三浦瑠麗氏:「安倍元首相は2度、暗殺された」 死後も故人を誹謗し続ける異常な反安部一派
安倍元首相暗殺事件から半年が過ぎました。容疑者の山上徹也容疑者は本日13日起訴される予定です。この日本で起きた暗殺テロ事件、戦後の大政治家を失ったと言う事件なのに、何故か悲しみに暮れる一方で、日本を分断するある種の勢力がその凶行を覆い隠し、死者を愚弄するような動きを示しています。
その不穏な動きとは何でしょう。それに関し国際政治学者の三浦瑠麗氏が、産経新聞に寄稿したコラムで所見を述べています。タイトルは『安倍元首相は2度、暗殺された』(1/11公開)で、以下に引用します。
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2022年に起きた安倍晋三元首相の暗殺事件は、日本政治の特殊性をあらためて思い知らせる出来事となった。それは、安倍氏が二度暗殺されたように見えるからである。一度目は突然に生命を奪われ、二度目は死者の抗弁不能性を利用する形で。
政治指導者の暗殺事件それ自体は、先進民主主義国においても存在しないことはない。米国のジョン・F・ケネディ大統領はソ連に亡命歴のある元海兵隊員に殺害され、その弟のロバート・ケネディ上院議員はイスラエル支援を理由に殺された。明白な政治イデオロギーによる暗殺では、イスラエルのイツハク・ラビン首相が自国民の和平反対派に命を奪われ、イタリアではアルド・モーロ元首相が極左テロ集団「赤い旅団」に誘拐され殺された。日本でも今世紀に入ってから他に政治家が二人、暴力団員や右翼団体の人間によって殺害されている。それでも、安定したデモクラシーにおいて暗殺は稀だというのは事実であり、こうした事件の裏にはいずれも特異な性格や政治・社会的背景に基づく凝り固まった思考の犯人の存在があった。
義憤や憎しみに駆られて会ったこともない人を殺す――というのはよほどの信念やイデオロギーが絡んでいるか、何か犯人の精神のうちに歪んだ不安定さがなければならないだろう。ケネディ兄弟暗殺事件の犯人像については、なぜ究極の手段である殺害の決心を固めたのか、理解しがたいものとして語られることが多かった。だからこそ、過剰な合理性を推定した陰謀論も広まりやすい。
反対に、犯人が偶像化される場合もある。例えば、伊藤博文を暗殺した安重根は韓国では英雄の扱いを受けている。しかし、それも犯人が民族なり宗教なりネイションなり、一定の集団を代表している場合のみである。安倍氏は論争的な政治家ではあったが、日本の左右対立は暗殺を招来するほどのっぴきならないものではない。だから、安倍氏の暗殺に際し当初広がった感情は、左右を問わず信じがたい衝撃であったのだ。
自民党の反応は当初混乱していたが、執行部の判断は最終的に真っ当なものだった。怨恨の線が濃厚な単独犯の感触が警察からもたらされると、自民党執行部は選挙戦を再開し、民主主義のプロセスを守り平常通り投票が行われるよう気を配った。主要野党の党首らも口々にお悔やみの言葉を述べ、同情の言葉を欠かさなかった。
だが、人間は一言目に何を言うかではなく、二言目に何を言うかが肝要だ。二日後の日曜日には、暗殺がもたらす精神の動揺に何らかの理由を見出そうとする心の働きがそこかしこに観察され始めた。すぐ目の前に亡くなった人がいるのに、他の死を持ち出して「命は平等だ」と指摘することで、安倍さんという固有の死を相対化しようとする言説も浮上した。凶弾に斃(たお)れた姿に「政治家の宿業」を感じたとコメントする人もあった。また、安倍政権に対抗陣営から向けられた憎しみが原因となったとして、古くからの敵に矛先を向ける人もいた。私のもとには週刊誌から「安倍さんの何が死に至った原因だと思うか」という取材が舞い込んだ。
反論できない死者への名誉侵害
怨恨や誇大妄想などから飛躍して殺害の決心に至った犯人の動機を、社会的要因からのみ説明しようとするアプローチには常に危険が潜んでいる。すべての殺人犯には社会的背景があるが、すべての殺人犯にならなかった人にも社会的背景があるからだ。そのうえ、新たに注目を集めようとして殺人を犯す犯罪者を促してしまう可能性すらある。
安倍氏の殺害を社会問題の発露として整理しようとする動きは、一歩間違えば死者とそれを取り巻く遺族の当事者性の簒奪(さんだつ)ともなる。尊厳ある一人のリーダーの死に対して、抗弁可能性がないのをいいことに、過度に侵襲的な言説も横行した。それらの否定的言説は、まるで安倍氏という存在が暗殺を経てより強い求心力となることを恐れているかのようであった。
日本は元々多元的社会であり、官邸一強といわれた安倍政権でさえ、日本の中心として統治することはできなかったのだが、安倍氏という一つの大きな中心―岸田文雄首相が考えるところの楕円のもう一つの中心―が失われたことで、元々ある、「中心」を作り出すまいとする日本社会特有の脱中心化の動きがさらに強まったのかもしれない。
性暴力被害を受けた人の気持ちをさらに傷つけることをセカンド・レイプと呼ぶが、安倍氏は凶弾に倒れただけでなく、セカンド・アサシネーション(暗殺)にも晒された。安倍氏が死後に受けた様々な名誉の侵害は、まさしく「第二の暗殺」とも言える現象だった。政敵に対するテロを不条理な暴力として一丸となって非難し退けるのではなく、死者に対して毫(ごう)も尊厳を顧みることなく帰責性を認定しようとする姿勢。それは、社会に存在するある種の醜さ、つまり相手の不幸を願い足を引っ張る態度として浮かび上がる。日本社会は嫉妬によってしばしば突き動かされており、死んでしまった人はまさに口なしの状態に晒されるのではないか。そうした恐ろしさを覚える年であった。
遺した足跡まで〝亡きもの〟に…
だが、安倍政権の評価はその長所も短所も含めて、歴史に記憶しておかねばならない。2022年は日本の防衛費の倍増と打撃力の保有へ向けて道筋が敷かれた年でもあった。安倍政権のあいだに世界は大きく変わった。戦後ずっと対米距離感で語られがちであった日本のナショナリズムは、対中距離感によって定義されるようになった。第一次安倍政権が目指した戦後レジームからの脱却は、世界の潮流が変わり、日本がそれに応じて変貌していく中で8割方成し遂げられたと言ってもいい。安倍政権は日中の戦略的互恵関係を定義し、インド太平洋構想を打ち出した。米国との歴史和解を完成させ、戦後70年談話では保守がリベラルに歩み寄って豊かな言葉で歴史認識を語ることで、歴史論争に区切りをつけた。
安倍首相は米国が抜けた後のTPP11(11カ国の環太平洋戦略的経済連携協定)を主導し、幅広い分野にわたる経済合意をまとめた。国内の経済改革は道半ばであった。ただし、アベノミクスにはその副作用が見えるにせよ、株価は3倍になり、失業率はほぼ完全雇用を達成し、女性活躍も進んだ。彼が敷いた路線であるところのインド太平洋構想と、QUAD(日米豪印の協力枠組み)の取り組み、中国との共存戦略はいまも持続している。
セカンド・アサシネーションは、憲政史上最長の安倍政権の足跡を、旧統一教会との関係という一点に意味合いを集約することで、亡きものにしようとする動きに基づいていた。現状の全否定はいつの時代にも暴力を招き寄せる。不正に対する「世直し」と見ることで、暴力を免罪しようとする動きに繋がるからだ。しかし、暴力や憎しみに加担する感情に未来はない。仮に救いがあるとすれば、後世の日本人は安倍首相の遺した足跡をもう少し正当に評価することができるかもしれない、ということだろうか。
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私は安部元首相の最大の功績は、戦後GHQとその日本人シンパが作り上げた「戦後レジーム」を、変えようとしたところにあると考えています。それが安倍氏の政治信条であり、作られた「自虐史観」から「日本古来の伝統や文化」を取り戻すことだったと思います。
ところがその「自虐史観」にはまり続け、かつそれを利用しようとする外国勢力に加担する、学会やメディアや放送界の勢力が、安倍氏に過度に反応し、存命中のみならず、三浦氏の指摘の通り亡き後まで誹謗しているのです。
私は一部の、山上犯人説を疑う意見にも興味を抱いています。山上容疑者の所持した銃の発射時の動きの不自然さや、不明な銃弾の行方、また安倍氏の銃創の角度等における不可解な点などを指摘し、他からの銃撃があったのではないかという説です。銃撃音の音響解析においても山上容疑者の銃とは異なる音が認識されているようです。これはいまだ確たる証拠とはなっていないようですが。
山上容疑者の背後に大きな闇の勢力があり、山上容疑者の暗殺日以前の様々な動きも、その闇からのシナリオに沿った指示による演技だとすれば、彼はあくまで操り人形だったのかも知れません。逆にそうであれば、彼が突然、安部元首相襲撃に至る理由がはっきりします。ただこれはあくまで推測ですが。
いずれにしろ、日本を普通の国にしようと生涯かけて頑張ってきた安部元首相と、そうしてはならじと逆に彼を貶めたい一派(海外も含む)との戦いが、この暗殺事件で終焉を迎えてしまいました。今後安部元首相の意思を継ぎ、その理念を追求し続ける政治家の登場を心から願っています。
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