できず悪者の烙印をなかなか消せませんが、日本は消してしかるべき部分も多いと思います。

 しかしその後も、中国も南北朝鮮(こちらは併合時代が主ですが)も、日本だけが悪かったという歴史を作り上げ、それを国内で公のものとして教育しています。ソ連の後を継いだロシアも同様です。こうした共産主義国家やロシアや韓国のような疑似共産主義国家は、決して自身を悪く言いません。何故ならそれにより共産主義体制、又は独裁体制が危うくなるからです。つまり彼らの都合のいいように歴史を作ります。

 そのロシアの歴史捏造の実態を、元幹部自衛官で軍事評論家の数多久遠氏がJBpressにコラムを寄稿しています。タイトルは『駐日ロシア大使館の情報発信に見える赤い闇 昔も今も「歴史の捏造」を繰り返すロシアの大罪』(9/03)で以下に引用します。

 各国の大使館は、様々な役割を担っています。その中でも、近年SNSの普及により重要性を増している仕事が広報活動です。

 日本との歴史的つながりが少なく知名度が低いと言わざるを得ないジョージア(グルジア)のティムラズ臨時代理大使などは、大使館の公式アカウントだけでなく、個人としても積極的に発信し、日本でのジョージアの知名度を非常に高めています。

 ところが、逆に広報活動としてマイナス効果しかなさそうな発信をしている大使館も見受けられます。

 代表的なのは駐日ロシア大使館です。最近のロシア大使館のツイッターやフェイスブックでの情報発信には首をかしげざるを得ません。第2次世界大戦の終盤、ソ連が、日ソ中立条約の有効期限内であるにかかわらず、樺太や北方領土などに侵攻したことは、多くの日本人が事実として知っています。それにもかかわらず、その侵攻を賞賛するツイートをするなど、日本人の神経を逆なでするような書き込みを平気で行っているのです。

 ロシア大使館のフェイスブックではこんな具合です。

<1941年4月13日のソ日中立条約は、劇的な状況の変化、具体的には、軍事主義下の日本が、上記条約に反し、わが国と戦争状態にあるナチスドイツを支援したことにより発された、1945年4月5日付ソ連政府表明を根拠に破棄されています。この表明の正当性は、1948年11月4~12日に行われた東京裁判の資料ならびに国連憲章の相応する規定により、すべて確認されています。>

 筆者の周りでは、これをロシアの横暴、あるいは広報活動に対する無理解(無知)と捉えている人が多いようですが、私は少々違った見方をしています。

 SNS担当者は、相応の教養を持つエリートであり、広報活動の意義も理解しているはずです。事実、美しいロシアの風景をツイートするなど、好感の持てるツイートも見られます。それにもかかわらず、上記のように、広報としてマイナスにしかならないような内容がたびたび書き込まれます。

 領土交渉において、決して譲歩しない姿勢を示すため、本国から指示を受けている可能性もあります。しかし、私は、それだけではないと見ています。

 それは、そうした一連の書き込みには、一種の無邪気さ、あるいは素直さが見て取れるからです。中立条約を無視して侵攻したことに、何らのやましさも感じていないように見受けられるのです。それは、実におぞましいものの結果であるように思われます。

Img_ee0b73bada8f21bc5826803a17d684f27038  以下ではその理由について、ちょうど現在公開中の映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(以下『赤い闇』、原題『Mr. Jones』、製作国:ポーランド・ウクライナ・イギリス)の紹介と併せて述べてみます。

ソ連が行った情報操作の手口

 映画『赤い闇』は、実在したイギリス人ジャーナリスト、ガレス・ジョーンズの目を通して、彼の行動がなければ歴史から封殺されていたかもしれない20世紀最大の虐殺、ホロドモール(ホロコーストではありません)を描くことで、真実とそれを報道することの意義を描いた作品です。

 見るべき価値のある映画ですが、残念ながら万人にオススメできるとは言えません。それは、この映画が日本人の鑑賞を想定して作られていないためです。

 私(だけでなく、作家は皆そうです)が小説を書く際、描く内容について、想定読者がどの程度の知識を持っているか考慮して書きます。常識として知っているものは説明が不要ですし、知らない可能性の高いものは、説明を加えなければなりません。それと同じで、この映画は、欧米では知られていながら日本ではあまり知られていないホロドモールを描いているため、そのまま鑑賞した場合、多くの日本人にはよく理解できないであろうと思われるのです。

Holodomor3  ホロドモールについて、20世紀最大の虐殺と書きました。それは、有名な大量虐殺であるナチスによるホロコーストよりも犠牲者の数が多いためです(ホロコーストの犠牲者は600万人以上、ホロドモールは数百万~1000万人以上とされています)。それにもかかわらず、ホロドモールは日本では驚くほど知られていません。恐らくその理由は、虐殺を行ったのがソ連だったからだろうと思われます。そのため、日本の“進歩的”マスコミの多くが、この虐殺について取り上げてこなかったのです。

 また、殺害方法が直接的なものでなく、食料を奪うことによる計画的飢餓だったからということもあるでしょう。「自然発生的な飢餓である」というソ連によるプロパガンダを、いまだに報道しているケースもあります。

 日本でのこうしたホロドモールに関する認知度の低さは、まさにこの映画『赤い闇』において、ソ連が狙いとした情報操作の結果そのものと言うことができます。そして、命の危険を冒してその真実を探り、報道したことが、主人公であるジャーナリスト、ガレス・ジョーンズの戦いであり、この映画のテーマにつながっています。

 つまり、この映画の真のテーマは、プロパガンダや現代的な手法であるフェイクニュース、そして特殊警察などによる脅迫といった手法による情報操作と、それと戦う報道の姿勢にあるのです。

 当時のソ連は、真実を探らせないよう人の往来を遮断し、金と女でマスコミを操作し、真実を報じようとする動きがあれば無関係の人物を逮捕監禁して人質とすることで報道を止めさせるという手法をとっていました。これらは、某国が今でも盛んに行っている手法そのものです。

 映画『赤い闇』に興味を持ち、見に行こうかなと考えた方は、ホロドモールについてある程度簡単に調べてから鑑賞に行かれることをオススメします。また、できることなら、映画の中でモチーフとして使われていたジョージ・オーウェルによる小説『動物農場』についても、基礎知識を仕入れてから鑑賞に行かれることをお勧めします(また、一部の上映館では、既に上映が終了しているようです。上映スケジュールを確認の上、お出かけ下さい)。

“作られた”歴史を学んできたロシア人

 さて、ではこの映画『赤い闇』と冒頭のロシア大使館の情報発信がどう関係するのでしょうか?

 ソ連は、ホロドモールの存在を隠そうとしました。つまりウクライナで飢餓など発生しておらず、食料は行きわたっていると情報操作しました。ガレス・ジョーンズをはじめとしたジャーナリストの努力で、隠すことが不可能となると、自然発生的な飢餓だとする情報操作に切り替えています。ソ連を継承するロシアも、この方針を引き継いでいます。

 そして、第2次大戦における対日参戦や北方領土の占領に関しても、当時から継続して同じことを行っています。つまり、対外的にも、対内的にも「ソ連は日ソ中立条約を破棄したため、無効である」と情報操作を行っているのです。

 1945年のソ連による対日参戦から75年が経過します。現在外交の舞台に立っているロシア人のほとんどは、当時生まれてさえいなかったでしょう。彼らは、ソ連による対内的な情報操作によって“作られた”歴史を学んできたのです。彼らは「日ソ中立条約は効力を失っていた」とする“作られた”歴史を“正しい”歴史として学んできたのです。その結果、北方領土への侵攻を、誇るべき歴史として書き込んでしまっているのではないか。私は、そう考えています。

 ロシアの外交官として、効果的な広報(プロパガンダ)を行うのであれば、正確な歴史を知り、その情報発信を読む日本人が、どのように感じるのか考えなければならないはずです。しかしながら、長いこと“作られた”歴史を学んで来た外交官には、それさえも難しいのかもしれません。

 私がこのような認識に至ったのは、ウクライナを舞台とし、北方領土問題に関する小説『北方領土秘録 外交という名の戦場』(祥伝社)を書いた際に、あるウクライナ人に取材させてもらった時でした。その人も、北方領土問題については、ロシアの主張が正しく、日本は言いがかりをつけているだけという認識でした。ウクライナは長いあいだソ連の一部であったため、“作られた”歴史が正しいものとされていたのです。そして、現在も、ウクライナ語での北方領土問題のドキュメントが少ないため、ロシア語でそれを学んでいる結果、“作られた”歴史を、正しいものとして認識してしまっていました

 ソ連や、その継承国であるロシア、それに今も共産党による独裁が続く中国では、こうした歴史改ざんがあたり前に行われています。

 それを考える契機として、映画『赤い闇』を見ることは、有意義だと思います。ただし先に述べたように、ホロドモールについては、簡単に調べてからが良いでしょう。

Img_47c319590394b10106fa41afd42930af3637  なお、辞任する意向を発表した安倍晋三首相は、日本の首相として初めてウクライナを訪問しています。そして、その際に、ホロドモールの犠牲者記念碑にも献花しています(左の写真)。

(*)前述の小説『北方領土秘録 外交という名の戦場』では、ホロドモールについて、もう少し詳しく触れています。また、ウクライナと日本の関係が日本とロシアの関係に影響してくることも書きましたので、本稿とあわせてぜひお読みいただければと思います。

 ドイツのホロコーストより残虐な、世界最大の虐殺であった「ホロドモール」、不勉強な私は、飢饉による餓死者が膨大な数出たことは知っていましたが、「ホロドモール」と言う名称や、それが人工的な大飢饉、つまり大虐殺だったことを初めて正確に認識しました。しかし安倍首相はすでにご存じだったのですね。

 日本は東京裁判で、ドイツナチスと同じような残虐な戦争をしたという理由づけのため、南京大虐殺をでっちあげられました。でもそれでも30万人。戦時下でないにしてもホロドモールの異様さが際立ちます。

 それを国民にひた隠しにするロシア、そしてそのことで連想するのが、中国毛沢東施政下での大躍進政策や、文化大革命による数千万人にのぼる大虐殺です。これは外国人である我々には知られていますが、中国国民には捏造歴史によって隠ぺいされています。何しろこの殺人鬼のような人物のバカでかい肖像画が、未だに天安門広場に飾られているのです。とてつもなく異様で恐ろしさを禁じえません。

 共産主義国家、同様に独裁国家では、反対勢力の粛清は普通の出来事です。しかし中ソの一般国民を巻き込んでの虐殺は、数多氏の指摘の通りホロコーストを上回るものでしょう。殆ど情報はありませんが北朝鮮でも同様な餓死者や虐殺者がかなり出ているのではないでしょうか。

 韓国も含むこうした歴史を捏造する国には、領土を返せとか拉致した者を返せと言っても、無理なような気がします。こういう国には不法占拠した、不法に拉致をした(金正日が一時認めましたが)という歴史は、全くないからです。そして韓国のように、やってもいない強制連行や強制労働をでっち上げられ、不当な賠償を要求されているのが現状です。

 日本は安倍首相が戦後70年談話で述べたように、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言う言葉をかみしめ、こうした歴史を捏造する国に、真の歴史はこうだと、史実に基づき発信し続ける必要があるでしょう。

 逆に今までの日本は「自虐史観」に囚われ、言いたいことも言わず、ただひたすら謝ってきました。日本人同士であれば「謝罪」すれば許そうという気になりますが、国際社会では「謝罪」は罪を認めること。確かにあの戦争で多くの人が死に、多くの施設や家が破壊されました。それに対する「謝罪」は必要です。でもサンフランシスコ講和条約、日韓基本条約、日中平和友好条約そして日ソ共同宣言等で、本来ならば「謝罪」と「賠償」は終了しているはずなのです。

 しかしそれでも特に韓国は、今でもまだ慰安婦問題、徴用工問題等を引きづっています。北朝鮮は拉致被害者には口を閉ざしたままだし、ロシアは北方領土返還に絡む平和条約の締結を引き延ばしています。中国は尖閣を狙っていますし、次は沖縄に手を出す構えを見せています。

 当たり前です、日本がこれらの問題に関して、歴史的論争を仕掛けるわけでもなく、GHQが仕掛け作り上げて、今では中韓ロが利用している、戦闘能力非保持の「日本弱体化憲法」を後生大事に保持し続けているのを、これらの国は見逃しません。子供は弱いものをいじめたり金を巻き上げたりします。国際社会はこうした弱肉強食の子供社会の生き写しです。

 いじめられず金も巻き上げられないようにするには、強くならなければなりません。相手が金属バットで殴りかかるのに、素手で相手はできません。自分にも金属バットが必要でしょう。もちろん自分から殴れと言うのではありません。殴られないように身構えれば、相手もそうやすやすと殴ってきません。そのことにいい加減気付いてほしい、特に9条信者の皆さんに言いたいと思います。

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2020年8月18日 (火)

コミンテルンよって画策された「日米開戦の真実」、そしてソ連の一人勝ちと中共の勃興

15  このブログを開設してこの日で2年になります。以前にも述べたように、2年前のブログタイトルは『「戦争を語り継ぐ」を考える』 でした。昨年のこの日も同名のタイトル。そして今回は「日米開戦の真実」です。共産党のスパイに周りを取り囲まれたルーズベルトが、大統領選で公約した「不戦」の誓いを破って対独対日開戦に至る過程は、すでにこのブログで何回か取り上げました。

 しかし日本の中にもルーズベルトと同様、周りを共産主義のスパイに囲まれ、日中戦争を泥沼化した首相、近衛文麿のような人もいます。昨日に引き続き松川行雄氏のコラムを引用して、この内容の詳細を取り上げます。コラムのタイトルは『ヴェノナ文書~無かったことにしたい真実、その2』(19/9/29)です。

コミンテルン(国際共産主義工作組織)のスパイたちが、日米の世論操作は言うまでもなく、政権内部奥深くまで入り込み、どれだけ国策を壟断してきたか、恐ろしい限りです。ソ連崩壊後、この組織は消滅したかに見えますが、ロシアの、そして中国の意を汲んだ工作組織に分派・継承されていったのでしょう。おそらく今も、彼らは日米の政策の破綻を謀り、ロシアや中国の意に沿う活動を続けていることでしょう。

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右翼や戦争拡大派の仮面をかぶり、さも愛国者であるかのような偽装をしたコミンテルンの策動により、戦前の日本国内世論は猛然と「支那撃つべし」に沸き立った。

そもそも不拡大方針であったはずの近衛内閣は、驚くべきことに「蒋介石政府を相手にせず」という声明を発表した。石原莞爾(いしはら かんじ)など陸軍内部における中国との和平派の試みを、ことごとく打ち砕いていったのである。

近衛は自分が行なったこと(中国や米国との全面戦争に日本を導いたこと)、知らず知らずのうちに「乗せられていたこと」に気づいたときには、すでに遅かった。

終戦直前、1945年(昭和20年)2月14日、昭和天皇宛に出した「近衛上奏文」には、尾崎など自分が重用した優秀なブレーンたち(そろいもそろって愛国的で、対中国主戦派とされていた)が、ことごとく共産主義者であったことに、あまりの驚きと慙愧(ざんき)の念に耐えない、という心情を吐露し、懺悔・陳謝している。

そればかりか近衛は、すでに政府、官僚、軍部の内部に相当数の共産主義者が潜伏しており、国策を日本破滅→共産主義化への策謀が進んでいるということに、重大な警告を発した。終戦直後、近衛は敗戦という結末の発端となった自分のすべての政策責任に耐えられなかったのであろう、服毒自殺している。

実際、終戦間際の陸軍参謀部の中には、あろうことかソ連に対中・対米講和の仲介工作を持ちかける動きが実際にあったし、戦後の日本社会は共産主義をモデルとすべきだと、公言した参謀すら本当に存在したのだ。

終戦内閣首相・鈴木貫太郎(すずき かんたろう)の秘書官を務めた松谷誠(まつたに まこと)陸軍大佐が、昭和20年4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』では、「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる。戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだ」としている。

同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝(たねむら さこう)大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、「①米国ではなく、ソ連主導で戦争終結。②領土を可能な限りソ連に与え、日本を包囲させる。③ソ連、中共と同盟を結ぶ。」となっている。

軍部の上層部にソ連の工作が浸透していた目を疑うような驚くべき事実が、ぼろぼろと出てきているのだ。戦争末期、混乱と危機感の中で、彼らはとうとうその本性を現し始めていたわけだ。

さて、ここで再び、開戦時の米国に再び戻ろう。ヴェノナ文書の暴露によると、ルーズべルト大統領は1941年(昭和16年)3月、ラフリン・カリー大統領補佐官を蒋介石政権に派遣し、本格的な対中軍事援助について協議。そして翌4月、カリー大統領補佐官は、蒋介石政権と連携し、日本本土を約500の戦闘機や爆撃機で空爆する計画を立案。JB355と呼ばれる、この日本空爆計画に対してルーズべルト大統領は7月23日に承認のサインをしている。

日本が真珠湾攻撃をする9ヶ月前に、ルーズベルト大統領は対中軍事援助に動き出し、4ヶ月以上も前に、日本爆撃を認可していたことになる。戦争に向けて、明確なアクションを取ったのは日本ではなく、アメリカだったことが明らかにされている。

日本の最高指導部が、「帝国国策遂行要領」を御前会議で決定したのは、11月5日である。それでもまだ「要領」によって、11月一杯までは、対米交渉の努力をすることが義務づけられていた。

真珠湾に向けて出撃する連合艦隊が択捉島の単冠湾に終結したのは、11月18日である。ぎりぎりまで、日本の戦争指導部は、戦争回避の道を閉ざしていない。元来主戦派の東條首相ですら、そうであった。真珠湾攻撃が「だまし討ち」ではないことが、これで明らかになったと言ってもよい。

エドワード・ミラー著『日本経済を殲滅せよ』によれば、同年7月26日、財務省通貨調査局長のハリー・デクスター・ホワイトの提案で在米日本資産は凍結された。日本の金融資産は無価値となり、日本は実質的に「破産」に追い込まれたのだ。

それだけではない。ホワイトは財務省官僚でありながら、同年11月、日米交渉に際して事実上の対日最後通告となった『ハル・ノート』原案(満州事変前の状態に戻れという内容。一切の譲歩なし)を作成し、東條内閣を対米戦争へと追い込んだ。

考えてみてほしい。ハル国務長官の所管である外交判断に、それも戦争を挑発する内容の重大通告書を、なぜ部門違いの財務省の、たかが局長が作成できたのか。しかも、ハル当人でさえ、この原案を読んで、顔色を失ったくらいだ。

ヴェノナ文書によれば、これら反日政策を推進したカリー大統領補佐官もホワイト財務省通貨調査局長も、ソ連・コミンテルンのスパイであった。

かくして1941年(昭和16年)12月、日米戦争が勃発した。真珠湾攻撃の翌日の12月9日、中国共産党は日米戦争の勃発によって「太平洋反日統一戦戦線が完成した」との声明を出している。アメリカを使って日本を叩き潰すというソ連・コミンテルンの戦略は、21年後に現実のものとなったわけだ。

以上のように、近年、ヴェノナ文書やコミンテルンの公式文書、日本外務省の機密文書などが公開されるようになって、コミンテルンと中国共産党、「ソ連のスパイ」たちを重用したルーズベルト政権が戦前・戦中、そして戦後、何をしたのかが徐々に明らかになりつつある。戦争に突入していった日本外交だが、実は政府や軍人たちの多くは、不拡大方針だったのである。

満州事変の張本人である石原莞爾関東軍参謀が、「対支那では即時講和し、満州に引っ込む。対米開戦必至などという妄言は捨ておけ。勘違いするな。敵はソ連だ」と軍内部で声高に訴えていた。あの石原の声でさえ、かき消されてしまい、日本は意図せざる泥沼の戦争へと引きずり込まれていったのである。

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件をきっかけとして(これも、若き日の中国共産党元国家主席・劉少奇による謀略であることは、本人が生前自慢していたくらいだ)、泥沼の日中戦争が始まった。現地軍は松井特務機関長の奔走で停戦協定を締結し、戦争不拡大を確認したにもかかわらず、近衛は11日、朝日新聞などの報道陣、政党代表、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の首脳を招いて「北支派兵声明」を発表し、現地軍の停戦努力を台なしにしてしまった。

同じ11日に石原は、近衛に日中首脳の直接会談を提案した。泥沼化する日中戦争を直ちに止めるためには、日中首脳による一挙打開しかない、と判断したためだ。

しかし、この石原提案に広田弘毅外相は熱意を示さなかった。近衛は南京行きを最終的には決意して、飛行機まで手配した。だが、直前になって心変わりをして、蒋介石との首脳会談を取り消した。石原は激昂し、「この危機に優柔不断とは。日本を滅ぼす者は近衛である」と公言して憚(はばか)らなかった。

石原はこの後、戦争拡大の勢いの中で「不拡大」に固執し、そのために失脚する。それでも石原はあきらめなかった。太平洋戦争開始以降、最終的には戦争の即時停止のため、東條首相暗殺まで計画するが、決行当日、東條内閣総辞職で不発に終わっている。

日本は、この石原の例を見ても分かるように、まともな見識を持った軍人はいくらでも存在した(満州事変の張本人の石原でさえ、こうしたごく正論を主張していた)。しかし、それにもかかわらず、不思議なことにそれこそ坂道を転がり落ちるように、全面戦争へと突入していったのだ。あの異様な流れの謎は、ヴェノナ文書を読めば、かなり理解することができる。

なぜブッシュ大統領が、ヤルタ協定を「史上最大の過ちの一つ」と非難したことで、戦後の国際秩序の基本原則を揺るがすことになるのか。ヤルタ協定では国際連合を新設し、戦勝国(米英仏ソ中)主導で国際秩序を維持する、日独に対しては「侵略国家」として戦争責任を追及するとともに軍事力を剥奪し徹底的に封じ込める、という基本原則が確認されたからである。

GHQが憲法九条を強制したのも、東京裁判を実施して「侵略国家」というレッテルを貼ったのも、ヤルタ会談で確認された基本原則に基づいている。南京虐殺のような捏造も、すべて国際コミンテルンにしてやられた冤罪の可能性が高い。

戦後、まともな研究者たちの間では、なぜ第二次大戦の救世主であったはずのアメリカが、あの戦争によってすべてを失い(欧州東半分、中国全土、満州、朝鮮半島北半分、樺太、千島列島)、共産主義国家との泥沼の戦争を継続しなければならなかったのか。なぜ、戦勝国アメリカが、実質的には戦争に負けたのと同じ結果に陥ってしまったのか。なぜ、最終的な勝利者は、スターリンと中国共産党になってしまったのか。これらについては、長年疑問とされてきた。

ソ連政府承認、対日挑発、ヤルタ協定における過剰なほどソ連に有益な秘密協定、こうしたあまりにも不可解なルーズべルト政権の政策判断の謎に、明確な答え、種明かしを与えたのが、ヴェノナ文書だったわけだ。それは先述の、近衛内閣の、あまりにも異常なほど戦争に傾斜していった流れにも同じことが言える。

かくして後に、政治学者たちから「ヤルタ体制」と呼ばれるようになった戦後の国際秩序の出発点を、こともあろうに当事国であったアメリカのブッシュ大統領が正面から批判したのである。現職の大統領が自国の大統領が行なった外交政策を公式に非難するのは極めて異例で、国際社会でも少なからぬ反響を巻き起こした。

これに対してロシアのプーチン大統領は、2005年5月7日付仏紙フィガロで、ヤルタ協定について次のように評価し、ブッシュ大統領に対して正面から反論している。「米英ソの三首脳がナチズム復活を阻止し、世界を破局から防ぐ国際体制を目指して合意した。その目的に沿って国連も形成された」。もはやソ連もコミンテルンも存在しないものの、この文書がすべてにおいて現在のロシアにとって不都合な真実であり過去であることは言うまでもない。興味深いことに、プーチン大統領は、このヴェノナ文書が、捏造であるとか、でたらめであるとか、一切その真偽について否定発言をしていない。

このブッシュ大統領のリガ演説に対する、当のアメリカの反応はどうか。アメリカ最大の保守系オピニオン・サイト「タウン・ホール」に、「草の根保守」のリーダー、フィリス・シュラーフリー女史は2005年5月16日付で論説を書いている。

《ジョージ・W・ブッシュ大統領に感謝する。時期がだいぶ遅れたとはいえ、誤った歴史を見直して、フランクリン・D・ルーズべルト大統領の悲劇的な間違いのひとつを指摘し、よくぞ謝罪の意を表明してくれた。》

シュラーフリー女史は更に、この協定によって我々アメリカ人は現在、中国の共産主義帝国の台頭と北朝鮮の核開発に苦しまなければならなくなったとして、次のように訴えている。

《ルーズべルトの擁護者(主に民主党系のリベラル派)は、スターリンを日本との戦いに引き込むためにはこれらの譲歩が必要だった、と正当化しようとした。ヴェノナ文書は、その主張が間違っていたということを証明している。》

ヴェノナ文書は、ルーズべルト大統領自身が容共的であった証左として、大統領周辺には 約200人もの共産主義者、そのシンパが採用されていたリストを公開している。 その内容は生々しい。

側近No.2のハリー・ホプキンズなどは、モスクワでは「役に立つ間抜け」と言われていた。国務省のアルジャー・ヒスはヤルタ協定原案を作成した人物だが、ソ連暗号名は「アリス」。この人物は、ルーズべルト大統領、トルーマン大統領の情報をソ連へ提供。ヤルタ会談時にソ連から叙勲されている。国際連合憲章の起草者の一人である。書き出していったら、キリがない。日米の政府首脳が、いかにコミンテルンにいいように操られてしまっていたのか、こうなるともはや開いた口がふさがらないほどだ。

ルーズべルト大統領が大戦末期に死去した後、その周囲の共産主義シンパらは、連合国軍総司令部(GHQ)の民政局内部に局員として多数来日し、民主化という美名の下に“社会主義国家日本”を作ろうと暗躍した。そして、日本の精神的解体を画策(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム=戦争犯罪情報計画)していった。

しかし、ヴェノナ文書によって初めてソ連によるスパイ活動の存在が明らかになったわけではない。例えば、ヴェノナ文書公開のはるか以前から、それも開戦以前の1939 年(昭和14年)9 月にホワイト、ヒス、カリーを始めとする政府内ソ連スパイらは、連邦議会において実名で告発されている。ヴェノナ文書自体、公開前から一部関係者がその内容がリークされていたのだ。

しかし、戦前、米国の多くの知識人は、そうした「ソ連のスパイ活動」という告発を、「右翼勢力による根拠薄弱なでっち上げである」と主張。今でも、リベラルという「物分りのよい人士」たちは、こうした事実にできるだけ目を向けないようにしている。「不都合な真実」だからである。戦後のヴェノナ文書の完全公開は、こうした主張に鉄槌を下すことになったという意味で画期的であろう。

ルーズベルトの政敵であった共和党党首のハミルトン・フィッシュは、『日米開戦の悲劇』という本を書いており、1991年に亡くなる前、談話も残している。フィッシュは開戦当時、外交委員であるにもかかわらず、ル-ズベルトからハルノ-トなるものを日本に通告していることは、まったく知らされていなかった。フィッシュは、「あんなものを通告されたら、日本は戦争をするしかないだろう」と、語っている。

フィッシュは当時ハルノ-トのことを知らなかったため、真珠湾攻撃に対して米国民と一緒に、「非道なる日本撃つべし」と強硬に主張した。が、彼はその後40年にわたって日米戦争について研究を続け、驚くべき発見をした。それは日本に対して屈辱的な内容の「ハルノート」を書いたのが、後にソ連のスパイだと判明したハリー・デクスター・ホワイトであったことだと述べている。

このソ連・コミンテルンによる日米を標的とした、スパイによる国策壟断、無益な太平洋戦争への誘導といったものに対し、戦争途中で死去したルーズベルトに代わったトルーマン大統領時代には、「保守派」による猛烈な反撃が始まった。

日本占領軍総司令部GHQには、マッカーサーをして「在任中に出会った最も優れた知性派の将校であり、陸軍広しといえども将軍に続く人物を探し出すのが、まったく困難なほどずば抜けた人物であった」と言わしめたチャールズ・ウィロビー少将がいた。この人物が、日本においては、「赤化」を阻止し、それまで日本をズタズタにしかけていた占領政策の方針大転換を引き起こす要となっていく。

ウィロビーは、かなりソ連の対日工作や謀略の核心に迫っていた。GHQ における情報担当最高責任者として、彼はヴェノナ文書の内容を知っていた可能性もある。

この回想録は1973年に『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』という書名で番町書房から刊行された。その後長い間絶版となり、山川出版社から『GHQ 知られざる諜報戦 新版ウィロビー回顧録』という書名で、再刊されている。この回顧録には、日本人がマスコミなどで知らされてきた歴史とはまったく異なる見方が描かれおり興味深い。ウィロビーはこう書いている。

『この回想録をまとめるにあたって、私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。歴史の歯車がほんの少し狂ったせいで、本来、戦うべきではなかった米日が凄惨な戦争に突入したのだから。

私が書いたもののすべての基調となるのは、日本との戦争、あるいはドイツとの戦争は西側の自殺行為であったということである。たとえ日本がどんな誤りを犯すとしても、どんな野望を持つとしても、米国が日本を叩きのめすなら、それは日本という米国にとっての最良の防壁を自ら崩してしまうことになるのである。ところが、あの不幸な戦争の結果、ロシア、中国を牽制してあまりあったはずの日本およびドイツの敗戦のゆえに、現在(編注:1971年現在の意味)では、共産主義国家とされているソ連、かつての帝政ロシアそのままの圧政をしくソ連による異常な破壊転覆活動が、今日われわれにとっての頭痛のタネとなっているのである。

共産主義国家のいわゆる『革命の輸出』と呼ばれる破壊工作は、もし、わが国が日本を東洋の管理者、ドイツを西洋の管理者にしていたなら、けっして現在のような脅威の対象にはならなかったはずである。わが国はこれら二国と共同戦線を組むかわりに、破壊してしまったのだ。』

ソ連という国家が崩壊してしまったので、若い世代には分りにくいかもしれないが、ウィロビーの主張を一言でいうと、当時、米国にとっても日本にとっても、本当の敵はソ連であり共産主義であったということだ。ブッシュ大統領は、あのときリガで「歴史の修正」への第一声を挙げ、世界に一石を投じた。

アメリカは日本との戦いに勝利したが、5年後の1950年には朝鮮半島の38度線を挟んで共産主義勢力と対峙し戦うこととなってしまった。その朝鮮戦争終戦後もソ連・中共との冷戦が長く続くことになったのだが、ベトナム戦争も、冷静に歴史を振り返ってみると、ウィロビーの述べていることが正しいように思える。こうした機密文書が、少しずつ公開されていく。歴史は書き換えられるのである。

 ソ連共産党とコミンテルンの描いた野望にまんまと乗せられて、ヨーロッパから東アジアにかけて巨大な共産主義国家を生み出してしまった、日米戦争。日本が必死に抵抗してきたソ連共産主義勢力に、逆にスパイ工作と言う見えない戦争に翻弄されてしまい、敵を見失ってしまった日本と、同様にコミンテルンの毒牙にかかり、日独を敵にし、アジア、ヨーロッパへの覇権を完ぺきに崩されてしまったアメリカ。今でもその余波が中国と言う、ソ連に代わる共産主義帝国を生んでしまったのです。

 こうした表に出てこなかった歴史の真実が、明らかにされていくのは非常に好ましいことですが、私が最も懸念するのは、日本のメディアが殆ど取り上げないことです。まさかGHQによるプレスコードがまだ生きているとは思いませんが、日本だけが悪かったような「大東亜戦争罪悪論」を覆すだけのインパクトがある文書です、是非多くの日本人に知ってもらいたいと思います。

 もちろん日本に戦争の結果責任はありますが、開戦が日本の意図せざるところから誘導されたのだとすると、当然戦争当事国全部に責任があります。ましてや侵略戦争だの、だまし討ちだのと、罵られ、謝罪させられ続けてきた日本は、「日本だけが悪いのではない」と言ってしかるべきだと思います。だが「日本が悪かった」、と言い続けた、自虐史観のとりことなったリベラル識者や、それを後押ししたメディアが、まさか「日本は悪くなかった」とは口が裂けても言えないのでしょう。

 しかしそうは言っても公共放送NHKは、局内にうろつくサヨク分子や、蔓延する自虐史観にどっぷりつかった局員を押しのけて、絶対にこの文書の内容を報道すべきです。でなければ公共放送の看板を下ろして、受信料を返上すべきでしょう。なぜなら「公共放送」つまり日本の国旗を背負った放送局だからです。日本の屈辱を率先して晴らさねばならない使命があるものと思います。

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2020年8月17日 (月)

歴史上最大の誤り「ヤルタ会談」とコミンテルンの工作に屈した日米両国

177078   今回は前回に続いて「ヴェノナ文書」を取り上げたいと思います。前回のブログで、江崎道朗氏のコラムの中で述べられているように、「ヴェノナ文書」とは「1940年から44年にかけて、アメリカにいるソ連のスパイとソ連本国との暗号電文をアメリカ陸軍が密かに傍受し、43年から80年までの長期にわたってアメリカ国家安全保障局(NSA)がイギリス情報部と連携して解読した「ヴェノナ作戦」に関わる文書のこと」です。

 その膨大な文書の中から、ストラテジストであり小説家の松川行雄が取り上げたコラム『ヴェノナ文書~無かったことにしたい真実、その1』(19/9/28)を引用して以下に掲載します。戦前、戦中のソ連共産党とコミンテルンのスパイ工作に翻弄される、日米の姿が浮き彫りになっています。

少々長い読み物(全2回)になってしまいますが、かなり衝撃的な史実なので、敢えて連載させていただきます。謀略というものは、都市伝説などではないということを、この驚くべき事実が訴えています。教科書も、歴史も、書き換えられなければならないでしょう。

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2005年5月7日のこと。米国ブッシュ大統領は、バルト三国のラトビアの首都リガ市内で演説した。そこで第2次世界大戦末期、1945年に米英ソの3首脳が戦後の世界統治のあり方を協議したヤルタ会談での合意について、「歴史上最大の誤りである」と批判した。(注:ヤルタ会談=米国ルーズベルト大統領、英国チャーチル首相、ソ連スターリン最高指導者の三者会談)

戦前の、英独のミュンヘン協定では、ナチスの矛先が英仏に向けられるのを避けるためにヒトラーの関心を東欧へと向けさせ、ポーランドをはじめとする東欧諸国や、バルト三国の独立性を犠牲にした。その後、第二次大戦中、1945年(昭和20年)2月、米英ソ連の首脳がヤルタに集まり、ドイツ降伏後の世界体制について密約がなされた。

その内容は、結局、バルト三国がソ連に再び併合されることを容認したものだった。なぜ米国(ルーズベルト大統領)がそこまでソ連に譲歩したのかというのは、米国においてさえ、これまで疑義が呈されている大きな謎だ。

ただ、一つの重要なその理由として言われてきたのは、最後まで戦っていた日本にとどめを刺すため、ソ連の対日参戦を促すというものだった。その交換条件として、南樺太と北方領土および千島列島全域のソ連への「引渡し」を合意した点である。

それにしても、なぜそこまでソ連の参戦が必要だったのだろうか。正直、その必要はなかったのだ。すでにドイツは降伏寸前だったから(ドイツは3ヶ月後に降伏)、米軍は太平洋に主力を集中させることが可能になりつつあった(日本は半年後に降伏)。

なるほどソ連が日本に参戦すれば、日本のショックは大きい。しかし、現実には、ソ連の参戦前に米国は原爆を投下したではないか。広島は8月6日、長崎は9日である。ソ連の対日参戦は、この9日だった。それも、日本の降伏拒否が長引けば、広島、長崎の二都市に留まらず、全土での使用を予定されていた。ソ連の参戦の必要性は、どう考えてもなかったのである。

あらかた、大勢の決まったあの段階で、最後の最後にソ連を極東の戦争にも関与させてやり、大きな利権と戦勝国としての発言権を得る地位を与えた。この点、ヤルタ協定は歴史上その必要性について、大変多くの議論を巻き起こしてきた。なぜルーズベルト大統領は、そこまでしてソ連に「媚(こび)」を売る必要があったのか。

ブッシュ大統領がリガで演説したその内容は、このヤルタ協定が、その後の長い冷戦時代、東欧におけるソ連の圧制を生む諸悪の根源と非難しているものだった。またヨーロッパの東西分割を認めたことに、アメリカも一定の責任を持っているとの認識を示した。直接、極東におけるソ連の対日参戦や、北方領土などの問題にはこの演説では触れていないが、ヤルタ協定に疑義を呈するということは、極東問題に疑義を差し挟んだのと同じである。

ただ、演説した人物が不人気なブッシュ大統領だったということで、あまりその後、大きな波紋を呼んだ形跡はなく、やり過ごされた観がある。とくに米国のリベラル派(民主党に多い)にとっては、民主党政権(ルーズベルト政権)が行なった第二次大戦だけに、汚点や暗部を暴き出すことには消極的だったようだ。冷ややかに聞き流した程度だった。

しかし、よく考えてみよう。ニューディール政策に失敗して後がなくなったルーズベルト大統領にとって(教科書では、1929年大恐慌からアメリカが復活したのは、ニューディール政策のおかげだと書いてあることが普通だが、完全に間違いである。一時的効果しかなく、その後はもっとひどい経済不況に陥った事実が見逃されている)、あの戦争はドイツ第三帝国を叩き潰し、欧州大陸の経済支配を進めたいというのが眼目であった。さらに、アジア・太平洋においては、日本を排除して、中国大陸の経済支配を進めたいというのが直接的な動機だった。大戦争に参加することで、空前の軍需景気を引き金として、欧州・中国の商圏を獲得し、1929年以来の大恐慌からの脱却を目論んだものだったことは言うまでもない。

では、あの戦争で最大の勝利者は誰であったろうか。言うまでもなくスターリンのソ連である。米国は欧州の東半分を失い、中国市場のすべてを失い、日本が明治以来、連綿と死守してきた朝鮮・満州という防波堤を失った。結局、ソ連・共産主義の膨張を許し、朝鮮戦争で慌てて、かつて日本が築いた防波堤の奪回を試みるが失敗し、38度線でぎりぎり食い止めたにすぎない。結果的に、日本が築いたものの半分すら取り戻せずに終わっている。

その意味で米国は、あの戦争では敗北したのと同じである。それは遡れば、ルーズベルトが大統領に就任して、最初に行なった不可解な判断に帰することができよう。それは、米国のソ連承認である。1933年、ルーズベルトは、就任早々、共和党などの反対を押し切ってソ連政府を正式な政権として承認した。このルーズベルトの変節は、米国史においても特筆すべき、外交戦略の大失策であったと言っても過言ではない。

では、なぜ、ルーズベルトはそうした徒労の情熱に邁進してしまったのだろうか。この大きな疑問に答える決定的な証拠が出てきたのである。その名は、「ヴェノナ文書」。米国政界や歴史学界を、驚愕させた機密文書である。

すでに過去のことでもあり、これが現在、何か差し迫った問題を生じさせているということはない。ただ、歴史を正しく見直すのであれば、この文書の意味は、これまでの歴史認識を根底から覆す威力を持っている。

ヴェノナ文書とは、第二次世界大戦前後の時期に、アメリカ国内のソ連のスパイ・工作員たち(各国共産党代表による「国際コミンテルン」という実行部隊)が、モスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、アメリカ陸軍情報部が秘密裡に傍受し、解読した記録である。1995年、アメリカ国家安全保障局(NSA)が公開した。

冒頭のブッシュ大統領のリガ演説も、この文書によって明らかになった事実に基づきなされたと考えられる。これによって、太平洋戦争に道筋をつけた日米指導者、つまり近衛文麿首相とルーズベルト大統領の周囲は、驚くべきことに、コミンテルンによってがっちり固められていたことが判明したのだ。

「ヴェノナ文書」の公開以降、米国内では、「ルーズベルト政権はソ連や中国共産党と通じていたのではないか」という古くからの『疑念』が、確信へと変わりつつある。当然、当時をめぐる歴史観の見直しも進んでいる。しかも、そのピッチは近年、急加速していると言ってよい。

この場合、工作員(スパイ)とは、共産主義へのシンパ、共鳴者だ。そして、他国の国家・政府の内部にこのシンパを増殖させることで、戦前のソ連は大成功した。工作員たちは、自国において共産主義革命を起こすために、さまざまな情報をソ連に流し、陰謀を図った。それは、自国への裏切りなのではなく、純粋に世界共産主義革命という信仰ゆえの“大義”だったのである。

事の始めはなんといってもソ連だ。ロシア革命の大立者・レーニンは1919年(大正8年)、世界共産化を目指してコミンテルンを創設した。別名「第三インターナショナル」と呼ばれるもので、共産主義政党による国際組織である。もともとは、各国の共産主義者の代表の集まりだったが、レーニン以降はソ連共産党による世界革命、あるいはソ連防衛のための国際謀略組織と化した。

日米各界に大量のスパイを潜り込ませたレーニンは、1928年(昭和3年)、コミンテルン第6回大会でこのように述べている。

「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々母国政府の政策失敗と、この戦争を内乱化させることを主要目的としなければならない。戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、

①自国政府の敗北を助成すること。

②戦争を自己崩壊の内乱戦にすること。

③民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるから、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

この革命的前進を阻止するような『戦争防止』運動は、徹底して妨害しなければならない。」

さらに昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会で、スターリンは次のように述べている。

「ドイツと日本を暴走させよ。しかし、その矛先を母なるロシア(ソ連)に向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして、戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って進んだ跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」(有名な「砕氷船理論」)

しかしソ連は反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。そして日本を中国とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占める戦略を立て、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で条約を破棄し、それぞれに宣戦布告している。

これは「砕氷船理論」のシナリオ通りで、最初から強国同志(日・独vs米)を争わせて疲弊させ、日・独が荒らしまわった地域と日独両国を共産主義陣営に取り込もうと考えていた。ソ連はわが国のみならず、欧米諸国に多数の工作員を潜り込ませ、さまざまな工作活動を行なっていたことが次第に判明しつつある。

ソ連主導によるコミンテルンは、各国に潜伏するその共産主義スパイ(コミンテルンの実行部隊)によって、自分たち自身の祖国を敗戦に追い込むことが、第一義的な目標となった。この謀略の重点対象国が、日本とアメリカだったのである。この戦略を遂行するため1919年9月、コミンテルン・アメリカ支部としてアメリカ共産党も設立されたのである。ちなみに、その結成にかかわったのは日本人の片山潜(かたやま せん)である。

1931年(昭和6年)、アジアで満洲事変が勃発し、ソ連は日本と国境線を挟んで直接対峙することになった。日本の台頭に恐怖を覚えたコミンテルンは1932年(昭和7年)2月、日本と戦う中国を支援するとともに、対日経済制裁を起こすよう各国の共産党に指示した。驚くべきことに、この動きに呼応するように、米ルーズベルト大統領も1933年(昭和8年)、議会の反対を押し切ってソ連との国交を樹立したのだ。

実は、アメリカ共産党をはじめ、まったく政治的な主義主張とは本来無縁の、しかし権威ある研究所や財団などに、コミンテルンの指示を受けたさまざまなスパイが入り込み、ルーズベルト政権をがっちり固めていく過程が、この1930年代には進行していた。ヴェノナ文書によって明らかになった事実は、想像を超えるほど戦慄的なものであり、詳細はここでは割愛する。興味のある方は、一度PHP研究所発行の『ヴェノナ』をお読みいただきたい。

ルーズベルト自身は、1929年(昭和4年)の大恐慌後に、ニューディール政策で米国経済の建て直しを試みたが、わずか3年有効だっただけで失敗。強烈に戦争介入による軍需景気を熱望していた。一方、先祖が、中国人奴隷の米国移入商売で財をなしたということが、個人的には大きな精神的な負い目となっていたようだ。このため、ことのほか親中国(反日)的な心情にあった。ここに、コミンテルンがつけこんだ、ということであろうが、そのコミンテルン人脈(つまり、ソ連のスパイ人脈)たるや、ヴェノナ文書は背筋が寒くなるような事実を明らかにしている。

在ニューヨーク日本総領事館が作成した昭和15年( 1940年)7月付機密文書『米国内ノ反日援支運動』によれば、「中国支援評議会」の名誉会長に就任したのは、ジェームス・ルーズベルト夫人だった。ルーズべルト大統領の実母である。表向きはこのルーズべルト大統領の実母が役員を務めた「中国支援評議会」だが、その実態はやはりアメリカ共産党の外郭団体だった。他の常任理事には、フィリップ・ジャッフェや冀朝鼎ら、ヴェノナ文書によって明らかになった「ソ連のスパイ」が就任している。

ただ、当時の一般のアメリカ人たちの目には、ジャッフェもプライス女史も中国救援に熱心な人道主義者、民主主義者と映っていたに違いない。中国支援評議会の活動に協力したアメリカ人は約300万人とも言われているが、アメリカの大多数の国民は見事に騙されていたわけだ。

キリスト教関係者を前面に出しながら、その実態は中国国民党の工作員とアメリカ共産党関係者によって構成されていた「アメリカ委員会」は、『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』と題したブックレットを6万部、『戦争犯罪』と題したパンフレットを2万2000部作製し、連邦議会上下両院のあらゆる議員やキリスト教団体、婦人団体、労働組合などに配布し、大々的なロビー活動を開始した。

このロビー活動を受けてルーズベルト政権は、中国支援へと舵を切っていく。ルーズべルト大統領は1938年12月、「対日牽制の意を込めて」、中国国民党政府に2500万ドルの借款供与を決定したのである。

一方、日本外務省はと言えば、アメリカでの反日活動の背後にアメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを正確に分析していた。若杉要(わかすぎ かなめ)ニューヨーク総領事は1938年(昭和13年)7月20日、宇垣一成(うがき かずしげ)外務大臣に対して、「当地方ニ於ケル支那側宣伝ニ関スル件」と題する機密報告書を提出、アメリカの反日宣伝の実態について次のように分析している。

《シナ事変以来、アメリカの新聞社は「日本の侵略からデモクラシーを擁護すべく苦闘している中国」という構図で、中国の被害状況をセンセーショナルに報道している。・・・共産党は表向き「デモクラシー擁護」を叫んで反ファシズム諸勢力の結集に努めており、その反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている。アメリカ共産党の真の狙いは、デモクラシー擁護などではなく、日米関係を悪化させて支那事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に対して軍事的圧力を加えることができないようにすることだ。》

若杉総領事はこう述べて、近衛内閣に対して、「ルーズべルト政権の反日政策の背後にはアメリカ共産党がいる」ことを喝破・強調し、共産党による日米分断作戦に乗らないよう訴えたのだ。

ルーズべルト政権はその後、反日世論の盛り上がりを受けて1939年(昭和14年)、日米通商条約の廃棄を通告。日本はクズ鉄、鋼鉄、石油など重要物資の供給をアメリカに依存しており、日本経済は致命的な打撃を受ける可能性が生まれてきた。

つまり、ルーズべルト政権の反日政策に反発して、もしも近衛内閣が反米政策をとるならば、結果的に「スターリンによるアジア共産化に加担することになるから注意すべきだ」と、若杉総領事は訴えたのだ。しかし、その声に、近衛内閣は耳を傾けなかった。なぜなら、近衛首相もまた、周囲をがっちりとコミンテルンの工作員たちによって、固められていたのである。

そもそも、近衛文麿(このえ ふみまろ)という人物は、皇室に最も近い公家出身であり、世間知らずの名門富裕階層にありがちな、プロレタリア革命への心理的な同情という致命的な性格的欠陥に冒されていた。東大卒業後、京大に飛んだ理由も、社会主義学者・河上肇(かわかみ はじめ)に師事するためだったくらいだ。

左翼的であることがインテリであるかのような妄想が、この時代にはあった。戦後ですら、ずっとその風潮は続いていた(アメリカでも「物分りの良い」リベラルであることが、インテリの証かのような風潮が現在も一般的である)。この結果、近衛は数多くの左翼運動家と関係を持つことになる。その延長線上に、尾崎秀実(おざき ほつみ)やゾルゲが登場してくるのだ。

若杉総領事の報告書が届いた翌日、近衛内閣は、すでに政策顧問として重用していたゾルゲ・グループの尾崎秀実ら「昭和研究会」メンバーの影響を受けて、アジアから英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要項」を閣議決定する。

そして、翌1941年4月13日には日ソ中立条約を締結するなど、あろうことかソ連と連携しながら反米政策を推進していった。このゾルゲ、尾崎らがソ連コミンテルンに加担していたスパイであったことは、米国資料を待たずとも、はっきりしている。その後スパイ容疑で逮捕されたときの尾崎の「イデオロギーに殉じる」という自信に満ちた、2時間以上にわたる誇らしげな調書によって、それは明白な事実である。

ちなみに、ナチスとソ連のダブルスパイだったゾルゲは、最終的にはソ連の工作員となっている。ノモンハン事変で、日本軍部はソ連軍に敗退したと「錯覚」したため対ソ強硬論が消えうせ、南進論に転換していった。このことをソ連に連絡し、「日本に北進の意図なし」という確信を、スターリンに与えたことは有名である。スターリンはこのゾルゲの連絡で、後顧の憂いなく、将来の対ドイツ総力戦を模索していくことができるようになったのである。

尾崎秀実の裏の顔は、中国共産党シンパの米女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレー(代表著作『中国の歌ごえ』)と親交を持った、筋金入りの共産主義革命家である。戦後、スメドレーが尾崎の刑死を知り、「私の夫は死んだのね」と泣いたそうであるから、男女の仲でもあったようだ。

このスメドレーがコミンテルンであったことは言うまでもない。尾崎は、コミンテルンの方針通り、日本を戦争に煽り立て、米国との総力戦に誘導し、日本や中国で共産主義革命が勃発するように仕向けようとした。そのために使った擬態が、「極右的」なイデオロギーの主張だったのである。

尾崎の表向きの言説を振り返ると、あたかも愛国、右翼、軍国主義そのものである。以下の通りだ。

「蒋介石政権は、軍閥政治であり、相手にする必要はない。」《「中央公論」1937年(昭和12年)7月号》

「(中国との戦争は)局地的解決も、不拡大方針も、まったく意味をなさない。中国との講和・不拡大方針には絶対反対。日中戦争の拡大方針を主張する。」《「改造」同年9月臨時増刊号》

「日本国民に与えられている唯一の道は、戦いに勝つということだけだ。他の方法は考えられない。日本が中国とはじめたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかない。・・・中国との講和条約の締結に反対する。長期戦もやむをえず、徹底抗戦あるのみ。」《「改造」1938年(昭和13年)5月号》

日本を戦争へ、戦争へと煽り立てていった当時の「右翼」たちの中には、相当数、こうした共産主義者たちの「擬態」があった可能性が指摘されている。

たとえば、戦前、もっともこうした過激な大陸侵攻論を主張していたのは、メディアの中では朝日新聞である。社内にこうしたコミンテルン、あるいはコミンテルンのシンパがいたとしても、なんら不思議ではない。終戦直後、朝日新聞が手のひらを返したような、左翼的な論調に早がわりしたことこそ、その傍証であろう。現在も、まだその精神文化は厳然として受け継がれている。

共産党機関新聞の「赤旗」ならまだ良い。旗幟(きし)鮮明だからだ。しかし、美辞麗句で擬態をつくり、実はその本質が母国を貶(おとし)め、危機に陥れ、共産化させようなど、当時の言葉で言えば「売国」のそしりを免れないだろう。

この正真正銘の共産主義者・尾崎秀実の、「右翼・愛国的」人士としての「擬態」は完璧なものだった。裏の活動については、同僚はもちろん、妻さえ、まったく気づくことはなかったのだ。尾崎の例を長々と紹介したが、こうした類いの工作員やそのシンパは、恐るべきことに陸軍参謀部内にもいたのである。

 松川行雄氏のこの長文のコラムは、まだ続くわけですが、ここまでですでに日米開戦を裏で操っていたのは、ソ連共産党とその工作員たちの暗躍にあり、又彼らに洗脳されそれを受け入れてしまった日米首脳の姿が、浮き彫りになっています。

 現実には、日本側においては開戦時の首相は東条英機であり、天皇から戦争回避を希望する意思を示されたことから、対米交渉妥結を期待していた面はありました。しかしハルノートに見られるように、最後通牒とも思える文書をルーズベルト政権がわざわざ出して、開戦を誘導したことに対しては、軍人である彼はさすがの天皇の意思と言えども、回避はかなわぬ状況になったと判断し、開戦に至るわけです。

 この太平洋を挟む、当時としては2大大国を開戦に導いたソ連共産党・コミンテルン工作員の力はすごいと言わざるを得ません。もちろんこの2国における当時の国内事情が背景にありましたが、それをうまくソ連の国益のために開戦に結び付けたのは、何ともすさまじいスパイ工作力と言うほかはありません。


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